第65話 奈落への加速
『……なんで俺が宮城県にいるなんて思うんだ? あぁ?』
通話の向こうで、男の喉がわずかに震えるのが分かった。
「そんなに凄まないでください。ちゃんと理由をお話ししますから」
俺は、あえて少しだけ挑発的に、それでいて年相応に聞こえる幼い声を作った。
正直、怒りはもう限界だった。
陽太さんや舞香先輩にこれだけの苦痛を与え、何も知らない人たちから血の滲むような金を巻き上げている連中。その一端を、今ここで少しでも引きずり出したかった。
「聞きたいですか?」
『早く言えって言ってんだろ!』
面白いほど、こっちのペースに乗ってくる。
指示役という立場の人間は、ただ短気なだけでは務まらない。威圧を武器にしながらも、離れた場所から受け子や運び屋を動かす冷静さが必要だ。金に困っただけの連中や、想像力の足りない人間を、遠隔で自在に動かすにはそれなりの頭が要る。
けれど、こいつはそこまで強くない。
自分は頭がいい側だと思っているくせに、足元の設定が甘い。そこへ気づいていない時点で、サイバーのリテラシーは高くない。
「指示役さん。Telegramの設定、間違っていますよ」
『……は?』
「インターネット上の住所みたいなもの、IPアドレスが丸見えなんです。どこから接続してるか、バッチリわかっちゃいますよ」
Telegramの通話機能には、P2P、つまり一対一で直接通信するモードがある。
秘匿性は高いが、そのぶん接続元のIPアドレスが相手側に見える設定が残ることがある。知識があれば、そこから回線の情報を辿るのは容易い。
そして俺が拾ったIPの先には、『宮城県ケーブルテレビ』の名称が出ていた。
もちろん、これだけで住所や建物まで断定できるわけじゃない。
県名をぶつけるのは、あくまでカマ掛けだ。
だが、相手がこの手の設定に疎い人間なら、それで十分揺れる。今必要なのは完全特定じゃない。匿名のつもりで高みから指示している男に、「足元が見えているかもしれない」と思わせることだ。
「後で調べてみてください。でも、宮城県にいるのは合っていますよね。住所、出てますもの。これじゃあもう、逃げられないですよ」
『は? 何言ってるか分からないな。全然違えよ』
「その場所の出入口とか、周辺の防犯カメラはもう警察が押さえますから、顔も特定されますよ。逃げたって無駄です。犯罪をする人が、匿名で見つからないなんて思うのは、もう古いですよ」
――ガシャーン!
通話越しに、激しく何かを叩きつける音が響いた。
机か、灰皿か、ペットボトルか。分からない。だが少なくとも、向こうが一瞬冷静さを欠いたのは間違いなかった。怒鳴り散らす声が漏れ、耳障りな雑音が続く。
いい気味だ。
そんな感情が一瞬だけ胸をよぎる。
だが、すぐに自分を押さえ込む。
ここで気持ちよくなったら終わりだ。
しばらくして、騒音が止んだ。
『てめぇ、何がしたい』
戻ってきたのは、地を這うような低い声だった。
完全には崩れない。やはり、一筋縄ではいかない。
「よくも陽太さんや、他の人たちを脅してくれましたね。ちゃんと償ってください。……あ、ちなみに陽太さんは私の彼氏じゃありませんから」
『ただの中学生じゃねえな。何者だ、お前は』
「いいえ。監視役の人に聞いてみてください。どこからどう見ても、か弱い女の子ですよ」
『組織を舐めてっと、痛い目見るぞ……』
男の声から余裕が消えた。
剥き出しの殺意が、通話越しでも伝わってくる。
確かに、その通りだ。
これ以上煽れば、事態はもっと悪くなる。
俺は元警察官としての矜持に突き動かされていたが、同時に「田中朱音」としての危うさも忘れてはいけなかった。もし俺がヘマをすれば、施設のみんなにも危険が及ぶ。学生証の情報も、もう奴らの手にある。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
次の運び屋が来れば、また別の歯車が動く。別の誰かがこの金に触れ、別の線が伸びる。そうなった時点で、止めるべき場所がさらに遠くなる。
ここが切りどころだ。
今、俺の手元には三つの端末がある。
組織との連絡用。
陽太さんの普段使い。
そして、俺自身の私物。
俺はバッグの陰で、自分のスマホを片手だけで操作した。
まず、美桜に短いメッセージを送る。
『今から110番通報する。美桜も110番して』
送信。
それから、そのまま自分のスマホで番号を押す。
1。
1。
0。
発信ボタンに指をかけた、その瞬間だった。
背中に石塊で殴られたような鈍い衝撃が走った。
「っ……!」
肺から空気が一気に押し出される。
視界が跳ね、手の中の俺のスマホがアスファルトへ滑り落ちた。画面が光ったまま、地面の上を短く転がって止まる。
何が起きたのか脳が整理する前に、複数の腕が俺の身体へ絡みついていた。
「な……っ!」
悲鳴を上げる暇もない。
心臓が嫌な拍動を刻み始める。どくん、どくんと、奥から叩きつけるような脈が連続する。この身体では、この負荷は洒落にならない。抗えば、そのまま発作のように落ちかねない。
命懸けの理性で、暴れる衝動を押さえ込む。
抵抗したい。
でも、ここで心臓を壊したら本当に終わる。
「動くな。大人しくしてろ」
低く、濁った声。
口を塞がれ、身体が荷物みたいに持ち上がる。
視界の端で、自分のスマホが地面に転がったままなのが見えた。
拾えない。
けれど、落ちた。
俺の身体はそのまま路肩に停まっていた黒塗りのミニバンへ放り込まれる。
シートの硬さに背中を打ちつけた瞬間、胸の奥でまた嫌な拍動が跳ねた。息が浅い。喉が狭い。呼吸一つするだけで、心筋そのものを削っているような感覚がした。
次の瞬間、厚手の布が顔に被せられる。
視界が暗転する。
目隠しだ。
状況を整理する前に、車はタイヤを軋ませて発進した。
重力が身体を後ろへ押しつける。加速だけで胸が痛む。このまま心臓がもつのか、一瞬、本気で分からなくなった。




