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第71話 砕かれた静寂、そして灯火の揺らぎ


 錆び付いた鉄のタラップは、足を乗せるたびに不吉な軋みを上げた。

 底冷えする夜の海風が、細い鉄の橋そのものを揺らしている。


 俺は絶望の重さに押し潰されそうになりながら、その奈落へ続く坂を一歩ずつ登っていった。

 背後では、まるで遠足にでも向かうみたいな軽薄な鼻歌が聞こえる。無骨な手が、容赦なく俺の肩を小突いた。


 登り切った甲板は、巨大なコンテナの影と、潮風に侵された赤錆に埋め尽くされていた。

 そこはもう、日本のどこかの港というより、文明の終わりに取り残された鉄の墓場みたいだった。


 甲板に足を下ろした瞬間、ひどい目眩がした。

 船が揺れているのか、俺の意識が揺れているのかも分からない。泣き腫らして熱を持った視界の端で、自分の足元だけを必死に見つめる。


「おーい、いつものだ。カンボジアまで頼むよ」

「……OK。積メ」


 背後の男が、荷物を渡すみたいな軽さで俺を差し出す。

 応じたのは、作業服姿の外国人船員だった。バインダーに何かを書き込み、こっちを一瞥もしない。


 人間じゃない。

 ただの貨物だ。


 吐き気が込み上げた。


 その時、最後の命の灯を吹き消そうとするみたいな突風が埠頭を駆け抜けた。

 船腹にぶつかった風が、獣の咆哮みたいな低い音を立てる。肩を掴んでいた手が一瞬離れた。その隙に、俺の身体は糸の切れた人形みたいに崩れ、冷たい鉄板の上へ座り込んだ。


 次の瞬間だった。


 バッバッバッバッバッ――!


 頭上から、重低音が叩きつけてくる。

 空気そのものが暴力に変わったみたいだった。


 顔を上げようとしても、吹き下ろされる圧に押し返される。両腕で顔を庇い、指の隙間から無理やり見た。


 巨大な黒い影が、夜空を削り取るように迫っていた。


 ヘリだ。


 その直後、サーチライトが甲板を焼いた。

 闇に沈んでいた貨物船が、一瞬で真昼みたいな白さに変わる。太いロープが何本も降り、漆黒の装備を纏った影が、重力を無視した速度で次々と降下してきた。


 SAT――。


 警視庁特殊部隊。


 銃口が一斉に向く。

 さっきまで笑っていた男たちは、一瞬で色を失った。


「動くな!」

「伏せろ!」

「手を見せろ!」


 怒号が鉄板を打つ。

 ひとりが逃げようとしてコンテナの陰へ走りかけたが、すぐに押さえ込まれた。別の男は尻もちをつき、その場で手を上げることしかできない。誰かの足音が鉄板を激しく叩き、手錠の金属音が短く響いた。


 ヘリは上昇しながらも、サーチライトだけを甲板へ固定したままホバリングを続けている。風圧で服も髪も煽られ、海の匂いと燃料の匂いが入り混じった。


「確保! ターゲット制圧!」

「周辺クリア!」

「逃走経路なし!」


 短い声が飛び交う。

 無駄がない。怒鳴っているのに、妙に静かだ。現場を支配するための声だった。


 ひとりの隊員が俺の前へ来る。銃を背に回し、俺の高さに合わせて膝をつく。バイザー越しの視線は鋭いのに、不思議とその奥だけは揺らいでいなかった。


「田中朱音さんですね。警視庁です。もう大丈夫です」


 その一言で、何かが切れた。

 枯れたと思っていた涙が、一気に溢れる。嗚咽が喉を塞ぐ。声にならない。


 助かった。


 あの車の闇も、冷たい潮風の中での孤独も、全部まとめて、今ここで叩き壊されたんだ。


 ふと岸壁へ視線をやる。

 赤色灯が帯みたいに並び、無数の捜査車両が港を完全に囲っていた。海面には警察艇のサーチライトが走っている。逃げ道はどこにもない。


 隊員が手を差し出す。


「立てますか?」

「はい……ありがとう、ございま……っ」


 その手を借りて立ち上がろうとした瞬間、左胸の奥に白熱した針を直接突き立てられたみたいな激痛が走った。


「あ、……っ」


 反射で胸を押さえる。

 視界が一気に白く濁る。音が遠のく。


「ハッ、ハッ……!」


 息を吸おうとしても、肺が膨らまない。

 心臓の痛みが波みたいに押し寄せる。一拍ごとに意識を削られ、足元が消えていく。


 耐えきれず、俺は再び甲板へ崩れ落ちた。


「被害者急変!」

「胸部を押さえてる!」

「顔色不良、呼吸不安定! 心疾患の可能性!」

「救急急げ!」


 無線が飛ぶ。

 隊員がすぐに俺を抱き上げた。重い装備の硬さが、今は妙に頼もしかった。


「朱音!! 朱音、しっかりして!!」


 その声だけは、絶対に聞き間違えない。


「み、お……」


 唇を動かしたはずなのに、泡みたいな吐息しか出ない。


「救急車待ちじゃ遅い! 車両直送!」

「搬送路確保しろ!」

「被害者を落とすな!」


 怒号とサイレンが渦を巻く中、俺は捜査車両の後部座席へ運び込まれた。

 ドアが閉まる。次の瞬間、世界はけたたましいサイレンに満たされ、一気に加速した。


 視界が暗く沈んでいく。


 その中で、俺の右手だけが、誰かの小さくて温かい手に強く握られていた。

 壊れそうなものを、必死に繋ぎ止めるみたいな力だった。


 そのぬくもりだけを道標に、俺は深い意識の闇へ沈んでいった。

今回の修正で、SAT突入時の混乱と現場感が増


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