第2話 初陣
島津義久——又四郎。貴久の次男。後に鬼島津と呼ばれる猛将。
島津歳久——又六郎。貴久の三男。主人公。
島津忠将——貴久の弟。四兄弟の叔父。相州島津家当主で大隅清水城(今の霧島市国分清水)の城主。
蒲生氏、祁答院氏——島津と敵対する勢力。
岩剣城は、岩のような山の上にあった。切り立った斜面にへばりつくように築かれた城を見上げ、歳久は思わず目を細めた。
「……あれを攻めるのか」
思わず独り言が漏れた。岩剣城は蒲生氏、祁答院氏らが拠る帖佐の南の要衝である。
城そのものは大きくない。だが、その立地が厄介だった。
山は険しく、道は狭い。大勢で押し寄せても一度に取り付ける人数は限られる。
そこに上から石を落とされればどうなるか。
矢を射かけられれば。
狭い斜面で前の者が倒れれば、後ろの兵は如何するか。
歳久は頭の中で一つずつ数えた。
「難しい顔をしておるな」
声に振り向くと、義弘がいた。すでに鎧を身につけている。その顔には、不安よりもむしろ楽しげな色すら浮かんでいた。
「又四郎兄上は随分と嬉しそうですな」
「そう見えるか?」
「見えます」
「そうか」
否定しない。歳久は呆れた。
「怖くはないのですか」
「怖いに決まっておろう」
義弘は岩剣城を見上げる。
「怖くない者など戦場では真っ先に死ぬわ」
「では、なぜ笑っているのです」
「島津の男だからよ」
義弘はそう言うと、歳久の肩を叩いた。
「もっとも、お主は戦場でも書を読み始めそうだがな」
「持ってきておりませぬ」
「ほう。安心したぞ」
「荷物になるので」
「そういうところじゃ!」
義弘が呆れ、歳久は笑った。だが、すぐに岩剣城へ目を戻した。
「兄上」
「なんじゃ」
「あれを正面から攻めれば、どれほど死にましょう」
義弘の笑みが消えた。
「分からぬ」
「私は、それが怖い」
「死ぬことがか?」
「いえ」
歳久は首を振った。
「分からぬことが、です」
義弘が歳久を見る。歳久は城を見たままだった。
「敵が何人いるのか。どれほど矢を持っているのか。どこから攻めれば何人死ぬのか。何も分からぬ。それでも兵を進ませねばならぬ」
「それが戦ぞ」
「だから嫌なのです」
「嫌か」
「ええ」
義弘が笑った。
「やはりお主は変わっておる」
「兄上にだけは言われたくありませぬ」
「なんじゃと?」
そのとき、遠くで法螺貝が鳴った。
二人の顔から笑みが消える。
——戦が始まった。
◇
歳久の父、島津貴久は薩摩の国主であったが、国内や隣接する大隅には、なお多くの敵対勢力が存在していた。
島津氏に敵対する蒲生・祁答院らの軍勢が、島津方の加治木城を攻めた。
貴久は岩剣城を攻めることで敵勢を引きつけ、加治木城の包囲を解こうと考えた。
天文二十三年九月十八日。
叔父・島津忠将率いる大隅衆が五十艘余りの船を繰り出し、海沿いの脇元へと進んだ。そして、前日に白銀坂へ布陣していた義弘の兵と呼応し、敵方と戦闘になった。
義弘の隊に加わった歳久は、そこで初めて戦場で種子島が放たれるのを見た。
——ドォン!
