最終話 澄み渡る春の空
季節は巡り、凍てつく冬の記憶は、柔らかな春の陽光の中へ少しずつ溶けていった。
並木道の桜は今にも弾けそうなほど蕾を膨らませ、風にはかすかに花の匂いが混じっている。
三ヶ月に及ぶ長い入院とリハビリを終え、俺は今日、久しぶりに上頭中学校の制服に袖を通した。
鏡の中の自分を見る。左の前髪に、一筋だけ白くなった部分がある。あの夜の極限のストレスが、こんな形で残ってしまったらしい。
「朱音、大丈夫? 無理してない?」
隣を歩く美桜が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。もう、バッチリ休んだから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えて笑うと、美桜はまだ少し疑わしそうな顔のまま、俺の手を握り直した。
「でも白髪、やっぱり染めたかったなぁ」
「駄目だよ。薬が悪さするかもって、お医者さんにも止められてたでしょ。今はまだ無理しちゃ駄目」
「うぅ、ちょっと恥ずかしい……」
美桜の手のひらに、少しだけ力がこもる。
あの埠頭のタラップで感じた、千切れそうな孤独。その記憶を塗り潰すみたいに、彼女の手は温かく、頼もしかった。
「……あの日、パトカーの中でも病院でも、美桜が私の手を離さないでいてくれたから、また学校に来れたね」
俺がそう言うと、美桜はぴたりと足を止めた。
それから、ぽろぽろと大きな涙を零し始める。
「ちょ、美桜!? なんで今泣くのさ」
「だって……朱音が、ほんとにいなくなっちゃうかと思ったんだもん。ずっと、ずっと怖かったんだから……。なんか今、ここに一緒にいるのが嬉しくて……」
美桜は俺の肩に顔を埋め、そのままぎゅっと抱きしめてきた。
「もう絶対、手放さないからね。どこにも行かせないんだから」
「わかった、わかったから。……ちょっと苦しいよ、美桜」
苦笑しながら背中を優しく叩く。
前世の俺には、こんなふうに感情を剥き出しにして求めてくれる存在はいなかった。
田中朱音として生きるこの世界は、不自由で、脆くて、けれど驚くほど温かい。
しばらくそうして抱き合ってから、美桜は慌てて目元を拭った。
俺はポケットからハンカチを出して、美桜の涙をそっと押さえる。
「ほら。せっかくの春なのに、そんなに泣いたら桜より先に顔がしおれちゃうよ」
「なにそれ……」
「でも、本当にありがとう」
「……うん」
美桜は少しだけ笑った。
その顔を見て、ようやく俺も肩の力を抜くことができた。
見上げた空は、嘘みたいに澄んでいた。
冬の終わりに見た灰色の空とは、まるで別の世界みたいだ。
「おーい! 朱音! 美桜ー!」
前方から、聞き慣れた賑やかな声が飛んできた。
愛ちゃん、神田、梨花、相澤。いつものメンバーが、満面の笑みで駆け寄ってくる。
「退院おめでとう、朱音!」
「久しぶりじゃん! 寂しかったぞー!」
全員が口々に言いながら、俺の顔を覗き込んだ。その空気がひどく温かくて、胸の奥がじんわり熱くなる。
「あれ、美桜ちゃん泣いてる?」
「な、泣いてないよ。目に砂が入っただけ!」
美桜は慌てて顔を背けた。その横顔さえ、今は愛おしい。
「っていうか相澤、なんで車椅子押してんの?」
「いや、歩けないほど重症って聞いたから、搬送のお手伝いを……」
「普通に歩いてきたよ、ここまで」
「えぇ~……俺、めっちゃ恥ずかしいじゃん。気合い入れて保健室から借りてきたのに……」
顔を真っ赤にする相澤に、みんなで笑った。
張り詰めていた心が、ようやく本当にほどけていく。
その時だった。
俺たちのすぐ横を通り過ぎた上級生たちの会話が、ふと耳に入った。
「ねえ、聞いた? 隣のクラスの子、最近、塾の講師と付き合ってるらしいよ」
「え、まじ?」
「なんか男の家にも行ってるとか。ちょっと怖くない?」
ピクリ、と眉が跳ねた。
塾の講師で年上の男。
付き合って、家にも行っている。
繰り返し接触。
脳の奥で、元警察官だった頃の警戒心が無意識に頭をもたげる。派手な事件の匂いじゃない。けれど、こういう小さな違和感が、後から嫌な形に育つこともある。
下手したらグルーミングと言われる手なづけで洗脳されている可能性もある。被害に遭っていることにも気づかず、被害者の心が壊れる。
「……あの、すみません」
俺は美桜の手を離し、先輩たちの方へ一歩踏み出しかけた。
どこのクラスか。いつからか。相手の特徴は。まずは事実確認をしないと――
だが、その肩を背後からぐいっと引かれた。
「……朱音。どこ行くの」
「美桜。今の、ちょっと気になる……」
「だーめ」
低い声で言い切られた。
振り返ると、美桜がものすごく真顔で俺の腕を掴んでいる。
「すぐそうやって首突っ込もうとするんだから」
「でも、もし何かあったら」
「そういうのは先生に言うの。今日は復学初日でしょ。朱音が一人で何とかする話じゃない」
その前に、愛ちゃんと梨花が通せんぼみたいに両手を広げて立ちはだかった。
「そうそう。まず先生!」
「今日はちゃんと中学生やってください!」
愛ちゃんの剣幕は、今まで見たことがないくらい真剣だった。
俺は思わず口ごもる。
「いや、でも……こういうのって初動が……」
「返事は短く!」
「……はい」
「よろしい」
後ろで相澤がぼそっと呟く。
「田中さんって、マジでブレねぇな……」
神田さんは苦笑しながら、さっきの上級生たちの方へ向かっていった。ちゃんと先生に繋ぐつもりなのだろう。
それを見て、ようやく肩の力が抜けた。
そうだ。
今の俺は、警察官じゃない。
ただの、少しだけ心臓が弱くて、でもこんなにも心配してくれる人たちに囲まれている、中学一年生の女の子だ。
「ほら、授業に遅れるよ」
美桜がぐいっと手を引く。
「はーい」
「返事が軽い」
「すみません」
「よろしい」
みんなの笑い声が重なった。
かつての誇りも、失ったものも、救えなかったものも、全部消えるわけじゃない。
それでも今の俺には、美桜がいて、仲間がいて、帰れる日常がある。
『高橋、見てるか』
心の中で、そっと呟く。
『俺は今、最高の相棒と、最高の仲間たちに囲まれてる』
41年の誇りと、12歳の戸惑い。
そのどちらも抱えたまま、俺はこの新しい人生を歩いていく。
美桜に手を引かれながら、俺はみんなの輪の中へ戻っていった。
澄み渡る春の空の下で、日常は静かに、そして確かに続いていく。
了




