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【第四章  背面飛行】


夜明け直後の海は静かじゃなかった。


テルはヴェルに騎乗したまま、崖の端で動けずにいた。

崖の高さは五十メートルほど。眼下には岩礁が黒く光っている。


テルが怖がっている。その感情がヴェルに伝わって、ヴェルが止まっている。


ハーフってそういうとこだけ効くのか。

笑えない。



ヴェルがテルを振り返った。緑がかった灰色の目。怒っていなかった。ただ、待っていた。


「…… 行こう」


ヴェルが翼をたたんだ。崖を蹴った。落ちた。


風が顔を叩く。

岩礁が近づく。

すごい速さで。

近づく。

近い。



「引け!!」


ヴェルが翼を広げた。Gが体を押しつぶした。ぎりぎりで水平に戻った。


テルは十秒間、なにも考えられなかった。



ヴェルがぷすっと鳴いた。

今日で三回目の、あの鼻音はどうやら笑っているらしかった。



    *    *    *



マツルの特訓は海霧の中だった。


夜明け前の海面に霧が立ち込める時間帯に、コクヨウと二人で岩礁の間を飛んだ。

目印は何もない。風の音だけで岩礁の位置を判断する。



コクヨウは嫌がった。安全策をとりたがる、この飛竜の唯一の弱点だった。

岩礁に近づきすぎると自分から高度を上げてしまう。


先生が言っていた言葉が頭を回る。


「マツル、お前はいつもコクヨウが飛ばしてくれると言うが、それだけじゃ足りない。飛竜の言葉を感じてやること、そして飛竜を導いてやること。それが騎手の責務だ」


マツルはコクヨウの首に手を当てた。暗闇の中で、大きな温もりが伝わってくる。

もっと速く飛べる。私はそれを知っている。あなたも知っているはずだ。


コクヨウが低く唸った。


岩礁が霧の向こうから現れた。コクヨウは高度を上げようとした。

マツルは手綱を緩めずに保った。


ぎりぎりで旋回した。岩肌の風圧が頬を叩く、コクヨウが小さく鳴いた。


 わかった ここからは二人で飛ぼう


マツルは初めて、コクヨウの背中でほんの少し、頬が緩んだ。



    *    *    *



カナは波と戦っていた。


荒れた日の早朝、外海に面した岩場でフラムに騎乗し、砕ける波の際を飛んだ。

フラムは部の飛竜の中でも一番小さいが、低空での操作性なら誰にも負けない。でも波は関係なかった。

三メートルの波がフラムの翼をなぶる。フラムが鳴く。カナは歯を食いしばって手綱を持った。


いつもの甘えたがりな顔をしていなかった。

波でずぶ濡れになって、前髪が顔に張り付いて、それでも前を向いていた。



フラムがバランスを崩した。海面に激突する一瞬前に、カナが体重を移した。

フラムが持ち直した。


もう一回。



    *    *    *



カイトは怒鳴られていた。


「だから力で引っ張るなと言っている!!」


先生の声が山にこだまする。


「マーテルに無駄にマナを使わせるな。お前が飛ぶ4区は各チームのエースが集うコースだ、前半で使い切ったら必ずひっくり返される。丁寧に荷重移動して旋回速度を落とすな」


