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『町田くん』
スマホに表示されたその名前の下の、電話のマークに指を近づける。
タップしようとして……やめた。
ごろりとベッドに寝っ転がる。
枕の周りには町田くんから借りた漫画が散らばっていた。
《実家に帰省するから、2週間くらい》
私に漫画を持ってきたこの間の“デート”で、町田くんはそう言った。
2週間って長くない。
私はそんなに実家が遠くないし、7月中にちょろっと帰っただけだ。
《戻ってきたら続き貸すね》
そうして1、2巻でいいと言ったのに結局5巻まとめて持ってこられた漫画は、早々に読み終えてしまった。
普段漫画はほとんど読まないけど、普通に面白かった。続きは気になるし、最終巻まで借りるつもりだ。
「お風呂、入ろ」
独り言を言いながらベッドを降りて浴室に向かう。夏でもなるべく湯船につかるようにしている。
町田くんがいないからといってもちろん私は一人で部屋でごろごろしているわけじゃない。バイトもあったし、昨日はネイルを替えてきて、新しいコスメとワンピースを買った。明日は友達と会う。
メイクを丁寧に落としてお湯に浸かって、お風呂上がりにはじっくりスキンケアをする。
机の上にずらりと並ぶスキンケア用品を見ると、何とも満たされた気持ちになる。
それから床の上で簡単なストレッチ。
一通りのルーティンを終えてまたベッドの上へ。
充電中のスマホを見るが、特に通知は来ていない。
夏休み中、なんだかんだと週に1度は町田くんと会っていたから、1週間以上連絡を取っていないと変な感じがする。
でも、付き合ってるフリだから。何の用事もないのにわざわざ電話とかしなくない?
というかこれまでも、出掛ける予定を決めるくらいの事務連絡しか、町田くんとはやりとりしていない。
理由もないのに私からかけるって変でしょ。
寝転んだままスマホで適当に動画を観ていた。
突然画面にメッセージ受信の通知が現れ、それが町田くんからだとわかってどきりとする。
メッセージアプリを開くと、『今電話して大丈夫ですか。』とのよそよそしい文。
「え」
すぐにオッケーしたら、まるで町田くんからの連絡を待ってたみたいじゃない?
そんな考えが頭をよぎる。
でも何か緊急事態かもしれないし、と思うようにして、『平気だよ』と返した。
電話はすぐに来た。
「……もしもし?」
〈あ、も……もしもし〉
電話でもぼそぼそとした町田くんの声だ。
〈ごめん、急に〉
「町田くんどうしたの? 何かあった?」
〈何か……え、いや、何も、なくて……〉
何もないのに電話してくれた。
そう思うと、表情が緩みそうになるのを堪えて、
「あーもしかして岡崎さんの声が聞きたかったとか?」
〈い、いや……〉
からかい混じりに聞くと、町田くんはちょっと狼狽えてから、
〈そうかも〉
とものすごく小さい声で言った。
思いがけずストレートな返事に私もびっくりした。
町田くんのくせに。
〈あ……ごめん、変ってか、キモいよね……〉
「え、いや、キモいとかじゃなくて」
つられてこっちまであたふたしてしまう。
「そ、そんな、帰省中まで“彼氏のフリ”徹底しなくていいんだから」
律儀だなー、と冗談っぽく言うと、町田くんはまた黙り込んでしまった。
部屋のエアコンの機械音だけがよく聞こえる。
「あっ、漫画読んだよ。借りたやつ全部。面白かった」
話題を変えた方がいいと思った私の判断は合っていたみたいだ。
ほんと? と町田くんの声が軽く弾む。
〈6巻から本当に展開が面白くなるから、楽しみにしてて〉
いきなり滑らかになる町田くんの口調に、私も口元も笑っていた。
「町田くん、こっち帰ってくるのいつだっけ?」
〈えっと、明後日〉
私はふと机の上のカレンダーを見た。
「夏休みももう少しで終わりかー。町田くんのイメチェンもそろそろ大詰めだね。残りも頑張ろ」
〈あ……うん〉
「と言ってももうあまり変えるところもないんだけどね」
町田くんは既に、黙って立っていれば爽やか男子には見える。
あとはおどおど感をなくすというか、やっぱり町田くんが自分に自信を持って振る舞うことが大事なんじゃないかと思う。
まあそれも、周りからの見る目が変わっていくにつれて、追々変わってくると思うけど。
「変わったって、実家で言われたでしょ?」
〈あ、まあ、そうなんだけど……〉
町田くんの声のトーンが落ちる。
〈妹が、うるさくて〉
また妹か、と思った。
〈ほら……前に靴とか鞄とか相談したから、彼女できたんだろって、追及されて。写真見せろととかしつこいし、また服とか勝手に選ばれて〉
あれ、また妹さんに選んでもらってんの。
次会う時また服を見ようと思ってたんだけど。
もやっとした気持ちでさっきまでの温かさが陰る。
〈岡崎さん?〉
「いや、ほんと仲良いんだね妹さんと」
〈仲良いとかじゃなくて、強いんだよ。あいつ……〉
「家族には彼女いるってことにしてるの? フリじゃなくて?」
〈あ……はい、いちおう、そうさせていただいてます〉
実家でも“彼氏のフリ”を貫いてくれる町田くんはやっぱり律儀なんだなと思う。
でも何だろ、妹さん存在感強くない?
センスある妹さんがいたら、私いなくてもイメチェンできるじゃない?
この間だって……
……
この苛々の根源を突き詰めちゃだめだ。
そう思って考えを遮断する。
「なんかもう、大丈夫かもね、町田くんは」
ビデオ通話じゃないから顔は見えないけど、私は笑みを作って言う。
〈え、何が?〉
「私が教えることはもう何もないってやつ」
〈……〉
「次、夏休み明けに大学で会お」
〈えっと……それまでもう、出かけたりはしないってこと?〉
なんかちょっと寂しそうに聞こえたのは私の気のせいだと思う。ただの確認でしょ、これは。
「うん」
〈漫画の、続きは〉
「そのうちでいいよ。別にすぐに続きが読みたいわけじゃないし」
これは素っ気なさすぎたのか、通話が切れたかと思うような急な沈黙になる。
でもほんの少しだけ、町田くんの息遣いが聞こえた。
〈……でも〉
「あ、ごめん、別の電話きちゃった。切るね」
町田くんの返事も聞かずに私は通話を切った。
そのままスマホを伏せて枕に顔を埋める。
自分でも何をしているのか、何をしたいのか意味不明だ。
町田くんは私に好意があるのかもしれない、とは感じることもある。そういうことに私は鈍感なわけじゃない。
なんでだろ。客観的に見て、私、嫌な女だと思う。そりゃあ見た目は気を遣ってるけど、性格が良いとは思わないし、町田くんの前で特別猫かぶっているわけでもない。
でも、町田くんから向けられる好意的な何かが、嫌じゃないとも思っている。
──嘘でしょ?
フリが本当になるとかありえない。
私達はフリだから成り立っている関係だから。
町田くんは“彼氏のフリ”を全うしようとしてくれているだけで、私もそうだ。
この夏休みに何度も2人で会ったし、この特殊な関係に少し錯覚しているようなもので。
町田くんみたいな人と本当に付き合うことなんて、私はできない。
眠りに落ちる直前に、スマホが小さく震えた。
見るとどうでもいいニュースの速報だった。
町田くんから何かメッセージが来るかもしれないとか思った私は本当に性格が悪い。
気づいたら寝落ちしていて朝になったけど、結局、町田くんからは何の連絡もなかった。




