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【第一章  琉嶋列島代表】


群青の海と、蒼い空の間を、今日も野生の飛竜が飛んでいる。

テルはその飛竜から目を離せないまま飛竜小屋の柵にもたれていた。

隣でヴェルティカが鼻を鳴らした。深緑色がかった灰色の翼を持つ、テルの相棒。

まだ若い雌の個体で、島の飛竜の中では旋回性能が群を抜いていた。


テルはヴェルの首をそっと撫でた。


「本土の空、どんな感じだと思う?」


ヴェルはぷすっと鼻を鳴らした。


広いに決まってるだろ、と言っているみたいだった。


テルは笑った。



怖いけど、行ってみたかった。



    *    *    *



鞍馬山くらまやま中腹、鞍馬神殿の断崖・魔王ノ舞台(まおうのぶたい)

標高五百メートル。


眼下に広がる古都の夜明け。都大路みやこおおじには、まだ灯が残る魔道灯の群れが銀河のようにきらめいて、息が止まるほど美しかった。


テルは飛竜ヴェルの首にしがみついたまま、下を見ることができなかった。


喉がひりついている。

右手の甲が、汗で滑っていた。



周囲の選手たちは、すでにスタートゲートで飛竜を落ち着かせ、余裕のある顔をしていた。本土の大学の附属校、どこも名門だ。飛竜は選別に選別を重ねた大型の個体で、翼を広げると十メートルを超える。鍛え上げられた翼膜がなめらかな光を弾いている。


でっかい。


ヴェルの首をぎゅっと抱く。

島ではいちばん速いと言われたテルの相棒。深緑色がかった灰色の翼は、本土の飛竜と比べると一回り以上ちんまりしていて、まるで鷹が鷲の群れに紛れ込んだみたいだった。


いや、鷹の方が旋回は上手いから。


自分でもちっとも信じていない言い訳を頭の中で転がしていると、ヴェルが振り向いた。

ちいさく、ぷすっと鼻を鳴らす。


なんで笑うんだよ。

テルはヴェルの鱗を指先でなでた。温かい体温が手のひらに伝わってくる。



となりのゲートに入っている本土の選手はパリッとした上質の騎乗服に最新の魔道具を装備している。

シュリの部員たちとは何もかもが違って見えた。


ちらっと目が合った。

相手は目を逸らさなかった。睨んでいるわけじゃなくて、ただ、テルの存在にさしたる意味を認めていないという目だった。


茶色い髪。

あ、ハーフだとばれた。


胃がきゅっとなって、無意識に視線を落とした。ヴェルが首を傾ける。小さく翼を揺らした。


大丈夫だから。


島の言葉で囁いた。

ヴェルにだけ聞こえる、ほとんど吐息のような言葉。

どちらが大丈夫だと言い聞かせているのか、自分でもよくわからなかった。



    *    *    *




大会五日前。

長い船旅だった。琉嶋から摂津せっつの港まで、船で丸二日かかった。

甲板でヴェルの羽を撫でていたら、平良先生が隣に来て煙草をふかした。


「昔はもっと人が往来していたんだがな」


先生が遠い目をして海を見た。


「大戦前はうちの島から本土まで、飛竜の定期便があった。六、七人乗れる中型の飛竜でな。一日かかったが、そんなもん当たり前だった。観光客も商人も行き来していた。島の飛竜乗りは古都でも知られていたんだよ」



