【第三章 怖いまま、落ちろ】
あの音が、耳に残っている。
ちゃぽん。
ちゃぽん。
二週間が経った。
カナは飛竜部のクラブハウスに来ていなかった。
テルは授業をさぼって飛竜小屋に入り浸り、声をかけても返事をしなかった。
カイトは毎日練習に来ていたが、マーテルを引っ張り回すだけで練習になっていなかった。
ソウシは、飛んでいた。熱が入っていないのが自分でもわかった。
シルヴァストラーダが時々こちらを向く。銀灰色の目が何かを訴えているのはわかるが、なんて答えればいいのかわからない。
マツルだけが、黙って全員を見ていた。
* * *
ある日の午後。平良先生がカナ以外の部員をクラブハウスに集めた。
錆びたパイプ椅子が四脚。ひっくり返ったコンテナの上に地図が広げてある。
カイトは腕を組んで壁に寄りかかり、先生を睨んでいた。
テルは椅子の端に座って、膝を抱えていた。
マツルは窓の外を見ていた。
ソウシは地図の前に立って、先生の顔を待った。
平良は全員の顔を一度ずつ見て、言った。
「お前たち、本土の空を飛んだとき、どう思った?」
誰も答えなかった。
「俺はお前たちに本当の空を見てほしかった。だから負けるとわかっていても出場させた。カナが『負けて悔しいけど、初めて違う空を飛べて楽しかった』と言ったとき、良かったと思った」
「しかし、それだけでいいのか?」
カイトが壁から体を起こした。
「勝ちたい。本土の奴らに島の飛竜の本当の力を見せてやりたい。俺たちの魂を叩きつけてやりたい」
即答だった。ソウシが鼻で笑う。
「無駄だ。飛行制限がある。高い空を飛ぶ練習ができない、これは致命的なハンデだ」
「やってみなきゃわかんねえだろ!」
「結果は出たじゃないか、先月。最下位だ」
テルが小さく手を挙げた。
「僕は…… もう一度飛びたい。ヴェルがあのとき、なぜ言うことを聞かなかったのか、知りたい」
ソウシがマツルに目を向けた。
「お前はどうなんだ」
マツルは窓の外を見たまま言った。
「私は勝てる。コクヨウが勝たせてくれる」
「はあ?何馬鹿なことを」
平良が口を開いた。
「そうだ」
全員が平良を見た。
「お前らの飛竜は負けない。飛竜は一度相棒と決めた騎手を絶対に裏切らない。ただ人間の側が裏切るだけだ。相棒の騎手に寄り添い、思いに応えようとする賢い生き物だ。お前たちの魂が飛竜を飛ばせるんだ」
カイトは舌打ちをした。が、反論しなかった。
* * *
その頃、カナは港の岸壁に座っていた。
毎日来ていた。ちゃぽんと沈んでいった場所。
海面が光を反射してきらきらしている。底はぜんぜん見えない。
足音がして、カイトが来た。
「今日もそこにいるのかよ」
返事をしないでいると、カイトはどかっと隣に腰を下ろした。
膝を立てて、腕を乗せて、海を見た。二人で黙って波を見ていた。
「先生が来年も出るって言ってたぞ」
「知ってる。あたしにも聞きにきた」
「え、お前大丈夫だったのか」
カナはちょっと笑った。
「大丈夫だよ。土を捨てられたときは、悲しかった。でも——あたしはもう一度、あの空を飛びたい」
「もしもまた、土を捨てられたら」
カナは海を見たままで言った。
「もう土は持って帰らない。おばあに見せてあげられなかったのは悲しかったけど、あたしはただ、もう一度あの空を飛びたいんだ。あたしとフラムが」
カイトはカナを見た。横顔が光の中で、眩しかった。
「お前って、強いんだな」
カナは首を横に振った。
「違うよ。フラムが強いんだよ」
カイトは答えなかった。
波が岸壁にぶつかって、砕けて、消えた。
* * *
そのころ、平良はひとりクラブハウスの裏手にある古い収納庫にいた。
埃っぽい棚の奥から、『和津國陸軍飛竜騎兵隊・訓練日誌』と記された革製のファイルを取り出す。
横に焦げて縮れた飛竜の鞍帯が置かれている。
ページをめくる。最後の記録は、鉛筆で小さく「中止」と書かれていた。
彼は指でその文字をなぞった。
長年、「安全」を最優先にしてきた。高度制限、装備の不足、本土との差。
それらを理由に、生徒たちが本気で「落ちる」瞬間を作らないように、無意識に手を加えてきた。
だが、あの雑誌のページをめくった生徒たちの目。彼らが求めているのは、守られた空ではなかった。
誠実さとは、失敗を避けることじゃない。飛ばせるだけ飛ばすことだ。
平良は日誌をそっと閉じ、埃を払った。
「…… もう、いい。これからはあいつらの空だ」
潮風が窓の隙間から入り、ページをぱらりとめくった。
* * *
数日後、カナも含めた全員がクラブハウスに集まった。
平良は地図を広げた。
コースが書き込まれた、あの地図だ。
一区は鞍馬から古都の南端で折り返し、老ノ坂を越えて亀岡まで
二区は丹波路。大江山連峰の山中を抜けて久美浜まで