マーテルは疲弊しきって岩場に腹ばいになっていた。

カイトも膝に手をついてぜいぜいしていた。


「糞っ」


ひとりごとで吐いた。自己嫌悪というのはこういう感触か、胃の奥がじりじりする。



夕方、帰り道に海岸を通ったらカナが座っていた。


「座りなよ」


ノロノロと隣に腰を下ろした。夕日がやたら赤かった。


「飛んでるとき、何考えてる?」


「何も。ただ早く飛ぶことしか考えてない」


「違うよ。飛ぶときは飛竜のことを思いながら飛ばなきゃ。飛竜を愛してあげなきゃだめだよ」



カイトはそっぽを向いた。


「でも、マーテルはカイトのことが大好きだよ?」


カイトは黙った。夕日が海を赤く染めていた。

マーテルのことを思った。

あの、おおらかで、いつもカイトを、子供を見るような眼差しで見守っているマーテルのことを。



奥歯を噛んだ。


「わかってる」


小声だった。カナは何も言わなかった。それでよかった。




    *    *    *




中継地点でのトーチの受け渡し、背面パスの練習を始めたのは二年目の秋だった。


場所は島の北端にある入り江。

両側を岩壁に挟まれた、幅三十メートルほどの細長い海面だ。

平良が選んだ。万一落ちても岸までの距離が近いから、という理由だった。

万一、という言葉がすでに不穏だった。



最初の練習日、テルはヴェルに騎乗して入り江の上空をゆっくり飛んだ。

マツルとコクヨウが岩壁の出っ張りに静止して待っている。


平良が岸から叫んだ。


「ゆっくりでいい! まず反転だけやってみろ!」


テルはヴェルの体を傾けた。

左翼を下げて、右翼を上げて


ぼちゃん。


テルが海に落ちた。

ヴェルが慌てて急降下して、テルの首根っこを嘴で咥えて引き上げた。



テルは海水を吐きながら岸に這い上がった。


「大丈夫か」とカイト。


「…… 寒い」


それだけ言った。


ソウシが「見ていて大丈夫なのか、これ」とつぶやいた。

カナは心配そうにフラムの羽の後ろに顔を隠した。


平良は「次」と言った。



    *    *    *



三日後。

平良は教頭室に呼ばれた。


教頭が待っていた。

温厚な人物だが、今日は机の上で指を組んでいた。


「平良先生。例の練習のことですが」


「はい」


「先週、部員が海に落ちたと聞きました。三回」


「テルが二回、マツルが一回です」


「把握されているんですね?」


「毎回記録しています」



教頭は少し間を置いた。


「地域の方からも声が届いています。危険ではないかと。他の生徒の保護者の方からも不安の声が」


「ご心配はごもっともです」


「練習の中止を、検討していただけますか」



平良はしばらく黙っていた。


「一つだけ確認させてください。生徒本人たちが、続けたいと言っています。選手の保護者の方から、本人に対する中止の要請はありましたか」


教頭は首を横に振った。


「ならば、私には続ける責任があります。ただ、ご心配をおかけしていることは申し訳なく思っています」


平良は深く頭を下げた。

教頭は何も言わなかった。



廊下に出ると、ソウシが壁に寄りかかって待っていた。


「聞こえてた」


「だろうな」


「続けられるんですか?」


「続ける」


ソウシは頷いた。



平良は職員室に戻って、また頭を下げた。



    *    *    *



四回目の練習の朝。

入り江の岸に見慣れない人影があった。


老人が三人、岩に腰かけていた。

漁師の格好をした七十を超えているだろう老人たちだ。

茶を入れた水筒を持って談笑しながらこちらを見ていた。



平良が声をかけた。


「見学ですか」


一番年嵩の老人が答えた。


「噂を聞いてな。背面で飛んどるんやろ。懐かしゅうてな」


「懐かしい?」


「わしらも若い頃はよう飛んだ。沖に網を届けるときに、背面飛行で自分の背中にしょった籠から、船の上にあらよっと落とすんや。生徒らの飛竜の爺さんの代くらいの飛竜に乗っとったわ」


別の老人も会話に加わる。


「そうや、これは島の飛竜にしかできん技や。本土のデカい飛竜がやろうもんならそのまま失速して、飛竜ごとドボンや。本土の奴らの度肝を抜いたれ」



テルはヴェルの首をぽんと叩いた。

ヴェルが老人の方を向いてぷすっと鳴いた。


「背面で落ちたことはありますか」とテル。


老人たちが顔を見合わせて笑った。


「よう落ちたわ。はじめの一週間は毎日落ちとった。海に落ちて、飛竜に笑われてな」


「笑うんですか、飛竜も」


「笑う笑う。お前の飛竜も笑うやろ」


テルはヴェルを見た。

ヴェルがまたぷすっと鳴いた。


笑っていた。



「コツはな」


老人が少し身を乗り出した。身振り手振りを交えながら操作の方法を教えてくれた。


「反転するとき、飛竜を信じることや。人間が怖がると飛竜も怖がる。飛竜が怖がると反転が中途半端になる。そこで落ちる。怖いのは最初だけや。体が覚えたら、飛竜も覚える」


