第66話 デジタル・テザー(美桜視点)
朱音に託された役目は、単純で、だからこそ重かった。
舞香先輩のスマホでは『whoo』を開いて、陽太さんのスマホの位置を見る。
私のスマホでは、カード型GPSを『探す』で追う。
連絡は、私のスマホのLINE。
つまり私は、両手に一台ずつスマホを持って、朱音の位置を追い続ける。
「もし二つの位置が離れたら、警察に通報して。何かが起きたってことだから」
そう言った朱音の声が、まだ耳の奥に残っていた。
どうして、そんなことまで分かるの。
何が起きるつもりなの。
運び屋って何。カンボジアって何。何を、どこまで知ってるの。
私には分からない。
分からないけど、朱音がどんどん私の知らない、暗くて冷たい場所へ行こうとしていることだけは分かった。
それが、怖くてたまらなかった。
でも、怖いなんて言っていられない。
朱音は、私に役目をくれた。
だったら、絶対に離さない。
舞香先輩のスマホに浮かぶ『youta』のアイコン。
私のスマホに映るGPSの点。
小さな光が二つ。
それが今、朱音をこの世界に繋ぎ止めている、たった一本の細い糸だった。
朱音が先に行ったあと、私は必死に距離を保って追いかけた。
無理やり借りさせられた陽太さんのパーカーは、男子高校生らしい汗の匂いが染みついていて、気持ち悪くて仕方がない。大きすぎて袖も身頃も余るし、歩くだけで自分が変な格好をしているのが分かる。
脱ぎたい。
今すぐ脱いで捨てたい。
でも、脱いだら駄目だ。
それは、朱音が私に託した役目を投げるのと同じだ。
だから、我慢する。
電車に乗った。朱音の一両後ろ。
連結部の窓越しに、細い後ろ姿を見守る。乗客の誰もかもが敵に見えて、胸の奥がむかむかした。
私のスマホでLINEを開く。
『乗れた』
『一両後ろ。近づきすぎないように見る』
短く送る。
既読はついた。でも返信はない。
当たり前だ。朱音は今、陽太さんのスマホを使っている。余計なやり取りなんてできるはずがない。
それでも、既読だけじゃ足りなかった。無事だって、ちゃんと返してほしかった。
大宮駅で朱音が降りる。
私も人の流れに紛れてホームに降りた。
舞香先輩のスマホで『whoo』を見る。
私のスマホは手の中で握ったまま。こっちはGPSとメッセージ用。
構内は人であふれていて、誰が見張り役なのかなんて全然分からない。
今はとにかく、朱音を目で見失わないこと。それだけだった。
……朱音、歩くの早すぎるよ。
心臓、大丈夫なの。
無理してないの。
私はたまらず、私のスマホでLINEを打った。
『歩くの早い』
『もう少しゆっくりして』
既読はつかない。
お願い、気づいて。
朱音が立ち止まった。
私は柱の陰に身を押し込み、呼吸を殺す。
一人の男が朱音に近づき、何かを渡した。
紙袋。たぶん、あれが荷物。
男はそれだけ渡すと、さっさと人混みに紛れて消えた。
朱音がこちらに向かってくる。
私は慌ててスマホに視線を落とし、知らない人のふりをした。でも視界の端ではずっと追っている。
朱音は、何もなかったみたいな顔で私の前を通り過ぎていった。
あの、凛として少し冷たい顔。
大丈夫。大丈夫だって自分に言い聞かせる。
でも、本当は全然大丈夫じゃない。
一人で全部背負わないでよ。そう叫びたかった。
改札へ向かう朱音を、私は少し遅れて追う。
人波が邪魔で、足が止まる。なのに朱音は、人の隙間を縫うように前へ進んでいく。
なんであんなに速いの。
私より歩くの遅いはずなのに。
無茶しないでよ。
階段を下りていく背中が見えた。私はぶつかってきた人に心の中で悪態をつきながら、必死にそのあとを追う。
でも、階段に着いた瞬間、エスカレーターで上がってくる朱音が見えた。
え?
