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第68話 亡霊の航跡


 どれくらいの時間が経ったのか、もう分からない。

 10分か、20分か。それすら曖昧だった。


 美桜との繋がりは、もう切れた。


 今、俺をこの現実に繋ぎ止めているのは、胸の奥を刺し続ける鋭い痛みだけだ。


 まずい。

 本当に、まずい。


 息がうまく入ってこない。浅い。短い。吸っているのに足りない。

 胸の真ん中が重く締まり、そこへ拍動のたびに細い杭を打ち込まれるみたいな痛みが走る。左脚と左腕も、蹴られた場所と殴られた場所が熱を持ち、脈に合わせてずきずき疼いていた。指先も冷たい。痺れている。


 この身体は、もう限界に近い。


 元警察官だった頃の感覚が、それを嫌になるほど冷静に告げていた。


「おい。こんな真似、誰に教わった? 陽太の知恵じゃねえよな。……答えろよ」


 俺は何も言わなかった。

 言いたくないのもある。けれどそれ以上に、もう声を出すだけの力が残っていなかった。


「おい! 痛い目遭いたくなかったら吐けっつってんだよ!」

「あ……あ……」


 声にならない。

 視界のない闇が、さらに深くなっていく。


 意識が落ちた。


 次に浮かび上がった時、最初に感じたのは、鼻につく鉄の匂いと、どこかから流れ込んでくる刺すような冷気だった。


「おい、行くぞ。……起きろッ!」


 乱暴に腕を引かれる。

 手首に食い込んだ結束バンドが皮膚を裂くように擦れ、鋭い痛みが意識を無理やり引き戻した。


 潮の匂いがする。

 それも、生ぬるくて重い、吐き気がするほど濃いやつだ。


 その直後、目隠しが剥ぎ取られた。


「――っ」


 強烈な光が目を焼いた。

 埠頭の水銀灯だ。闇を切り裂くみたいに白い。俺は反射的に目を閉じ、しばらくかけて少しずつ瞼を開いた。


 見えたのは、真っ黒な海だった。

 そして、その上に浮かぶ巨大な貨物船。

 無機質に積み上げられたコンテナの壁。

 錆と油と潮の匂い。風に鳴る金属音。


 ここがどこなのか、脳が瞬時に理解する。


 港だ。


「くく……どうだい、嬢ちゃん。これからどこ行くと思う?」


 男の声に、脳裏へひとつの地名が浮かんだ。


 カンボジア。


 喉から漏れたのは、声ではなく湿った息だけだった。

 膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。


「今さら怖がってんじゃねえよ。散々舐めた真似しやがって」


 冗談じゃない。

 こんな鉄の塊に押し込まれたら、二週間どころか数日だって持つか分からない。薬もない。この心臓で、生きて戻れるはずがない。


「行く場所はカンボジアだ。本当はあの陽太を連れて行く予定だったんだがなあ……。まあ、代わりとしちゃ上等だ。俺らも鬼じゃねえ。二週間向こうでしっかり働けば、おうちに帰してやるよ」


 嘘だ。

 そんな約束が守られる世界じゃない。

 人身売買も、闇バイトも、そういう話の先に待っているものを、俺は仕事で何度も見てきた。


「や、やだ……っ」


 恐怖と、壊れかけた自律神経が一気に悲鳴を上げた。

 暖かいものが太ももを伝う。


「うわっ……こいつ、漏らしやがった」

「マジかよ」


 男たちが軽蔑混じりに笑いながら、一歩引くのが見えた。


 無様だ。


 元警察官としての矜持も、田中朱音としての尊厳も、今はただ壊れかけた人間のものにすぎなかった。


 ああ。

 ここで死ぬのか。


 脳裏にいろんな顔が浮かぶ。

 学校のみんな。施設のみんな。ゆかり姉さん。

 前の家族。


 けれど、一番強く浮かんだのは、美桜だった。


 児童相談所で出会ってから、何度あいつに支えられただろう。

 壊れそうな身体を支えてくれた。心が潰れそうな時は、何も言わず隣にいてくれた。


 俺という亡霊を、最後まで人間として見てくれたのは、たぶんあいつだけだった。


 美桜。

 ごめん。

 泣かないでくれよ。


 そう願った瞬間、胸の奥がまた鋭く痛んだ。


「ほら、さっさと立て! 行くぞ!」


 結束バンドを乱暴に引っ張り上げられ、無理やり立たされる。

 手首の痛みで、足が勝手に前へ出た。


「ほいっ、ちゃっちゃと歩こう! 楽しい楽しい海外旅行だぞ!」


 後ろから肩を押してきたのは、さっきまで中央列にいた男だ。

 隣の男も下卑た笑いを浮かべている。


「田中朱音ちゃん、地獄行き。まいりまーす!」


 男の声が、港の轟音の中へ散った。


 俺は、最後の残り火みたいな力を振り絞って、そいつを睨み返した。


「……いつまでも、そんな汚い金で……美味しいご飯を食べられると思うなよ。……地獄に落ちるのは、あんたたちの方よ」

「はいはーい、威勢がいいねえ。今日は朱音ちゃんが運んでくれたお金で、お寿司食べまーす。ごちそうさま!」


 笑い声。

 押される肩。

 鉄のタラップ。


 一歩。

 また一歩。


 俺は、異国の奈落へ続く階段を上がらされている。


 それでも、何も残せなかったわけじゃない。


 分析した情報。

 捨てられたスマホ。

 美桜が掴んだはずの異変。

 あいつなら、きっと警察に繋ぐ。


 頼む。

 全部じゃなくていい。

 この一部でもいい。

 こいつらを、引きずり下ろしてくれ。


 夜風が、命の灯を吹き消そうとするみたいに荒れ狂っていた。


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