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第63話 雑踏の監視者


 滑り込みで電車に飛び込み、閉まるドアに背を預けた。


 喉の奥で、浅くなりかけた呼吸を押し戻す。

 深く、静かに息を吐く。


 まだ大丈夫。

 走ってはいない。けれど、この身体にとっては、駅のホームを急ぐだけでも十分に負荷だった。胸の奥で脈が不規則に跳ねるたび、命を少しずつ削っているような感覚になる。


 車内は、席がまばらに埋まっている程度だった。立っている客も数人。

 本当は座って心臓を落ち着かせたかったが、今はそれより優先することがある。


 俺はあえてドア横に立ち、ガラスの反射で車内を探った。

 こちらを見ている視線。逆に、不自然に見ないようにしている視線。そういうものがないかを、さりげなく拾っていく。


 ……ただの過敏さかもしれない。

 乗る車両まで指定されていなかった以上、この車内に見張りがいる可能性は高くない。そう考えるのが自然だった。


 やがて電車は、大宮駅へ滑り込んだ。


 ホームへ降り立った瞬間、掌の中にある連絡用のスマホが震えた。


「……はい、田中です」

『着いたな。そのまま一旦改札を出ろ。西口へ向かえ。通話は切るな。繋いだままにしろ』

「分かりました。……西口ですね」


 指示役の声は、やはり三十代前後に聞こえる。

 作業として人を扱っている声だった。


 このスマホで位置を拾われている可能性は高い。

 細かい精度までは分からないが、少なくとも俺が大宮に着き、どのあたりを歩いているかくらいは把握されていると思った方がいい。


 改札へ向かう流れに紛れながら、西口へ歩く。

 通行人から死角になる角度で、バッグの中の陽太さんの普段使いのスマホを一瞬だけ覗いた。


 LINEの通知が二件。送り主は『舞香』。

 中身は美桜だ。


『乗れた』

『一両後ろ。近づきすぎないように見る』


 短い。

 その方がいい。今は的確に教えてくれる方がありがたい。


 心強い。

 でも同時に、近い。近すぎる。

 監視役がまだ気づいていないからいいものの、あの距離は危ない。俺はバッグの口を閉じ、意識を前に戻した。


「……西口に着きました」

『右手にコインロッカーがあるだろ。そこへ行け』

「はい」


 指定された場所まで行ったところで、通話は一方的に切れた。


 スマホを握り直し、歩く速度を緩めないまま周囲を見る。

 元警察官だった頃の癖は、こういう時に勝手に顔を出す。人混みの中で、場に馴染んでいるようで馴染みきっていない存在を探す。



「……おい。あんたが『回し』か?」


 低い声に顔を向ける。


 二十代半ばくらいの男だった。

 清潔感のある服装。髪も整っていて、どこにでもいそうな真面目そうな青年に見える。その右手にだけ、小ぶりな紙袋があった。


「……はい」


 俺が両腕を差し出すと、男は何も言わずに紙袋を押しつけてきた。

 ずっしりと重い。紙の束の密度。中身を見なくても、現金だと分かる類の重さだった。


 男は俺の顔をまともに見ないまま、スマホへ一度だけ視線を落とし、そのまま雑踏に紛れて消えていく。


 今この男を追っても、たぶん線は切れる。

 押さえるべきはここじゃない。今は現場を一段上まで辿る方が重要だ。受け子か回収役のさらに先、その指示の流れまで掴まないと意味が薄い。匿名性の連鎖により、捜査は難しい。点ではなく線にしないと、組織の全容は分からない。


 再びスマホが震えた。


『受け取ったか』

「……はい。今、受け取りました」

『なら電車に戻れ。五番線だ。着いたらまた連絡する』

「分かりました」


 紙袋を折り畳み、自分のバッグの底へ慎重に滑り込ませる。

 男の服装、背格好、歩き方、声。忘れないよう頭の中で並べ直す。


 改札へ向けて踵を返した時、店舗の陰に美桜の姿が見えた。


 陽太さんから借りたパーカーは、彼女の身体には大きすぎた。

 むしろ、その不自然なゆるさが目立つ。近い。しかも目が合いそうな位置だ。


 近い、近すぎる。


 俺は何食わぬ顔のまま視線だけを鋭く送り、ほんのわずかに首を振った。

 美桜ははっとしたように足を止め、少し距離を取る。

 それでいい。今は、見ているだけでいい。


 改札を抜け、五番線へ向かう階段の手前まで行く。

 そこで俺は、わざと隣の六番線の案内表示へ足を向けた。


 階段を降りきってから、看板を見て「間違えた」という顔を作る。

 小さく舌打ちするふりをして踵を返し、そのまま横の昇りエスカレーターへ乗り換えた。


 そこで、見えた。


 六十代前後。

 深く帽子をかぶり、黒のダウンコートを着た男が、俺のいた方の階段を降りてくる。急いでいるふうではない。だが、足を止めない。周囲を見ているようで、目線だけはこちらの動きから外れていなかった。


 あれが見張り役の可能性は高い。


 その目は、追うことに慣れている目だった。

 焦っていない。距離も詰めない。ただ、見失わないことだけに集中している。そういう視線だった。


 エスカレーターを上がり切る直前、反対側の動線に美桜が入りかけているのが見えた。

 また目が合う。俺はもう一度だけ、強く止める目を向けた。美桜は今度こそ完全に引き返した。


 よし。


 俺は上階へ戻り、隣の五番線があるホーム側へ回り込む。そこから階段を降り、自販機の陰に身を寄せた。


 数秒後。

 さっきのダウンコートの男が、自販機の影から現れ目の前を横切った。


 歩幅は変わらない。

 それでも、俺がいるはずの方向へ視線だけを置いている。完全に見失ってはいないが、位置を確定できていない。そんな探り方だった。


 一瞬だけ、視線が交差する。


 俺は即座に表情を切り替えた。

 スマホを両手で持ち、不安げに辺りを見回す。道に迷った女子中学生。そんな風に見えるよう、肩を小さくすぼめる。


 男の目は鋭い。

 威圧感で押してくる類じゃない。むしろ逆だ。何もしていない人間の顔で、必要なものだけを見ている。ああいう相手は厄介だ。下手に構えた瞬間、こちらの違和感だけを拾われる。


 四番線ホームに、電車が滑り込んできた。

 俺が本来向かうはずの五番線の電車までは、まだ六分ある。


 その時、手の中のスマホが震えた。


『今すぐ、後ろの電車に乗れ』

「え……?」

『早くしろ。四番線だ。今すぐ乗れ!』


 試されているのか。

 それとも、見張り役が何かを拾ったのか。


 考えるより先に身体が動いた。

 俺は四番線の車両へ飛び込む。閉まりかけたドアの隙間を滑り抜けた直後、重いエアー音と一緒に扉が閉まった。


 ホームに取り残された美桜が、息を呑んだ顔でこちらを見ていた。


 そして、同じ車両の隣のドア際には、あのダウンコートの男がいた。

 表情は変わらない。けれど、その目だけが、獲物を見失わない猟犬みたいに俺を捉えていた。


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