平良が老人に深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「応援しとるよ。本土の空を飛んでこい」



老人たちは水筒の茶を飲みながら、その日の練習を最後まで見ていた。



    *    *    *



一週間が経った。


テルはまだ落ちていたが、反転の形が出てきた。

ただしタイミングが合わない。


問題はトーチの受け渡しだった。


本物のトーチは使えないから、代わりに木の棒を使って練習した。

テルが背面飛行の状態でマツルに向けて棒を差し出す。

マツルが受け取る。


簡単そうに聞こえる。

実際には、逆さになった状態で自分の腕の感覚が狂っていて、棒の向きが毎回違う。

マツルが手を伸ばすタイミングも、コクヨウの静止がわずかにずれると全部外れる。


棒が海に落ちた。

また落ちた。

また落ちた。



「糞っ」


テルが海面を見ながらつぶやいた。


マツルが静かに言った。


「もう一回」


テルはヴェルを旋回させて戻った。



    *    *    *



二週間目に入った頃、カイトが言い出した。


「俺も、やってみたい」


平良は黙ってカイトを見た。

それから「やってみろ」と言った。



カイトは初日に三回落ちた。

テルより派手に落ちた。

マーテルが苦労して引き上げた。


岸で見ていた老人たちが手を叩いて笑った。


「あの子は元気があってええなあ!」


カイトは海水を吐きながら「うるさい」と言った。



    *    *    *



数日後、平良は古都に来ていた。


鞍馬飛竜駅伝大会の実行委員会。

古都の神殿近くにある、石造りの古い建物。

廊下の壁に歴代の優勝チームの写真が飾ってある。どこにも琉嶋の名前はなかった。



委員会室に入ると、十二人が席についていた。


先生は持参した図解を机に広げた。背面パスの手順を絵と文字で説明したものだ。

島の漁師の爺さんに手伝ってもらって、三日かけて書いた。


「以上が、私どもが大会本番で行いたいトーチ受け渡しの方法です。ルールの確認をお願いしたく、本日参上しました」



しばらく沈黙があった。


委員の一人が口を開いた。


「…… これは、危険ではないですか」


「練習中に部員が海に落ちたことは事実です。ただ現在は安定して実施できています」


「そもそもこれは神事を起源とする大会です。背面飛行などという曲芸めいた行為は、神事の品格を損なうのではないですか」


「ご意見はもっともだと思います」


別の委員が図解を指さした。


「ルール上の確認をしましょう。規則には『次走者の飛竜は静止した状態でトーチを受け取らなければならない』とあります。この方法では次走者の飛竜は静止していますね?」


「はい。マツル選手の飛竜コクヨウは、受け渡しの間、完全に静止しています」


「前走者の飛竜が空中にいる状態での受け渡しについては、規則に明文の禁止規定はない」


「危険だという話をしているんです!」



声が荒くなった。

数人が同時に喋り始めた。



そのとき、上座の老人が手を上げた。


七十代後半だろうか。白髪で、背筋だけはまっすぐだった。

委員長、と呼ばれていた。



室内が静まった。


老人はしばらく図解を見ていた。それから先生を見た。


「平良先生。少し聞いてもいいですか」


「はい」


「皆さんの意見はよくわかります。危険だという声も、神事の品格という話も、どちらも筋が通っています」



老人はゆっくりと話した。


「ただ、私にはひとつ、記憶があります」


委員たちが老人を見た。


「大戦前のことです。私は仕事で琉嶋に何度か渡ったことがありました。島の飛竜乗りたちと酒を酌み交わしたこともある。当時、本土と琉嶋の飛竜乗りはそういう交流があったんです」



先生は黙って聞いていた。


「その席で島の若い飛竜乗りが言っていたことを、今も覚えています。『本土の飛竜乗りと話すとき、一番困るのは飛竜の話をすると伝わらないことだ』と。私が『飛竜は移動手段だろう』と言ったら、その若者はこう言いました」



老人は一度、目を閉じた。


「『違います。家族なんです。島の飛竜は家族なんです』と」



室内が静かだった。


「その若者が戦争で飛竜に爆弾を括りつけられて飛んだのかどうか、私には知る術がありません。ただ、あの言葉は今も耳に残っています」


老人は図解に目を落とした。


「背面飛行でトーチを渡す。本土の私たちには奇策に見える。しかし、島の漁師が海の上で当たり前にやってきたことだ、と平良先生は説明された。飛竜を家族として扱ってきた島の文化が生んだ技術だということでしょう」



ひと呼吸おいた。


「琉嶋の子どもたちがその文化を大会の場に持ち込もうとすることは、私には少しも問題があるとは思えません。むしろ、歓迎すべきことだと思っています」



沈黙があった。


最初に「危険だ」と言った委員が、ゆっくりと頷いた。


「…… ルール上の問題はない。それは認めます」


「神事の品格」と言った委員も黙っていた。それから言った。


「神事の本義は、誠実に飛ぶことだ。島の子どもたちが誠実に飛んでいることは、見ればわかる」



採決は全員一致だった。


廊下に出て、先生は石造りの壁に手をついた。少しの間、そのままでいた。

そして、深く頭を下げた。


窓の外に、古都の夜景が見えた。

魔道灯の群れが、銀河のようにきらめいていた。



    *    *    *



古都から島に帰った翌朝。

平良は入り江に全員を集めた。


「合法だと確認が取れた」


それだけ言った。


カイトが「よし」と言った。

テルは息を吐いた。

マツルは何も言わなかったが、コクヨウの首をそっと撫でた。



その日の練習は、何かが違った。


テルが反転した。ヴェルが翼を揃えた。逆さになった世界の中で、棒をマツルに向けて差し出した。


マツルの手が伸びた。


受け取った。


落ちなかった。


誰も声を出さなかった。


先生が短く言った。


「もう一回」



もう一回やった。また受け取った。


カナが小さく「あっ」と声を出した。


岩に腰かけていた老人たちが、静かに頷いていた。



テルはヴェルの首を叩いた。

ヴェルはぷすっと鳴いた。


今日は笑っていなかった。

ただ、まっすぐ前を向いていた。




    *    *    *




二年目の大会は、二十三位だった。

出場チームが二十六だったから、最下位よりみっつ上だった。



「成長したな」と先生は言った。

カイトは「まだ全然足りない」と言った。

テルは「ヴェルがすごかった」と言った。

カナは笑った。マツルは何も言わなかった。ソウシは空を見た。



三年目の大会は、十七位だった。


実況アナウンサーが初めて、琉嶋代表の名前を呼んだ。


「シュリ飛竜部、じわじわと順位を上げてきました! 二区でマーカーの動きが止まらない。神谷マツル選手とコクヨウ、視界ゼロの霧の中を!どうやって飛んでいるんだ!!」



ラジオの前で、カナのおばあが息を詰めて聞いていた。


十七位。まだ遠い。でも、届いている気がした。



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