第4話 捨てるもの
天文二十四年、一月。
「又六郎が、また何か言うておったそうだな」
吉田から北村へ向かう道すがら、義久が笑いながら言った。
「帰順の話か」
隣を進む義弘が振り向く。
「そうです。どうにも怪しい、と」
「又六郎らしい」
「まったく、あの男は疑い深い」
蒲生方の北村城主・北村清康から、島津へ帰順の申し出があった。
蒲生方から島津方に付き、貴久を城へ迎え入れるという。
蒲生を攻める島津にとって、北村城を戦わずして手に入れられるなら、これ以上ない好機だった。
貴久たち島津勢は兵を率いて吉田城へ入り、そこからさらに北村城を目指していた。
「又六郎は何が気になるのであろうな?」
義久の問いに、義弘は顎に手を当てた。
「話が上手すぎる、と」
「それだけか?」
「それだけです」
義久は首を傾げた。
「あちらは人質を二人も差し出したのだぞ」
「俺もそう言ったのです」
義弘が肩をすくめる。義久は口元を緩めた。
「まあよい。又六郎が疑うのであれば、疑わせておけばよい」
「甘いな、兄上は」
「そうか?」
「あやつ、放っておけば飯に毒が入っておらぬかまで考え始めますぞ」
「その時は先に又四郎が食えばよい」
「なぜ俺なのです!」
「もし毒が入っていても効かぬであろう」
「兄上!」
義久が声を上げて笑った。
義弘も呆れたように笑う。
穏やかな冬の日だった。
風は冷たいが、空は晴れている。
田畑の向こうには山々が連なり、その間を島津の兵が進んでいた。
「……又六郎の懸念もわかるが、岩剣城が落ちたのだ。北村も島津を畏れたのであろうよ」
「岩剣ですか……」
義弘の笑みが消えた。あの女子供が身を投げた瞬間がいまだに忘れられぬらしい。
だが、その顔が不意に変わる。眉がキッと上がった。
「…………」
「又四郎?」
義弘は答えない。
静かに腰の太刀へ手をかけた。
義久が怪訝な顔をする。
「どうした?」
「静かすぎる……」
次の瞬間だった。
空気を裂く音が森から届く。
矢が二人の馬の前方の地面へ突き立った。
馬が驚いて嘶き、前脚を上げる。
「敵か!?」
義久が叫ぶ。
山肌から鬨の声が上がった。
「かかれぇっ!」
「島津を逃がすな!」
「貴久を討て!」
それまで人影一つなかった斜面から、兵が次々と姿を現す。
前も左右も敵の旗が揺らめいていた。
「囲まれている!」
島津の兵に動揺が走った。
「慌てるな!」
義久が叫ぶ。
「固まれ! 勝手に動くな!」
義弘はすでに太刀を抜いていた。
「又三郎兄上!」
「分かっている!」
義久も刀を抜く。
罠。その言葉が、義久の頭をよぎった。
「してやられたか……!」
「悔やむのは後です!」
義弘が迫った敵兵の槍を弾き、その懐へ踏み込んだ。
「今は生きて帰る!」
義弘が一閃し、敵兵が崩れ落ちる。
だが一人斬ったところで、その後ろから二人、三人と現れる。
義弘が舌打ちした。
その時だった。
――ドォン!