海から山へ向かい、戦場全てが震えるような轟音が響いた。
先日、忠将が撃つのを見たときとはまるで違って聞こえた。
人が人を撃つのだ。音が消えたすぐ後に、一人が倒れた。
歳久は息を呑んだ。
「……なるほど」
歳久が呟く。
「何がなるほどだ」
隣にいた義弘が訊いた。
「恐ろしい武器ですな」
「今さら気づいたか」
「いえ。試し撃ちを見た時から分かっていたつもりでした」
歳久は首を振る。
「今はより恐ろしく思えます」
敵兵が退いていく。鉄砲の轟音に驚いたのか。撃ち倒された者を見て慄いたのか。
いずれにせよ、敵の足並みは乱れていた。
「弓とは違う」
歳久は呟いた。
「何がだ」
「音です」
「音?」
「当たらずとも、あれは人を怯ませる」
義弘が目を細めた。
「お主は初陣で何を見ておるのだ」
「戦を」
「ほう、戦か」
「書で読むのとはまるで違う」
「何を当たり前のことを」
「…………」
義弘はしばらく歳久を見た。やがて、ふっと笑った。
「ならばそこで見ておれ」
太刀を抜く。
「兄上?」
「種子島や弓だけで戦は終わらぬ」
義弘が兵の前へ出た。太刀を振り上げる。
「敵が崩れたぞ! 押せ!」
「おおっ!」
兵たちが走り出す。
「兄上!」
歳久も慌てて後を追った。
歳久の兄二人にとっても、初めての戦であるはずだった。それなのに歳久には、どうにもそうは見えなかった。
特に義弘など、まるで十度も二十度も戦場を駆けてきたような顔で、敵へ斬り込んでゆく。
――本当に、又四郎兄上は初陣なのか?
そう疑いたくなるほどだった。
◇
九月二十日。
義弘とその軍は人家に火を放った。さらに兵たちは田へ入り、稲を刈り始めた。
歳久は義弘の隣に立ち、兄の顔を見上げた。
「兄上」
「なんだ」
「百姓の真似事ですか」
「そうだ」
「これは敵もさぞ喜びましょうな」
「そのうち感極まるであろうよ」
「腹も減るでしょうな」
義弘が振り返った。
「握り飯片手に歓迎してやらねばならぬ」
「もちろん相応のものはいただくのでしょう?」
「もちろんよ」
義弘は満面の笑みを見せた。
首元へ手をトントンと当てる。
「これをもらう」
やがて多数の足音が聞こえ、砂煙が立つ。
「来ましたな」
「来たな」
来たのは岩剣城の北、帖佐の兵だった。自らの領内で家を焼かれ、稲を刈られている。黙って見ていられるはずがない。
「さすが又四郎兄上。勝つことに抜かりない。奴らはこちらの選んだ場所へ来る」
歳久の視線が、左右へ向いた。
そこには林、窪地。
僅かに刀槍の反射が見えた。
すでに島津の兵が伏せている。
「戦というものは、始まる前に半分決まっておる」
義弘が言った。
歳久は兄を見た。
「兄上は戦になると頭が回る」
「馬鹿にしておるのか?」
「褒めております」
「斬るぞ」
「敵をお願いします」
「任せておけ!」
義弘が太刀を抜いた。
迫った敵兵を一刀で切り伏せる。
「さぁ! 首を置いてゆけ!」
その言葉に敵が怯む。
その時、伏せていた兵が一斉に立ち上がり、弓が射掛けられた。
「伏兵だ!」
「退け!」
義弘が駆けた。
「逃がすな! 囲め!」
歳久も太刀を抜いた。
左手が震えた。
恐怖か、武者震いか、自分でもわからない。
だが義弘が颯爽と敵陣に切り込むのをみて自然と口元が綻んだ。
——自分にはとても真似できぬ。
歳久の目の前に敵兵が現れた。
歳久よりずっと年上の男。父と同じくらいに見えた。互いの目が合った。
男が槍を突き出す。
「っ!」
歳久は身体を捻った。穂先が脇をかすめる。
歳久は夢中で太刀を振る。
ざくりとした感触が手に残った。
「…………」
血が地面へ広がっていく。
男の目が歳久を凝視していた。だがその目はもう瞬きすらしない。
しばらく歳久は動けなかった。
「又六郎!」
義弘の声がした。その声に振り向いた瞬間、別の敵兵が迫っていた。しかしその兵は義弘の太刀で切り伏せられた。
「前を見よ!」
歳久は我に返った。太刀を構える。
――考えろ。
しかし、考える暇などなかった。
頭は真っ白だったが、それでも稽古で染みついた通りに体が動く。
「……なるほど」
歳久は息を吐いた。
戦場は考え終わるまで待ってくれない。
義弘の言った通りだった。