一瞬、頭の中が真っ白になった。
何が起きたのか分からない。
目が合う。すぐ逸らされる。
あ、追ってるって悟られちゃいけない。
私は咄嗟に後ろを向き、階段脇へ身を滑り込ませた。
心臓が痛いくらい暴れている。数秒だけ、本当に何も考えられなかった。
でも、立ち止まっていられない。
朱音はそのまま隣のホーム側へ向かった。
私は壁際を歩きながら距離を取る。
階段を下りる。
4番線と5番線ホーム。
5番線側の自販機の陰に、朱音が身を潜めた。
あそこだ。
あそこから5番線の電車に乗るんだ。
そう思った。
私は少し離れた場所で、自販機の陰だけを見つめていた。5番線の電車が来たら、一緒に乗り込む。ただそれだけを考えていた。
なのに――
朱音はいきなり自販機の陰から飛び出して、反対側の4番線の電車へ滑り込んだ。
「えっ……!?」
身体が勝手に前へ出る。
慌てて駆け出した瞬間、肩が人にぶつかった。謝る暇もなく走り出す。
閉まりかけたドアの向こうに、一瞬だけ朱音の横顔が見えた気がした。
そのまま、ドアが閉まる。
ゆっくりと、残酷な音を立てて、電車が動き出す。
「うそ……でしょ……」
足元から冷たいものが這い上がってきた。
今すぐ非常ボタンを押したかった。電車を止めたかった。連れ戻したかった。
でも、そんなことをしたら朱音の考えを全部壊してしまう。
『冷静に』
朱音の声が、耳の奥で鳴った。
私は震える手で、舞香先輩のスマホの『whoo』を確認する。
小さなアイコンが線路の上を動いていた。
次に、自分のスマホで『探す』を見る。GPSも同じように動いている。
まだ、繋がってる。
まだ大丈夫。
そう思い込むしかなかった。
十数分後に来た次の電車に、私は祈る気持ちで飛び乗った。
車内は最悪の満員電車だった。
知らない人の体温。服の擦れる音。変な匂い。息苦しさ。
虫唾が走る。叫びたくなる。でも、今は朱音のために耐えるしかない。
舞香先輩のスマホで『whoo』を見る。
私のスマホでGPSを見る。
位置を、何度も、何度も見比べる。
やがて二つの位置が止まった。
二分、動かない。
……ここだ。
ここで降りたんだ。
表示された駅名は、武蔵小杉。
私の電車が着くまで、あと八分。
長すぎる。叫びそうになる。着いたら走る。絶対に見つける。そう決めて、歯を食いしばる。
そのとき、私のスマホのメッセージが震えた。
朱音からだ。
『今から110番通報する。美桜も110番して』
息が止まる。
そんな指示、聞いてない。
でもこれは、朱音からのSOSだ。何かが決定的に動いたんだ。
私はすぐに舞香先輩のスマホへ目を落とした。
ずっと見ていた『whoo』のアイコンが、駅の近くで静止している。
次の瞬間、それがふっと消えた。
「あれ……?」
電波?
そう思って地図を広げる。
あった……速い。
線路じゃない。
道路の上を、とんでもない速さで動いている。
「なにこれ……」
もう一度、二つを見比べる。
そしたら『whoo』のアイコンが消えた。
今度は私は震える手で私のスマホを取り出してGPSを見る。
GPSは生きている。
こっちも徒歩じゃない。車の速度だ。
その瞬間、頭の中で何かが音を立てて繋がった。
連れていかれた。
考えたくなかった言葉が、勝手に形になる。
朱音に、何かあった。
私は震える指で、自分のスマホのキーパッドを開いた。
1。1。0。
呼吸が浅い。喉が固い。
それでも発信する。
『はい、警察です。事件ですか、事故ですか?』
「……友達が、悪い人たちに荷物を運ばされていて、今、無理やり連れていかれたかもしれません」
声が震えそうになる。
でも止めない。
「位置は追えます。今も動いています。だから、お願いです、助けてください」
自分の口から出た言葉で、現実が決定的な形を持った。
無理やり車に乗せられ連れていかれた。
拉致だ。
冬の空気が肺を切り裂くみたいに冷たい。
私は奥歯を噛みしめて、地図の上を走る小さな点を睨みつけた。
朱音。
待ってて。
今度は、絶対に離さない。




