第3話 岩剣城
島津貴久——島津四兄弟の父。島津宗家の当主。
島津忠良——日新斎。貴久の父親で四兄弟の祖父。貴久と共に「島津家中興の祖」と称される。
島津尚久——又五郎。貴久の弟。五尺余りの大太刀を振るい、弓は達人という豪の者。
島津義久——又三郎。貴久の長男。
島津義久——又四郎。貴久の次男。後に鬼島津と呼ばれる猛将。
島津歳久——又六郎。貴久の三男。主人公。
蒲生氏、祁答院氏——島津と敵対する勢力。
九月二十日の戦は、島津方の勝利に終わった。
だが歳久の鼻には、いつまでも血の臭いが残っていた。
夜。陣の焚き火を前にして、歳久は自分の手を見ていた。
何度洗っても、まだ血がついているような気がした。殺した男の顔が浮かんだ。妻子はいたのだろうか。分からない。分からぬことが、怖い。
「眠れぬか」
声がした。顔を上げる。
「祖父上」
そこに立っていたのは祖父・島津忠良――日新斎だった。歳久は慌てて立ち上がろうとする。
「よい」
日新斎は手で制した。
そのまま歳久の向かいに腰を下ろす。
「初陣であったな」
「はい」
「人を斬ったか」
「……はい」
「何人じゃ」
「二人」
「そうか」
短く言うと、日新斎は黙って火をじっと見た。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「怖かったか」
やがてポツリと出た日新斎の言葉に、歳久は少し迷った。少し間をおいて、俯いて答えた。
「はい」
「それでよい」
歳久は顔を上げた。
「よいのですか」
「そう思えぬか」
「武士が敵を斬って怖いなどと」
「わしも初めては震えたものだ」
日新斎はまだ炎を見つめていた。
「又四郎などは戦となれば血が騒ぐのであろう。だが、そうでない者も島津には必要じゃ」
「…………」
「怖さを知ることもまた得難いものよ」
歳久は黙って聞いていた。
「難しいものですな」
「だから武士は難しい」
日新斎が笑い、つられるように歳久も少しだけ笑った。
しばらく二人で火を見ていたが、やがて日新斎が言った。
「又六郎」
「はい」
「今日の戦、どう見た」
歳久は少し考えた。
「兄上は敵を怒らせました」
「ほう」
「家を焼き、稲を刈った。敵はそれを見て出てきた。ですが、出てきた時にはすでに負けていた」
「なぜじゃ」
「戦う場所を兄上に決められていたからです」
日新斎は何も言わない。
「兵の数でも、武勇でもない。敵が来る場所を決め、そこへ兵を伏せた。敵は自分で決めて戦ったつもりでも、実際には兄上に戦わされていた」
「ほう」
「それが戦というものなのでしょう」
日新斎はそれには答えなかった。
「ならば、城はどう攻める」
歳久は闇を見た。その闇の向こうに岩剣城がある。
「……攻めたくありませぬ」
「ほう」
「城へ攻め登れば、こちらが敵の望む場所で戦うことになります」
「ではどうする」
「城から出します」
「どうやって」
「まだ分かりませぬ」
日新斎が笑った。
「《《まだ》》分からぬか」
「はい」
「ふふふ」
「祖父上?」
「若造が何でも分かれば、儂などとうに隠居しておるわ」
「もうとっくに隠居なされてるではありませんか」
「口の減らぬ孫じゃ」
日新斎は愉快そうに笑い、立ち上がる。
「又六郎」
「はい」
「覚えておけ。城を攻めるとは、石垣や塀を攻めることではない」
歳久が顔を上げた。
「人を攻めるのじゃ」
日新斎はそれだけ言って去っていった。
歳久は再び焚き火へ目を落とした。
——人を……?
