第67話 檻の中の鼓動
読み違えた。
甘かった。
目隠しをされ、両手首を細い結束バンドみたいなもので強く締め上げられながら、その事実だけが何度も頭の中で反響していた。
誘拐された。
闇バイトの背後にある暴力を、俺は読み切れていなかった。
そのツケを、今、この十二歳の身体で払わされている。
「やめて、離して……っ!」
無駄だと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。腹の底から湧き上がる不安を、声にして吐き出さないと潰れそうだった。
次の瞬間、荒っぽく髪を掴まれる。
「騒ぐんじゃねえよ。黙らねえと、その可愛い面がどうなっても知らねえぞ」
耳元で濁った声がした。
左側にいる男だ。すぐ横に体温がある。布ごと髪を上へ引っ張られ、頭皮が剥がれそうな痛みが走る。顎先が自然と上がる。
「っ……あ……」
目隠しの裏で、勝手に涙が溢れた。
止めようとしても止まらない。頬を伝って、顎まで流れる。
悔しい。
41年生きてきて、ここまで無力を噛みしめたことはなかった。
見えない。両手も使えない。動けば心臓が危ない。
何もかもが最悪だった。
「おいおい。こいつ、スマホ持ってんじゃねえか」
少し離れた位置から、ふざけた調子の声が飛ぶ。
中央列にいる一人だ。こっちは、さっきの男より軽薄で、楽しんでいる感じがある。
「おい、嬢ちゃん。暗証番号言えよ。さっさと吐けって」
陽太さんのスマホだ。
ここで番号を教えたら終わる。
美桜とのやり取りも、位置共有も、全部見られる。美桜まで危険に晒される。
「それは……彼のスマホで、私には番号なんて分からない……」
喉が震えた。
掠れた声で、必死に嘘を繋ぐ。
実際には、さっき俺が変えた。すぐには開かないはずだ。
「チッ、使えねえガキ」
左の男が舌打ちする。
その直後、窓の開く音がした。
風が一瞬だけ車内を抜ける。
「こんなもん、こうだろ」
中央列の男が笑う。
しばらくして窓は閉まった。
陽太さんのスマホを捨てたな。
美桜が追っていた線が、一つ切られた。
「おい。他にも何か持ってるかもしれねえ。徹底的に調べろ」
中央列の男が、少し面白がるみたいに命じる。
「了解」
左の男の手が、今度は身体の方へ伸びてきた。
肩。脇。腰。脚。
子どもの身体を遠慮なくまさぐる指先の感触に、全身が粟立った。
寒い。気持ち悪い。吐きそうだ。
身体を離したいのに、縛られた手首が背中側で擦れて痛むだけだった。
見えないぶん、余計に気配が近い。
左の男の荒い息。中央列の男のくぐもった笑い。前方からときどき飛んでくる運転手らしき短い声。
三人いる。
運転手。
左。
中央列。
頭の中で、断片だけを並べる。
三列シート。
左の男は手が早い。
中央列の男はふざけている。
運転手はまだ無駄口が少ない。
車は一般道を走っている。
停止、発進、停止。信号待ちが多い。高速にはまだ乗っていない。右折は……少ない。いや、今ので二回目か。
記録しろ。
残せ。
生きていれば使える。
元警官だった頃の頭が、そう命じてくる。
でも、身体が邪魔をする。
屈辱と恐怖で、思考が削られていく。
「おい、靴の中まで見ろって」
「はいはい、分かってるよ」
中央列の男が茶化すように言い、左の男が苛立った声で返す。
「可哀想になあ、嬢ちゃん。彼氏のためにこんな目に遭ってさ。これからどうなるか、想像もつかねえだろ?」
中央列の男は笑っていた。
本気で脅しているというより、面白がっている。そういう声だった。
最低だ。
車がまた止まる。
発進する。
胸の奥で、心臓が不吉な打ち方をしている。
どくん。どく、どくん。
速い。しかも変だ。
息がうまく吸えない。肺の上に重い板を乗せられたみたいだ。指先が冷えていく。少し動いただけで、胸の真ん中に鈍い痛みが走る。
まずい。
これ以上乱れたら、本当に危ない。
美桜。
通報してくれたか。今は、それだけが頼りだった。
「……ん?」
ふいに、中央列の男の声色が変わった。
「どうしたんすか」
「俺のスマホに通知が来てる。『GPSトラッカーが近くにあります』って……なんだこれ。AirTagか?」
しまった。
駅で落とした私のスマホが近くにあった間は抑えられていた。
でも、本体が捨てられたせいで、犯人のiPhoneが近くにある未知のトラッカーを拾ったんだ。ストーカー防止のセーフティ通知。こっちの追跡を、よりによって今知らせやがった。
「おい、まさかオメェ……!」
バッグを乱暴に漁る音がする。
「ねえな。おい、どこに仕込んだ。吐けッ!」
「……紙袋。お金の、紙袋の中……」
観念して言うしかなかった。
「はぁ?」
「受け取って、バッグに入れる時に、一緒に……」
紙の擦れる音。札束を乱す音。
それから、硬い薄いものが引き抜かれる気配。
「――テメェッ!」
次の瞬間、左脚に焼けるような痛みが走った。
「っ、あ……!」
思い切り蹴られた。
細い脚に衝撃がまともに入る。骨の芯が軋むような痛み。その振動がそのまま胸まで突き抜け、心臓がぐしゃりと潰れるみたいに脈を乱した。
息が吸えない。
「おい、いつ仕込んだ!? 舐めてんのかオラ!」
「……受け取って、すぐ……」
答えた瞬間、今度は左腕に鈍い衝撃が来た。
殴られた。
視界は真っ暗なままなのに、頭の中だけ白く飛ぶ。
だめだ。
この拍動は、本当に危ない。
どくん。どく、どく、どくん。
速い。乱れてる。胸が痛い。喉が狭い。
このまま抗えば、心臓が先に壊れる。
「チッ、あのジジイ、どこ見てやがった」
中央列の男が吐き捨てる。監視役について毒づいているのか。
そっちも焦っているのが分かる。
その直後、また窓が開いた。
強い風が吹き込んでくる。
カード型GPSを捨てた。
これで、美桜が追える最後の点も切られる。
風が止み、窓が閉まる。
俺は浅い呼吸のまま、縛られた手をわずかに握りしめた。
美桜が追っていた最後の位置情報が、今、どこかのアスファルトの上に捨てられた。




