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第72話 ただいま、美桜


 意識の深淵、底知れぬ闇の底から浮かび上がる感覚は、重い泥の中を這い上がるようだった。

 遠く、けれど執拗に、規則的な電子音が鼓膜を叩く。


 ……ピッ、……ピッ、……ピッ


 その無機質なリズムは、一度は絶望の埠頭で止まりかけた俺の鼓動が、まだこの世界に踏みとどまっていることを告げていた。


 ゆっくりと、重い瞼を開ける。


 目に飛び込んできたのは、白い天井だった。

 レースのカーテン越しに柔らかな朝の光が差し込み、その静かな明るさの中に、一人の少女がいた。


 美桜だ。


 パイプ椅子に小さく丸まりながら、俺の右手を壊れものみたいに両手で包み込み、そのまま深い眠りに落ちている。

 目の下には濃い隈が落ち、頬は少しだけ痩せていた。


 ……ああ、戻ってきた。


 自由の利かない指先をほんのわずかに動かし、美桜の手の甲をなぞる。

 その確かな温もりに触れた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 美桜が弾かれたように顔を上げる。


「……朱音?」

「……ただいま、美桜」


 掠れた、今にも消えそうな声。

 それでも確かに、田中朱音としての俺の声だった。


 美桜は一瞬、息を止めて俺を見つめた。

 次の瞬間、言葉にならない叫びを漏らし、俺の胸元に顔を埋めて、迷子だった子どもみたいに激しく泣きじゃくった。


「朱音……! 朱音! 朱音……っ!」

「ごめん……。心配、かけたね」


 震える肩を、俺は力なく、けれど精一杯の愛しさを込めて撫で続けた。

 美桜の涙が病衣を濡らしていく。その熱だけが、いま俺が生きている証拠みたいだった。


 医師や看護師による診察と処置が一段落し、病室に再び静けさが戻ってきた頃になって、ようやく話を聞く余裕ができた。


 俺があの埠頭で倒れてから、もう一ヶ月が過ぎていた。

 搬送された時の俺は、致死性の不整脈と極度のショックで、心臓が停止寸前まで追い込まれていたらしい。救急搬送の途中で意識を失い、そのまま集中治療を受けていたのだという。


「……本当に、バカ」


 美桜は目を真っ赤に腫らしながら、怒ったみたいに唇を尖らせた。


「死んじゃうかと思ったんだから」


 その言葉の重さに、何も返せなかった。

 ごめん、と口にするしかないのに、その一言では軽すぎることくらい、自分が一番分かっていた。


「もう、絶対に無理させないから。少しでも無茶しようとしたら、私が力ずくでも止めるから」

「うん……」

「約束」

「……うん」


 美桜はようやく少しだけ笑った。

 けれど、俺の中ではまだ終わっていなかった。


 冷たい潮風。

 鋼鉄の貨物船。

 あの男たちの汚い笑い声。


 フラッシュバックみたいに一瞬で脳裏に蘇ったその記憶に、胸の奥がぎゅっと縮み上がる。


 ピッピッピッピッ!


 モニターの心拍音が急に跳ね上がった。


「朱音?」

「だ、いじょうぶ……」


 口ではそう言っても、全然大丈夫じゃない。

 あの夜の「死の恐怖」は、前の人生の記憶さえも上書きしてしまうほど深く、この身体の奥に刻みつけられていた。


 美桜は何も言わず、そっと俺を抱きしめた。

 細い腕なのに、不思議なくらい安心した。

 その温もりの中で、ようやく俺は、自分がまだここにいていいのだと少しだけ思えた。




 それから、俺は病院でリハビリを始めた。


「はい、いいですよ。五十メートルでも脈拍は安定していますね。次はもう少し延ばしましょう」


 心電計の端末をつけたまま、廊下をゆっくり往復する。

 たったそれだけのことが、今の俺にはものすごく遠い作業だった。


 病室へ戻ると、廊下の端で美桜が車椅子を押して待っていた。


「朱音。おつかれさま」

「ありがとう」


 俺は、そのまま車椅子に身体を預けた。

 少し歩いただけなのに、心臓はじんわり熱を持っていた。


「今日は天気がいいから、屋上に行かない?」

「いいね」


 ダウンコートを羽織ってエレベーターで上がる。

 昼前の屋上は思ったより暖かく、冬の日差しがコンクリートに淡く広がっていた。


 ベンチに並んで座る。

 美桜がぴたりと横へくっついてきて、コート越しでもその温もりが伝わった。


「……早く学校に行きたいな」

「みんな心配してたよ」

「そっか。美桜も、無理しないでね」

「それ、どういう意味?」


 しまった。

 美桜の口がじわっと尖っていく。


「いや、なんでもないです……」

「うん。私は私の意思で来てるんだから」

「……ありがとう。不安だったから、嬉しい」


 そう言うと、美桜は少しだけ目を伏せた。

 それから、俺の手を強く握り、周囲を見回す。俺も同じように見渡したが、屋上には誰もいなかった。


「……いい?」


 頬を赤く染めながら、美桜が小さな声で言う。

 俺が頷くと、吸い寄せられるように唇が重なった。


 背中に回された手のひらが、かすかに震えている。

 慈しむみたいに、確かめるみたいに、ゆっくりと時間をかけて触れ合った。


 少しだけ顔が離れる。

 吐息が熱い。

 至近距離で視線を交わして、どちらからともなく小さく笑った。


 二度目のキスは、さっきよりも深くて、せつなかった。


 溢れ出した「好き」という感情が、重なる鼓動の奥で静かに溶けていく。

 もう、言葉なんていらなかった。


「田中さん」


 背後から、声がした。


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