書にも書いてあったが、実際に城を見て、なぜかそのことが抜け落ちていた。
改めてその言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返した。
◇
その後も小競り合いが続いた。
そして十月一日。
諸将が集められた。
父・貴久が居並ぶ者たちを見渡す。
「明朝――」
陣中が静まり返った。
「岩剣を攻める」
歳久は顔を上げた。
——ついに来た。
総攻撃。
叔父の島津尚久が城に兵を進めるために密かに先発した。
その夜、歳久は眠れなかった。
城を攻める。だが、本当に攻めるべきものは城ではない。
――人を攻めるのじゃ。
祖父の言葉が歳久の中で駆け巡る。
ならばどう攻めるか。城に取り付いたところで死体を積み上げるばかりだ。
やがて夜が明けた。
すでに考えるのは、終えていた。
「かかれぇっ!」
義久の号令が響いた。島津勢が岩剣城の西門へ殺到する。
城から島津勢へ矢が降り、石が落ちてきた。
「怯むな!」
「押せ!」
どこかから火の手が上がり、黒煙が山肌を覆う。
歳久も兵とともに山へ取り付いた。
やはり険しい。
重い甲冑では坂道を一歩進むだけで息が切れる。
上から攻める城兵に対し、こちらは足場すら満足にない。
――こんなところで戦えば多くが死ぬ。
最初に岩剣城を見た時の考えは間違っていなかった。
「若様!」
伝令の兵が叫んだ。
「来たか!」
「は?」
「敵の援軍であろう」
伝令が目を見開いた。
「はっ。蒲生、祁答院の援軍、およそ二千!」
歳久は小さく息を吐いた。
――来た。
昨夜、自分も考えた。
岩剣を攻めれば、岩剣を失いたくない者が動くのではないか、と。
だが父・貴久は、おそらくもっと前から考えていたのだろう。
岩剣を攻める。
そうすれば蒲生と祁答院は救援に出ざるを得ない。そして援軍を、こちらの選んだ場所で叩く。
――城を攻めているのではない。
歳久は城と反対の方へ向いた。
――人を攻めている。
やがて激戦が始まった。
島津の本隊が敵の援軍を迎え撃つ。
歳久は城攻めの最中、遠くに上がる土煙を見ていた。
怒号と刀剣の音。そして火薬の轟音。
そして伝令の声。
「敵将、渋谷重経討死!」
「西俣盛家も討ち取りました!」
敵勢が崩れた。援軍は敗走していく。
勝鬨が上がった。それは、城に聴かせているように思えた。
歳久は岩剣城を見上げた。
城はまだある。
石垣も崩れていない。
門も閉じられている。
兵も残っている。
だが――戦意だけは無くなっただろう。
「終わったぞ」
隣にいた兵が怪訝な顔をした。
「まだ城は落ちておりませぬぞ」
「いや」
歳久は首を振った。
「もう落ちている」
その日のうちに降伏を促したが、敵将は応じなかった。だが夜になると、一人、また一人と闇に紛れて城を捨てた。
逃げられぬ女子供は身を投げた。
翌日。岩剣城には、島津の旗が翻った。
◇
「又六郎」
岩剣城から眼下を見下ろしていた歳久に、義弘が声をかけた。
「どうじゃ。初陣は」
「疲れました」
「それだけか」
「又三郎兄上は?」
「後始末で父上共々忙しなくされておる。総大将などになるものではないな」
歳久は義弘の顔を見た。口調は軽いが目は笑っていなかった。
「又四郎兄上はずいぶんと不機嫌で」
「昨日までは良かったのだがな」
義弘が視線を落とした。崖から身を投げた女たちを思い起こしたのだろう。「死ぬな」。そう誰よりも大きな声を出したのは他でもない、次兄だった。
「……お主もよく働いた」
「兄上ほどではありませぬ」
「当然じゃ」
「そこは謙遜してください」
「事実だから仕方あるまい」
歳久は苦笑した。
眼下には帖佐の地が広がっている。
さらには海が見えた。
