第64話 改札の逆鱗
やられた。
あの急な乗り換え。
美桜の存在を拾われたのか。あるいは、警察の秘匿追尾を警戒して、途中で尾を振り切るための揺さぶりだったのか。
あのダウンコートの男。
一瞬だけ私服警官の可能性も頭をよぎったが、あの身のこなしと纏う空気は、少なくとも普通の警察官のそれではなかった。組織犯罪対策や麻取みたいな特殊な現場は別として、追う側の人間の癖は、元警察官だった頃の感覚がまだ俺の中に残している。
断定まではできない。
だが、組織の側にいると考えるのが自然だった。
俺は、あえて泳がせてくる指示役に探りを入れるため、Telegramへ短く打ち込んだ。
「あの、さっきからコートを着た男の人に追いかけられている気がするんですけど……」
数分の沈黙。
既読はつく。だが、返信はない。
やがて、短く返ってきた。
『そいつは気にするな。次の指示があるまで待機しろ』
それだけだった。
やはり、あの男は監視役の可能性が高い。
奴はスマホに視線を落としているふりをしていたが、俺が妙な動きを見せれば、すぐに反応する類の目だった。
乗った電車は湘南新宿ライン。
都心を抜け、列車は神奈川県へ入っていく。
一体、どこまで引っ張るつもりだ。
西大井を通過した直後、両手で握っていたスマホが震えた。
Telegramでの着信だった。
『次の武蔵小杉で降りろ』
「分かりました」
指示通り、武蔵小杉でホームに降り立つ。
夕方のラッシュが始まりかけていて、構内には家路を急ぐ人が溢れていた。
『改札を出て、ロータリーへ向かえ』
「はい」
言われるまま改札へ向かった。
だが、ICカードをかざす寸前で、俺は足を止めた。
困り果てた女子中学生の顔を作る。
恥ずかしそうに一歩下がる。
『おい、何をもたついてる』
「すみません、Suicaの残高が足りなくて……」
『ふざけるな、さっさとチャージしろ』
「でも……現金、持ってないんです。あっ」
スマホ越しに罵声が飛ぶ。
俺はそれをわざと無視して、背後に迫っていたあのダウンコートの男へ振り向いた。
「すみません……お金がなくて、改札を出られないんです。貸してください」
「……チッ、知るかよ」
「あの……じゃあ、この紙袋の中のお金、使ってもいいですか?」
男の目が、かっと見開かれた。
次の瞬間、無骨な手が俺の胸元へ伸びる。
制服の襟首を掴まれ、身体が浮いた。
「っ……!」
喉が締まる。
呼吸が止まる。
胸の奥で心臓が嫌な音を立てた。どくん、と不吉な拍動が突き上げてくる。
「……あんまふざけたこと抜かしてると、イテこますぞガキが!」
男の顔が、目の前まで迫る。
至近距離で浴びせられる殺気。
頭では分かる。これは威嚇だ。
でも、十二歳の身体は正直だった。指先が細かく震え、喉が固まり、声が出ない。本能の恐怖が、元警察官として積み上げてきた理屈を塗りつぶそうとしていた。
しかもこいつは、監視役のくせに沸点が低い。
自分は見張るだけで、袋を持たされもせず、尻拭いまで押しつけられている。そんな苛立ちを普段から溜め込んでいる末端の匂いがした。
こういう手合いは、指示役より怖い。
命令より先に、感情で手が出る。
「……これで出ろッ!」
叩きつけるように押しつけられたのは、千円札だった。
俺は震える手でそれを受け取り、掠れた声を絞る。
「あ……ありがとうございます……」
周囲の通勤客たちが、怪訝そうな目を向けてくる。
だが、足を止める者はいない。助けるでもなく、深入りするでもなく、ただ面倒事の匂いから少しだけ距離を取って通り過ぎていく。
男は舌打ちすると、そのまま足早に改札を抜けていった。
俺も呼吸を立て直しながらタッチし、外へ出る。
ロータリーへ向かいながら、再びスマホを耳に当てた。
「すみません……お金が足りなくて……あの方にお借りしました……」
『……余計なことをするなと言ったはずだ!』
鼓膜が痺れるほどの怒鳴り声。
俺はスマホを少しだけ耳から離し、その反応の強さを逆に測る。
『勝手な真似をするな! 次に同じことをしたら、彼氏がどうなるか分かってるんだろうな!』
「はい……本当にごめんなさい……」
『……そこで待て』
短くそれだけ言って、通話は繋がったままになった。
ロータリー脇で立ち止まる。
美桜は無事だろうか。
今の俺にできるのは、相棒の追跡を信じることだけだった。
だが、頭の中では別の計算が進んでいた。
ここで待っていれば、次の運び屋が来るか、あるいはロッカーへの投棄を指示される可能性が高い。
けれど、そこまで付き合えば、また別の歯車が動く。別の誰かがこの金に手を触れ、別の線が伸びる。そうなった時点で、止めるべき場所がさらに遠くなる。
それに、監視役とももう直接接触した。
線は一本、掴んだ。
ここから先は、上を欲張るより切るべき局面だ。
バッグの中に隠したスマホを、周囲に悟られないように操作する。
さっきまであれだけ近くにいたダウンコートの男は、もう視界のどこにもいなかった。
消え方が、気味悪い。
諦めて離れたんじゃない。
見える場所から消えただけだ。
どこかで見ている。そう思った方が自然だった。
行き交う人々は、みなスマホの画面を見ながら、無機質な歩調で流れていく。
都会の無関心さが、今はむしろ盾になる。
「……そろそろ、潮時かな」
『はあ?』
独り言のつもりで落とした声に、繋ぎっぱなしの向こうの男が鋭く反応した。
俺はバッグの取っ手を握りしめ、冷たく言い放つ。
もちろん、声は「田中朱音」のままで。
「今から警察に通報します。このお金を、あなたたちに渡すわけにはいきません」
『……てめえ、何言ってやがる。頭でも沸いたか?』
嘲るような声。
けれど、その奥にわずかな焦りが混じったのを、俺は聞き逃さなかった。
「さっきの見張り役の人、呼び戻しますか? でも、今なら周りにこれだけ人がいます。誰か一人でも近づいてきたら、私は全力で悲鳴を上げますよ」
視界に入る帰宅客たち。
学生、会社員、買い物帰りの人。誰でもいい。ひとたび騒ぎになれば、もう“静かに処理する”ことはできない。
この衆人環境こそが、今の俺にとって最大の防壁だった。
『てめえ……陽太がどうなってもいいんだな。あいつの人生をぶち壊してやるぞ』
「指示役さん。そんな脅しより、ご自分の心配をした方がいいですよ。今すぐ宮城県から逃げた方がいい」
一瞬、完全な無音になった。
空白。
思考が止まった時にしか生まれない、あの種類の沈黙だった。
『……何を言ってやが……』
「誤魔化さなくていいです。あなた、今、宮城県内の建物の中にいますよね?」
俺は被せるように言い切る。
受話器の向こうの沈黙が、重く、粘つく。
奴は今、自分の足元がわずかに崩れた音を聞いているはずだ。
俺はロータリーの喧騒の中で、スマホを握る手にそっと力を込めた。