テルには想像できなかった。

島の子は古都に行くのに、渡航申請書を出して、パスポートをとらなければいけない。

生まれて初めてとったパスポート。本土人なら必要のない紙切れ一枚。


同じ国のはずなのに。


いや、今はもう違う。和津國から切り離された琉嶋は、今はアギラ連邦の統治下にある。

それが現実だ。



先生は煙草の煙を海に吐き出した。


「大会の申請書類に何て書いたか知ってるか」


知っていた。出場校の欄に書かれているのは


「琉嶋列島代表 シュリ飛竜部」


本土の県じゃない。

古都、府、本土の府県代表とずらっと並ぶなかに、ひとつだけ異質な文字列。

つい、奥歯を噛みしめていた。



先生はそれ以上なにも言わなかった。

煙草の火が海風にゆらゆら揺れて、消えた。



    *    *    *



港から、さらに魔導列車で三時間。初めて古都の街を歩いた。


でかい。なにもかもが、でかい。

魔道灯の柱が何百本と並ぶ大通り、石畳の広場、何十年も変わらず立っているらしい石造りの建物たち。島の木と珊瑚でできた家屋とは、根本から違う重さがあった。



ソウシが隣で口笛を吹いた。


「思ったより普通だな」


カイトが鼻で笑う。


「どこが普通だよ。俺んちの三倍でかい建物が普通に並んでるじゃねえか」


カナが「わあ」とか「すごーい」とか言いながらくるくる回っていた。


マツルだけが黙って歩いていた。小麦色の横顔。

きれいだとテルは思って、すぐに頬に熱がきて、視線を前に戻した。



三条通さんじょうどおりを歩いていると、本土の人の目がときどきこちらを向いた。


ひとりの老人が立ち止まって、こちらをじっと見た。

眉間に深い皺が刻まれた、七十は超えているだろう男性。目が合った。


怒っているのかと思ったが、違った。

その目には、どこか申し訳なさそうな色があった。

それが逆に、テルの胸にこたえた。



大通りから一本入った横丁の、古い茶店の前を通ったとき、店の奥にいた中年の女が声を上げた。


「あれ、琉嶋の人じゃないか!」


連れの客に早口でなにか喋っている。


「昔の琉嶋勢は強かったんだよ、本当に。うちの爺さんがいつも言ってた、あの飛竜捌きはどこにも真似できないってねえ」


カイトが聞こえないふりをしながら足を止めずに歩いた。背中がちょっとだけ、ぴんとしていた。



大通りの反対側から、若い男たちの声。


「占領地の奴らが何しに来てんだ?」


誰も振り向かなかった。

ソウシが「行くぞ」と言って、足を速めた。



    *    *    *



大会三日前。

平良先生の奔走により、シュリ飛竜部は特別練習許可を得た。場所は古都の北西、峯山みねやま。草生した滑走路が残る旧軍用飛行場。


「練習時間は二時間。カイト、大会前だぞ。マーテルを無理に回すな。 ……まあ、窮屈な船旅だった。まずは羽を伸ばしてこい」


先生の言葉が終わるか終わらないかのうちに、カイトのアズルマーテルが真っ先に地を蹴った。


島の飛行制限で決して許されなかった、高度三百メートル。


「これが本土の高さか!」


広大な古都の町並みが足元に広がり、カナやカイトは歓喜の声を上げる。

ソウシは最後に、シルヴァストラーダの首を軽く叩いて空へと昇った。


「海が見えなーい! 建物がおもちゃみたい!」


眼下の家々を見下ろして、カナがはしゃいだ声を上げる。


「これなら行けるぜ! 四区の高速旋回で、本土の奴らの度肝を抜いてやる!」


カイトがマーテルの速度を上げ、派手な旋回を繰り返す。

テルはといえば高すぎる高度に腰が引けているのか、ヴェルの首にしがみついたまま、時折下を見ては顔を青くさせていた。


だが、一人だけ。ソウシだけは、冷ややかな違和感に襲われていた。


軽い。


シルヴァの翼が掴む空気が、あまりに手応えがない。

島の湿った、密度のある潮風とは違う。古都の空気は乾燥し、そして薄い。

旋回を試みる。いつも通りの角度で体重を預ける。だが、シルヴァの体が想定よりも外側へと膨らんだ。空気が掴めない。


「シルヴァ、もう一度だ」


急降下からの引き起こし。

視界の端で流れる地上の景色。島で飛んでいるときよりも、距離感が掴めない。

地上の建物があまりに遠く速度の実感が狂う。自分が今、どれだけの速さで、どこに向かっているのか。空間把握が崩れていく。


まずい。これでは勝負にならない。



    *    *    *



「楽しかったー! ね、先生、本土の空って最高だね!」


着陸するなり、カナが興奮を隠さず先生に駆け寄った。カイトも「余裕だな、あんな奴ら」と鼻を鳴らしている。

テルは地面に降りて、ようやく生きた心地がしたのか、ヴェルの脚に手をついて肩で息をしていた。


一人、シルヴァの鞍を外しながら立ち尽くすソウシに、マツルが静かに歩み寄った。

彼女はコクヨウの漆黒の鱗をなぞりながら、表情を変えずに言った。


「コクヨウが、不思議がっている」


ソウシが顔を上げると、マツルは空を見上げていた。


「島のように飛べない。空が逃げていく、って」


心拍が跳ね上がる。自分だけが感じた違和感ではなかった。


「マツル、お前もそう感じたのか」


