第73話 亡霊への敬礼
振り返った瞬間、俺の心臓は別の意味で跳ねた。
美桜も同じだったらしく、俺の袖を反射的に掴んだ。
屋上の入り口に立っていたのは、木村陽太、舞香先輩、そしてその両親だった。
陽太のツーブロックはきれいに剃られ、精悍な坊主頭になっている。その変化だけで、この2ヶ月の重みが分かる気がした。
「ほら、お兄ちゃん! ちゃんと自分の口で言って!」
舞香に促され、陽太が深く腰を折る。
直角になるほどの、取り繕いのない謝罪だった。
「今回のことは、本当に……ありがとうございました。俺みたいなバカのために、命を懸けてくれて……。本当に、すみませんでした」
続いて、両親も涙ながらに頭を下げた。
崩れかけていた家族が、こうして揃って立っている。それだけで、胸の奥にじわりと温かいものが広がっていく。
「舞香先輩を、もう泣かせないでくださいね。家族を、大事にしてください」
俺がそう言うと、陽太はその場で男泣きに泣き崩れた。
何度も何度も頭を下げる。
聞けば、彼は自首として受理され、組織との決別を誓ったこと、再犯防止の枠組みにきちんと乗ったこと、家庭環境や事件全体の事情も踏まえられ、少年院送致ではなく保護観察処分となったらしい。
制度として全部が甘いわけじゃない。けれど、この話は「終わらせる」のではなく、「立て直す」方向で動いたのだと分かった。
一家は心機一転、新天地へ引っ越すことになったという。
舞香の瞳には、あの図書室で見た絶望の色はもうなかった。
退院を数日後に控えた午後、病室を訪ねてきたのは、皺ひとつないスーツに身を包んだ鋭い目の男だった。
「田中朱音さん。急な訪問で申し訳ない。今、少し大丈夫かな?」
俺は読みかけの文庫本をサイドテーブルに置き、その男を見つめる。
「あ、はい。大丈夫です。えっと……」
「ああ、すまない。私は警視庁特別捜査課を指揮している白川だ。君のおかげで大忙しでね。来るのが遅れた」
指揮をしているということは管理官か。雲の上の存在だ。
かつて警察組織の中にいた俺にとって、その響きだけで立場の重さは分かった。
起き上がろうとすると、白川は片手でそれを制した。
「体調はどうだ」
「……おかげさまで。ご迷惑をおかけしました」
「こうして見ると、本当にどこにでもいる中学生にしか見えないな」
白川は窓際へ歩き、しばらく都心の景色を眺めていた。
それから、静かに話し始める。
「君が残したパケットから、宮城県の拠点は完全に潰した。踏み込んだ時にはもぬけの殻だったが、手がかりが山ほど出たよ。大量の他人名義のスマホ、半グレ連中、名義の飛んだ回線、ペーパーカンパニー、金の流れ……芋づる式だった」
「……」
「宮城県警は相当大変だったろうな。うちに泣きついてきたくらいだ」
白川は少しだけ苦笑した。
「木村陽太も、自首として受理された。いまは鑑別所を経て、保護観察で家庭へ戻る方向で調整が進んでいる。少年院送致は避けられそうだ」
「そうですか……」
それを聞いて、胸の奥に静かな安堵が落ちた。
「それと、君が武蔵小杉の改札前で監視役から借りた千円札な」
「……」
「しっかり指紋が出た。あいつも無事に逮捕したよ。まったく、よくあんなことを考えたもんだ。千円札借りて財布に入れるんだもんな」
白川は俺に向き直る。
その目には探る色があった。だが、それ以上に濃かったのは、明らかな敬意だった。
「……君は、一体何者なんだ? 現場の捜査員はみんな首を傾げている。君がやったことは、プロの潜入捜査でも危うい。合理的で、無茶で、そして勇気がある」
俺は少女らしく首を傾げ、微かに笑ってみせた。
「……ただ、友達を助けたかっただけです。おまわりさんが、助けてくれるって信じてたから」
白川はフッと口角を上げた。
納得した顔ではなかった。けれど、それ以上追及するつもりもなさそうだった。
彼は姿勢を正し、背筋を伸ばす。
そして、一人の女子中学生へではなく、命を懸けて職務を果たした誰かへ向けるみたいに、完璧な敬礼を捧げた。
「君たちの未来は、我々が全力で守る。……生きていてくれて、本当にありがとう」
その敬礼を見た瞬間、胸の奥で長く彷徨っていた何かが、ようやく静かに膝をついた気がした。
高橋満雄という、四十一年生きた亡霊。
その亡霊に、警察が敬礼してくれた。
俺はもう、過去にしがみつくためにここにいるんじゃない。
田中朱音として、生き直していいのだと、ようやく思えた。
退院の日。
俺は千夏さんが運転する車の助手席に揺られ、児童養護施設へ戻っていた。
「施設の子たちには、持病が悪化して入院してたって話にしてあるから。……それにしても、誘拐されて海外に売られそうになってたなんて、今でも同じ世界の出来事とは思えないわ」
「……本当に、ごめんなさい」
車内でも、何度目か分からない謝罪を口にする。
好きで死にかけたわけじゃない。そう思っても、千夏さんの疲れた横顔を見ると、申し訳なさが先に立った。
施設の玄関を開ける。
夕飯の支度の匂いと、使い込まれた木の匂いが鼻をくすぐった。
離れていたのは3ヶ月。
五感に入ってくる全部が、凍りついていた心を少しずつ溶かしていく。
ここが、俺の帰る場所なんだ。
「……ただいま」
リビングの扉を開けると、ちょうどみんなが夕飯を食べている最中だった。
一斉に視線が向く。
その中に、美桜もいた。
こっそりと小さく手を振っている。退院の車に乗ってこなかったのは、千夏さんと一緒だと説教が長引くと思ったからだろう。先回りしてここで待っているあたり、本当にあいつらしい。
「朱音ちゃーん! 退院おめでとうーっ!」
調理場から、ゆかり姉さんが右手にお玉を持ったまま飛び出してきた。振り回すたびに中身が床へ飛んでいて、相変わらずだ。
「ちょっと、ゆかり! 汚いわよ。……まあ、退院おめでとう。今度、快気祝いに新しい服でも買ってあげるから。元気出しなさいよ」
清美先輩がぶっきらぼうに言う。
でも、その目はやっぱり優しかった。
騒がしい夕食の風景が、死の淵に立った夜を少しずつ遠ざけていく。
完全には消えないだろう。傷も、恐怖も、きっと残る。
それでも今は、この日常に戻れたことが、ただ嬉しかった。