山間に、轟音が響き渡った。
攻め寄せていた兵たちの動きが、一瞬止まる。
「種子島!?」
義弘が音の方へ振り向いた。
馬蹄とともに土煙が上がっていた。
そして煙の向こうから、旗が見えた。
丸に十の字。島津の旗だった。
「島津勢だ!」
「味方が来たぞ!」
鬨の声が上がる。
その先頭を、一騎の若武者が駆けてきた。
「又六郎!」
義久が目を見開いた。
◇
少し前。
歳久は兄たちよりも後方で、数騎と徒歩の兵を率い、北村へ向かっていた。
馬上の歳久の手には、一丁の鉄砲があった。
叔父・忠将から借り受けたものである。
『お主ならば上手く使えよう』
叔父はそう笑った。
「…………」
歳久は馬を進めながら、しきりに左右を見ていた。
田畑、その畦道。そして遠くの山。
「若様?」
傍らの小姓が不思議そうに声をかける。
「どうなさいました?」
歳久は答えずに、馬を止める。
「若様?」
ひらりと降りると、歳久は畦道へ歩み寄り、しゃがみ込む。
雑草が所々、倒れていた。その場所へ、足を当てる。
「多い」
「……は?」
小姓が覗き込む。
倒れた雑草は全て同じ方角へ向いていた。
——足跡であろう。
それも雑草が踏み固まるほどの数だ。
歳久は立ち上がった。
「この人数が畑仕事をしていたとは思えぬな」
足跡は山の方へ続いている。
歳久はその先を見た。
山には木々が生い茂り、鬱蒼とした森が寒風に揺れていた。
きらりと、何かが陽光を返した気がした。
歳久の背筋を冷たいものが走る。
だが、迷いはなかった。
「若様?」
歳久は鉄砲の火縄に火を付けるや否や馬へ飛び乗った。
「皆、武器を取れ!」
兵たちが一斉に歳久を見る。
「若様、何事で――」
「敵だ! 囲まれているぞ!」
歳久が手綱を引く。
馬がいなないた。
「ついて来い!」
歳久の馬が駆け出す。
小姓たちは一瞬呆気に取られ、すぐにその後を追った。
「若様に続け!」
前方から刀剣のぶつかる音がした。兄二人がそこにいるはずだった。
歳久は種子島を握り、隣で馬を走らせる者を見た。
「お主、撃てるか!?」
「はっ……? はっ!」
歳久は種子島を家臣へ投げ渡した。
すでに弾は込めてある。
「一発でよい! 当たらずとも構わぬ!」
「は?」
「音を聞かせろ!」
馬上で構え、火縄を落とす。
――ドォン!
戦場を割るような音が轟き、敵も味方も一瞬、こちらを見る。
「今だ!」
歳久が太刀を抜いた。
「かかれ!」
歳久の隊が敵陣へ飛び込んだ。
◇
「又六郎!」
歳久が義久と義弘の傍らへ馬を寄せた。
「又四郎兄上!」
「なんじゃ!」
「父上のもとへ!」
弟の言わんとすることを察し、義弘の顔が引き絞られ、目つきに鋭さを増す。
歳久が言い終えるより早く、義弘は馬の手綱を握った。
「ここを頼む!」
それだけを言い残し、馬の腹を蹴る。
敵兵の間を縫うように、義弘は貴久のいる方角へ駆けていった。
歳久は義久を見る。
「又三郎兄上もお逃げください!」
「お主はどうする!?」
「私がここで食い止めまする!」
「ならば俺も残る!」
「なりませぬ!」
歳久が怒鳴った。
義久が目を見開く。
「兄上は島津の嫡男ですぞ!」
「だから何だ!」
「兄上が死ねば、島津が揺らぎます!」
「弟を置いて逃げろと言うのか!」
「そう申しております!」
「又六郎!」
義久が歳久へ馬を寄せようとした。
その時、歳久の視界の端で、何かが光った。
「兄上!」
身体が先に動いた。
義久の前へ出る。
——ヒュッ!
「ぐっ!」
衝撃が走り、歳久の身体が大きく揺れた。
「又六郎!」
矢が甲冑の隙間を縫い、歳久の左の太腿へ深々と突き立っている。
じわりと赤が広がり、熱を持つ。
遅れて激痛が走った。
「又六郎!」
「来るな!」
歳久が叫んだ。
義久が止まる。
「早く……お逃げください!」
「しかし!」
「兄上!」
歳久は歯を食いしばった。
「これは負け戦です!」
「…………!」
「ですが、負けても全てを失う訳には行きませぬ!」
敵の声が近づいている。
歳久は義久の馬へ手を伸ばした。
その尻を太刀の柄で思い切り叩く。
「行け!」
馬がいなないた。
「又六郎!」
義久を乗せた馬が駆け出す。
「又六郎ぉっ!」
兄の声が遠ざかっていくのを見て、歳久は大きく息を吐いた。
太腿から血が流れている。
痛み。恐怖。
それでも、不思議と頭は静かだった。
——父上は又四郎兄上に任せた。
——又三郎兄上は逃がした。
ならば残る自分の役目はもはや一つしかない。
「若様!」
家臣たちが歳久の周りへ集まった。
「若様、お逃げを!」
「ならん!」
北村の兵が歳久の前で足を止める。
太刀が、槍が、ギラリと光った。
歳久は大きく息を吸い、そして腹の底から叫んだ。
「我こそは島津又六郎歳久!」
山間に声が響き渡った。
「ここから先を通りたければ――」
太刀の切っ先を敵へ向ける。
「首を置いてゆけ!」
――これでは又四郎兄上の真似ではないか。
こんな時だというのに、わずかに口元が緩んだ。自分も島津の男ということだろうか。
歳久は敵へ向かって馬の歩を進めた。