「私は、ただコクヨウが戸惑っているのが伝わってくるだけ」


ソウシは答えられなかった。

黙って、遠くに見える鞍馬の山を見つめた。



その夜。

ソウシは宿の平良先生の部屋を訪ねた。

先生は窓を開け、夜の古都を眺めながら煙草をふかしていた。


「先生、報告があります」


ソウシが切り出すと、先生は振り返りもせずに言った。


「空気が違うか」


「わかっていたんですか」


「ああ、わかっていた。お前たちの小柄な竜では、この高さじゃ不利だ」


先生がゆっくりと振り返った。その目は、憐れみではなく、どこか遠いものを見るような、穏やかなものだった。


「なぜ言わなかったんですか」


「言ったら、お前たちは何をした」


ソウシは答えられなかった。



先生が煙草の火を消した。


「対策できないことがある。それを知って飛ぶのと、知らずに飛ぶのは違う」


「最初は、知らずに飛ばせたかった」


窓の外に、古都の夜景が広がっていた。都大路に魔道灯の群れが、銀河のように瞬いている。


「その後にしか、見えない景色がある」



ソウシは部屋を出て、長い廊下を歩きながら、先生の言葉を反芻した。


知らずに飛ばせたかった。


カナが「楽しかった」と言えたのは、知らなかったからだ。知っていたら、楽しめなかったかもしれない。

ソウシはその夜、なかなか眠れなかった。



    *    *    *



大会当日の朝。

テルは三回、宿の洗面台で吐いた。


一回目はまだ暗いうちに。

二回目は朝飯の後に。

三回目は出発の直前に、もう何も出なくなった胃から、それでも出そうとして、ただ嗚咽だけが出た。


ヴェルティカが飛竜小屋からテルの服の端を嘴でひっぱった。

離れない。どこへ行くにもついてくる。


結局テルはヴェルの首に顔を埋めて、十分間そのままでいた。

ヴェルの体温が頬に伝わった。鱗の匂いがした。島の飛竜小屋と同じ匂いだった。


少しだけ、息ができた。



    *    *    *



そして今、魔王の舞台。

スタートの合図まで、あと三十秒。


神殿の巫女が、長い柄のトーチを空に掲げた。

深紅の炎が、夜明け前の闇に揺れる。


これが鞍馬神殿の灯。千年前から続く、神事の炎。



テルは手綱を握り直した。汗が滑る。手綱を握る。また汗で滑る。


ヴェルが低く唸った。


 準備はいい?


テルはヴェルの首を一度だけ叩いた。


合図の鐘が鳴った。

テルは飛べなかった。


だけど飛んだ。ヴェルが飛んだ。

ただ、テルの体が一瞬固まって、手綱の動かし方を忘れていた。

魔王の舞台から急降下する、その最初の一手が出なかった。



他の飛竜たちが次々と断崖を蹴って飛んでいく。

マナを放出するときの甲高い高周波音を響かせながら、巨体が宙を泳いで空気を裂いていく。轟音と風圧がテルの体を叩いた。


ヴェルがぎりぎり降下を始めた。

緩やかな滑空。テルが急降下の指示を出せなかったから、ヴェルは慎重に高度を落とした。


眼下に古都の街、都大路が広がっていた。


きれいだと思う余裕も、なかった。



それでも、飛んだ。


一号線に沿って古都の中心を突っ切る。

島では絶対に飛べない高度、地上三百メートル。

風の強さが違う。体に当たる空気の密度が、島とは別物だった。


テルはパニックになっていた。

あれほど繰り返したUターンの手順が、頭の中から消えていた。

前後左右から本土の飛竜たちの風圧が来る。ヴェルが翼を震わせた。


「ヴェル!」


叫んだって届かない。風の音に全部かき消される。

ヴェルが体を傾けた。テルの手綱より先に、ヴェルが旋回を始めた。


 ここで曲がる


ヴェルが背中で言っている気がした。指示じゃなくて、提案。

テルはとっさに手綱の角度を合わせた。


旋回が決まった。完璧ではなかったが、決まった。



老ノ坂(おいのさか)に差し掛かる頃には、最下位だった。

遥か前方を本土の大型飛竜の群れが飛んでいく。

ヴェルの全力と、本土の飛竜の余裕が、この距離をつくっていた。


それでも、テルは叫んだ。


「ヴェル! 行けるか!!」


ヴェルが鳴いた。本土では誰にも聞き取れない、島の飛竜の言葉。


 行ける


テルはようやく、前を向いた。



    *    *    *



大会は終わった。

結果は、最下位。全区間で最下位。

実況アナウンサーが「琉嶋列島代表は健闘しましたが——」と言い、以降は触れなかった。



それでも、シュリ飛竜部員たちは飛んだ。


マツルとコクヨウは霧の山岳を鮮やかに抜けた。

カナとフラムは荒れる海でずぶ濡れになりながら飛んだ。

カイトとマーテルは山岳地帯の後半で力尽きかけながら、カイトが手綱を引いて立て直した。

ソウシとシルヴァは最後、魔王の舞台まで一気に急上昇して、ゴールした。



宿に戻って、カナが言った。


「負けて悔しい気持ちはあるけれど、初めて違う空を飛べて、楽しかった」


誰も笑わなかった。

笑えなかったわけじゃなくて、ただ、それが全員の本音だったから。



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