「又四郎兄上」
「なんじゃ」
「兄上の言ったことは正しかったです」
「何の話だ」
「敵は考え終わるまで待ってくれぬ、という話です」
「ようやく分かったか」
「はい」
歳久は頷いた。
「ですから――」
少し間を置いた。
「戦が始まる前に、考え終えておくことにします」
義弘が歳久を見る。歳久は視線を動かさなかった。
「ふっ」
義弘が笑った。歳久は兄を見た。
「兄上?」
「お主はそれでよいのやもしれぬな」
義弘は遠くの海を眺め、怪訝な顔をしていた歳久もやがて義弘と同じ景色へと視線を向けた。
※第3話の登場人物紹介と地図
https://kakuyomu.jp/users/kailuka/news/ 九月二十日の戦は、島津方の勝利に終わった。
だが歳久の鼻には、いつまでも血の臭いが残っていた。
夜。陣の焚き火を前にして、歳久は自分の手を見ていた。
何度洗っても、まだ血がついているような気がした。殺した男の顔が浮かんだ。妻子はいたのだろうか。分からない。分からぬことが、怖い。
「眠れぬか」
声がした。顔を上げる。
「祖父上」
そこに立っていたのは祖父・島津忠良――日新斎だった。歳久は慌てて立ち上がろうとする。
「よい」
日新斎は手で制した。
そのまま歳久の向かいに腰を下ろす。
「初陣であったな」
「はい」
「人を斬ったか」
「……はい」
「何人じゃ」
「二人」
「そうか」
短く言うと、日新斎は黙って火をじっと見た。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「怖かったか」
やがてポツリと出た日新斎の言葉に、歳久は少し迷った。少し間をおいて、俯いて答えた。
「はい」
「それでよい」
歳久は顔を上げた。
「よいのですか」
「そう思えぬか」
「武士が敵を斬って怖いなどと」
「わしも初めては震えたものだ」
日新斎はまだ炎を見つめていた。
「又四郎などは戦となれば血が騒ぐのであろう。だが、そうでない者も島津には必要じゃ」
「…………」
「怖さを知ることもまた得難いものよ」
歳久は黙って聞いていた。
「難しいものですな」
「だから武士は難しい」
日新斎が笑い、つられるように歳久も少しだけ笑った。
しばらく二人で火を見ていたが、やがて日新斎が言った。
「又六郎」
「はい」
「今日の戦、どう見た」
歳久は少し考えた。
「兄上は敵を怒らせました」
「ほう」
「家を焼き、稲を刈った。敵はそれを見て出てきた。ですが、出てきた時にはすでに負けていた」
「なぜじゃ」
「戦う場所を兄上に決められていたからです」
日新斎は何も言わない。
「兵の数でも、武勇でもない。敵が来る場所を決め、そこへ兵を伏せた。敵は自分で決めて戦ったつもりでも、実際には兄上に戦わされていた」
「ほう」
「それが戦というものなのでしょう」
日新斎はそれには答えなかった。
「ならば、城はどう攻める」
歳久は闇を見た。その闇の向こうに岩剣城がある。
「……攻めたくありませぬ」
「ほう」
「城へ攻め登れば、こちらが敵の望む場所で戦うことになります」
「ではどうする」
「城から出します」
「どうやって」
「まだ分かりませぬ」
日新斎が笑った。
「《《まだ》》分からぬか」
「はい」
「ふふふ」
「祖父上?」
「若造が何でも分かれば、儂などとうに隠居しておるわ」
「もうとっくに隠居なされてるではありませんか」
「口の減らぬ孫じゃ」
日新斎は愉快そうに笑い、立ち上がる。
「又六郎」
「はい」
「覚えておけ。城を攻めるとは、石垣や塀を攻めることではない」
歳久が顔を上げた。
「人を攻めるのじゃ」
日新斎はそれだけ言って去っていった。
歳久は再び焚き火へ目を落とした。
——人を……?
