第1話 六本の矢
登場人物
豊臣秀吉——関白。天下人。
島津貴久——島津四兄弟の父。島津宗家の当主。
島津義久——又三郎。貴久の長男。
島津義久——又四郎。貴久の次男。後に鬼島津と呼ばれる猛将。
島津歳久——又六郎。貴久の三男。
島津家久——又七郎。貴久の四男。
島津忠将——貴久の弟。四兄弟の叔父。相州島津家当主で大隅清水城(今の霧島市国分清水)の城主。
蒲生氏、祁答院氏——島津と敵対する勢力。
鬱蒼と茂る木々の隙間から、絢爛な駕籠が見えた。
山道を、ゆっくりと進んでくる。
前後を固めるのは鎧兜に身を包んだ兵たち。その数は多い。槍の穂先が木漏れ日を受け、ときおりぎらりと光った。
だが、森の中は静かだった。鳥の声すら聞こえない。獣も、虫も、この山から消えてしまったかのような静寂の中、男たちは息を潜めていた。
草木の陰。岩陰。斜面の上。そこかしこに伏せた兵たちの視線が、一つの駕籠へと注がれている。
その中で、一人の男が眼下を見下ろしていた。
齢は五十ほど。頬は痩せ、髪には白いものが混じっている。
左の手が、小刻みに震えていた。恐怖ではない。武者震いでもない。中風であった。男は震える手を右手で押さえた。
駕籠が近づいてくる。
一歩。また一歩。
ここまで来るのに、随分とかかった。
あの者が泰平寺を発ち、大口へ向かう。
男はその道案内として、自らの家臣を差し向けた。だが、その家臣が案内したのは最も近い道でも安全な道でもなかった。
道は狭く、左右には木々の生い茂る急斜面が迫る。大軍では身動きが取りにくい。伏兵を置くには、これ以上ない場所だった。
そして今、その獲物が罠の中へ入ろうとしている。
「金吾様」
傍らから、囁くような声がした。声の主は本田四郎左衛門である。その声が震えている。
「……本当によろしいので?」
無理もなかった。
これから射ようとしている相手は、そこらの大将ではない。
失敗すれば——いや。成功しても、死ぬやもしれぬ。
己だけではない。妻も、子も。一族すらも。
本田四郎左衛門はそう考えているのだろう。
男は答えなかった。
ただ、眼下を見ていた。
駕籠が進む。
「金吾様……」
二度目の問いに、男はようやく口を開いた。
「四郎左衛門」
「はっ」
「やれ」
「……はっ」
四郎左衛門が息を呑んだ。だが次の瞬間には弓を持つ手に力が入る。
周りの兵たちが、一斉に身を起こした。
ぎり。ぎりぎり。
弦が引き絞られる。
駕籠はまだ進んでいる。護衛の兵は気づいていない。
「放て!」
空気を裂く音がした。
木々の間を縫うように、矢が飛ぶ。
「敵襲!」
誰かが叫んだ。だが、遅い。
一本の矢が、駕籠の側面に突き立った。
続いて二本目。
三本。
四本。
悲鳴と怒号が山中に響き渡る。
天正十五年五月。
六本もの矢が深々と刺さった駕籠を、男は静かに見下ろしていた。
その中には――日ノ本六十余州を従えようとしている天下人。関白・豊臣秀吉が乗っているはずであった。
◇
時は、三十年以上前に遡る。
天文二十三年九月。薩摩の秋の空は高く、突き抜けるように青かった。
「せいやっ!」
鋭い掛け声とともに、槍が突き出された。
木刀がそれを弾く。
乾いた音が庭に響いた。
「甘いぞ、又四郎!」
「言うたな、兄上!」
再び槍が繰り出される。
庭先では、二人の若者が汗まみれになって立ち合っていた。
一人は又三郎――島津義久。
もう一人は又四郎――島津義弘。
「そこじゃ!」
義弘が踏み込む。
槍先が義久の胸元へ走った。
義久は半身になってかわす。
「くっ!」
体勢を崩した義久の首筋へ、ぴたりと槍先が添えられる。
「兄上、首をいただけますかな?」
「……参った」
義久が苦笑する。
そんな二人から少し離れた縁側で、一人の若者が書物を読んでいた。名を又六郎歳久といった。年は数え十八。
長兄・義久は四つ上。
次兄・義弘は二つ上。
そして十も年の離れた末弟に家久がいる。
歳久は島津家の三男であった。
歳久は兄たちの立ち合いに目もくれず、黙々と書の頁をめくっていた。
ぱらり。乾いた紙の音が響くと義弘が眉をひそめた。