三区は和津海の海岸沿いを経ヶ岬で折り返し、天橋立から舞鶴まで
四区は古都東の美山、大原の山岳地帯を越えて山科まで
五区は八幡で折り返し宇治を回って、そして再び古都へ。鞍馬神殿へ
全長 四二一.九五キロ。
「区間は変えない。初回と同じだ。一区テル、二区マツル、三区カナ、四区カイト、五区ソウシ」
誰も異論を言わなかった。
「ただし、今度は勝つために飛んでもらう。初回は自由に飛ばせた。何ができて何ができないか、俺自身が見たかったからだ。今回からは違う。俺が言ったことを聞け」
平良はテルを見た。
「テル。お前は初回、急降下ができなかった」
「…… はい」
「なぜできなかった?」
「怖くて、手が動かなかったです」
「そうだ。だが、ヴェルが降下を始めたとき、お前は落ちた。手綱を手放さなかった。怖いまま、落ちた」
テルは黙った。
「島では五百メートルの急降下はできない。だから崖で練習する。五十メートルから落ちる。それを繰り返す。怖いまま落ちることを、体に叩き込め」
「怖いまま、ですか」
「怖くなくなってから落ちようとしていたら、一生落ちられん。怖いまま落ちられるやつが、一番強い」
テルは手のひらを見た。話を聞いているだけで汗が出ていた。
今度はカイトを見た。
「カイト。お前は初回、マーテルを振り回した」
「…… わかってます」
「お前は力で引っ張る。焦ると特にひどくなる。飛竜は力で動かすものじゃない、角度で動かすものだ。体重移動で、重心の移動で飛ばす。それができるようになるまで、俺が怒鳴り続ける。覚悟しろ」
「…… はい」
カイトの返事が、珍しく素直だった。
次はマツルを見た。
「マツル。お前はコクヨウに飛ばせすぎる。飛竜任せが過ぎる」
「コクヨウが正しい判断をします」
「そうだ。だから困る」
マツルが初めて、わずかに表情を動かした。
「コクヨウが安全策をとりたがるのは知っているな。霧の山岳でコクヨウが躊躇したとき、お前は手綱を緩める。コクヨウを信頼しているからだ。それは正しい。だが、それだけでは足りない。飛竜を信頼することと、飛竜を導くことは、別の話だ」
「…… 導く」
「コクヨウはお前の気持ちを感じて飛ぶ。もっと速く飛べるとお前が本当に思えたとき、コクヨウは応える。飛竜任せと人竜一体は、似ているようで全然違う」
マツルは窓の外を見た。何かを考えていた。
そしてカナを見た。
「カナ。三区の海沿いコースは暴風が吹く。初回、お前はどう飛んだ」
「高度を下げました。でも波に翻弄されて……うまく飛べなかったです」
「低空飛行は正しい判断だ。ただ、低空で波を避けながら飛ぶ練習が足りなかった。荒れた海での訓練を積め。フラムは小さい分、波の隙間を縫う動きができるはずだ」
「はい」
「それと」
先生が少し間を置いた。
「あの唄は、レースでも歌っていいぞ」
カナが目を丸くした。
「あの唄がフラムに何をするのか俺には説明できない。ただ、練習中にお前が歌うとフラムがどう変わるか、俺は見てきた。レースで使わない手はない」
カナはしばらく黙って、それからこくんと頷いた。
平良は最後にソウシを見た。
「ソウシ。五区は全員の魂を運ぶ区間だ。お前に足りないものはひとつだけだ」
「なんですか」
「飛竜に無理をさせることを、恐れるな」
ソウシの表情が、わずかに固まった。
「計算して飛ぶな、という話じゃない。お前の計算は正しい。ただ、計算通りにいかないとき、お前はレースを流す。飛竜に無理をさせるくらいなら、順位を諦める。シルヴァが傷つくのが怖いからだ」
ソウシは答えなかった。
「シルヴァはお前の気持ちを知っている。お前が無理をさせまいとするからシルヴァも限界を手前で止める。飛竜は騎手が諦めるまで飛ぶ生き物だ。お前が諦めなければ、シルヴァも諦めない」
ソウシはしばらく黙っていた。
「…… わかりました」
短い返事だった。平良はそれで十分だという顔をした。
* * *
解散になった後、テルはひとりクラブハウスに残った。
地図を見ていた。一区のコースを指でなぞった。
魔王の舞台から急降下して、都大路上空を越え、木津川で西にターン。丹波路へ。
怖い。考えれば考えるほど怖い。
ヴェルが飛竜小屋の柵から首を伸ばして、じっとこちらを見ていた。
テルは立ち上がって小屋に向かった。
柵に手をかけると、ヴェルが鼻先を押しつけてきた。
「怖いよ」
テルは小声で言った。
ヴェルはぷすっと鳴いた。
知ってる、と言っているみたいだった。
テルは苦笑した。
「一緒に落ちてくれるか」
ヴェルは鼻を鳴らさなかった。ただ、静かに目を細めた。
落ちる
何度でも
お前が手綱を握っている限り
テルはヴェルの首に顔を埋めた。
鱗の匂いがした。
明日から、崖で練習だ。