書にも書いてあったが、実際に城を見て、なぜかそのことが抜け落ちていた。
改めてその言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返した。
◇
その後も小競り合いが続いた。
そして十月一日。
諸将が集められた。
父・貴久が居並ぶ者たちを見渡す。
「明朝――」
陣中が静まり返った。
「岩剣を攻める」
歳久は顔を上げた。
——ついに来た。
総攻撃。
叔父の島津尚久が城に兵を進めるために密かに先発した。
その夜、歳久は眠れなかった。
城を攻める。だが、本当に攻めるべきものは城ではない。
――人を攻めるのじゃ。
祖父の言葉が歳久の中で駆け巡る。
ならばどう攻めるか。城に取り付いたところで死体を積み上げるばかりだ。
やがて夜が明けた。
すでに考えるのは、終えていた。
「かかれぇっ!」
義久の号令が響いた。島津勢が岩剣城の西門へ殺到する。
城から島津勢へ矢が降り、石が落ちてきた。
「怯むな!」
「押せ!」
どこかから火の手が上がり、黒煙が山肌を覆う。
歳久も兵とともに山へ取り付いた。
やはり険しい。
重い甲冑では坂道を一歩進むだけで息が切れる。
上から攻める城兵に対し、こちらは足場すら満足にない。
――こんなところで戦えば多くが死ぬ。
最初に岩剣城を見た時の考えは間違っていなかった。
「若様!」
伝令の兵が叫んだ。
「来たか!」
「は?」
「敵の援軍であろう」
伝令が目を見開いた。
「はっ。蒲生、祁答院の援軍、およそ二千!」
歳久は小さく息を吐いた。
――来た。
昨夜、自分も考えた。
岩剣を攻めれば、岩剣を失いたくない者が動くのではないか、と。
だが父・貴久は、おそらくもっと前から考えていたのだろう。
岩剣を攻める。
そうすれば蒲生と祁答院は救援に出ざるを得ない。そして援軍を、こちらの選んだ場所で叩く。
――城を攻めているのではない。
歳久は城と反対の方へ向いた。
――人を攻めている。
やがて激戦が始まった。
島津の本隊が敵の援軍を迎え撃つ。
歳久は城攻めの最中、遠くに上がる土煙を見ていた。
怒号と刀剣の音。そして火薬の轟音。
そして伝令の声。
「敵将、渋谷重経討死!」
「西俣盛家も討ち取りました!」
敵勢が崩れた。援軍は敗走していく。
勝鬨が上がった。それは、城に聴かせているように思えた。
歳久は岩剣城を見上げた。
城はまだある。
石垣も崩れていない。
門も閉じられている。
兵も残っている。
だが――戦意だけは無くなっただろう。
「終わったぞ」
隣にいた兵が怪訝な顔をした。
「まだ城は落ちておりませぬぞ」
「いや」
歳久は首を振った。
「もう落ちている」
その日のうちに降伏を促したが、敵将は応じなかった。だが夜になると、一人、また一人と闇に紛れて城を捨てた。
逃げられぬ女子供は身を投げた。
翌日。岩剣城には、島津の旗が翻った。
◇
「又六郎」
岩剣城から眼下を見下ろしていた歳久に、義弘が声をかけた。
「どうじゃ。初陣は」
「疲れました」
「それだけか」
「又三郎兄上は?」
「後始末で父上共々忙しなくされておる。総大将などになるものではないな」
歳久は義弘の顔を見た。口調は軽いが目は笑っていなかった。
「又四郎兄上はずいぶんと不機嫌で」
「昨日までは良かったのだがな」
義弘が視線を落とした。崖から身を投げた女たちを思い起こしたのだろう。「死ぬな」。そう誰よりも大きな声を出したのは他でもない、次兄だった。
「……お主もよく働いた」
「兄上ほどではありませぬ」
「当然じゃ」
「そこは謙遜してください」
「事実だから仕方あるまい」
歳久は苦笑した。
眼下には帖佐の地が広がっている。
さらには海が見えた。
「又四郎兄上」
「なんじゃ」
「兄上の言ったことは正しかったです」
「何の話だ」
「敵は考え終わるまで待ってくれぬ、という話です」
「ようやく分かったか」
「はい」
歳久は頷いた。
「ですから――」
少し間を置いた。
「戦が始まる前に、考え終えておくことにします」
義弘が歳久を見る。歳久は視線を動かさなかった。
「ふっ」
義弘が笑った。歳久は兄を見た。
「兄上?」
「お主はそれでよいのやもしれぬな」
義弘は遠くの海を眺め、怪訝な顔をしていた歳久もやがて義弘と同じ景色へと視線を向けた。