「おい、又六郎!」
返事がない。
「又六郎!」
歳久が、ようやく顔を上げた。
「何でしょう」
「何でしょう、ではない。お主も少しは身体を動かさぬか」
「動かしました」
「いつ」
「朝」
「見ておらぬぞ」
「兄上が起きるずっと前です。すでに稽古は終えています」
「…………」
義弘が言葉に詰まった。
義久が吹き出す。
「又四郎、お主の負けじゃ」
「何が負けなのです!」
「お主は確かに起きるのが遅い」
「兄上!」
義弘が不満そうに声を上げる。
歳久は興味を失ったように、また書へ目を落とした。
「それに、兄上たちこそ、あまり汗をかきすぎると戦に障りますぞ」
「戦だと?」
「いつ出陣しても良いようにしておくのも武士でありましょう」
「こやつめ……」
義弘が槍を地面へ立てる。
「相変わらず理屈ばかり達者な男よ」
「よせ、又四郎」
義久が手拭いで額を拭きながら縁側へやって来た。
「放っておいてやれ」
「しかし兄上。この男、朝から晩まで書ばかり読んでおりますぞ」
「悪いことではあるまい」
「武家の男子ですぞ」
「だから朝に稽古を済ませたのであろう」
「兄上まで!」
義久が笑う。
歳久も、ほんのわずかに口元を緩めた。
「それにだ!」
義弘は槍を肩に担いだ。
「戦場では書は敵を斬ってくれぬぞ、又六郎」
「承知しております」
「敵は考え終わるまで待ってもくれぬ」
「それも承知しております」
「ならば――」
「だから考えられる時に考えておくのです」
義弘が黙った。
義久が歳久を見る。
「何をそんなに考える?」
「負けた時のことを」
「何ッ!? 戦に出る前から負けを考える武士があるか!」
義弘が声を荒げるのを見ながら歳久は静かに書を閉じた。
「勝つ算段なら又四郎兄上がなさるでしょう。私は負けぬにはどうするか。負けたなら何を捨てるか。それを考えておきたいのです」
義弘が眉を寄せる。
「何を弱気な」
「勝敗は世の常です。戦はそう簡単ではありません」
「まだ戦にも出たことがないくせに」
「兄上たちと同じです」
「こいつッ! それにいくら考えたところで、戦場はその通りにはならぬぞっ!」
「でしょうな」
あっさりと歳久が答えた。
「ならぬ時はその時にまた考えます」
「……お主と話しておると疲れる」
義弘が大きく息を吐いた。
義久は笑っていた。
歳久はじっと兄二人を見た。
長兄には、人を従わせる不思議なところがある。声を荒らげるわけでもない。武勇をひけらかすわけでもない。それでも気がつけば、皆が義久の言葉を聞いている。
次兄は違う。義弘には圧倒的な武があった。
多勢の敵を前にして退かぬだろう。むしろ敵が多ければ多いほど、その目は輝くに違いない。
では――。自分は何なのだろう。
長兄の度量には遠く及ばぬ。
次兄の勇猛に比べれば取るに足りぬ。
ならば自分に出来ることはこの書にある気がした。
その時、庭の向こうから、小姓が足早に近づいてきた。
「若様方、殿より御沙汰にございます」
三人が向き直る。
「加治木へ蒲生、祁答院の兵が押し寄せております。殿は吉田へ御出馬。又三郎様には、兵を率いて日当比良へ先行せよとの仰せにございます」
義久が立ち上がった。
「岩剣を攻めるか」
「左様にございます」
義久が言い当てる。事前に聞いていたのかも知れない。
義弘が首を傾げた。
「だが岩剣城は急峻な山城。そんな難儀をせずとも加治木で正面から打ち破れば良いではないのか」
「又四郎兄上。父上は加治木を囲む敵を斬るのではなく、奴らの巣を突けと仰せなのですよ」
歳久は書を閉じた。
「又三郎兄上」
「何だ?」
「相州の叔父上も出られましょうか」
相州の叔父とは島津忠将のことである。
「無論出られるであろう」
「ならば」
歳久は庭の向こうを見た。
義久が怪訝な顔をする。義弘も槍を担いだまま、歳久へ目を向けた。
「種子島も使えましょう」
一瞬、間が空いた。
「……種子島、だと?」
義弘が眉を上げる。
歳久は先日叔父が試射した種子島――轟音とともに的を撃ち抜いた、あの鉄砲の一発を思い出していた。




