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第62話 取り返しのつかない領域

「……遊びじゃねえんだぞ、ガキが」

「分かっています。でも、私は今、制服を着ています。街にいても浮かないし、荷物を運ぶ役としては、大人より目立ちにくいです」

「おい。運ぶとか、そういう言い方を軽々しくするんじゃねえ」

「……すみません。気をつけます。流すって言います」


 スマホの向こうで、指示役が黙った。


 値踏みされている。


 喉の奥が、ひりつく。胸の鼓動は嫌な速さで跳ねていた。この身体の心臓は、少し興奮しただけで簡単に悲鳴を上げる。深く息を吸え。落ち着け。いま必要なのは、怯えた中学生じゃない。相手に「使える」と思わせる人間だ。


「……おい。名前は」

「田中朱音です」

「その声と制服……学生だな。学生証を額の横に出して、自撮りしろ。そのスマホのTelegramで『佐藤』に送れ。一分以内だ。遅れたら切る」


 俺はすぐに財布から学生証を引き抜いた。


「朱音、やめて……!」


 美桜が青ざめて詰め寄ってくる。俺は片手でそっと制した。ごめん、美桜。分かってる。こんなの、絶対に安全じゃない。顔も名前も学校も、全部まとめて相手に渡すに等しい。


 それでも、ここで手を離したら陽太さんが持っていかれる。


 内カメラを起動する。画面の中には、強張った顔の「田中朱音」が映っていた。額の横に学生証。逃げ場のない証拠写真。背後で、美桜も舞香先輩も、息を詰めたような顔で俺を見ている。


 通話画面を最小化してTelegramを開く。『佐藤』の宛先に、今撮ったばかりの写真を送信した。


 送った瞬間、胃の底が冷えた。


 もう戻れない。


 この画像は、ただの確認じゃない。俺が自分から踏み込んだ証拠だ。消せない。取り返しもつかない。けれど、その重さを噛み締めている時間すらなかった。


 俺は再びスマホを耳に当てる。


「……送りました」

「おう、確認――……って、おい。中学生かよ」


 吐き捨てるみたいな声が飛ぶ。


「駄目だ駄目だ。話にならねえ。ふざけんな」

「中学生だからできることもあります」

「あるか、そんなもん」


 そこで、向こう側の音が少し遠のいた。スマホの向こうで、指示役が誰かと口を押さえて話しているらしい。声はくぐもって聞き取れない。だが、苛立ちだけははっきり伝わってきた。


「今さら他を回してる暇ねえだろ」

「でもガキだぞ」

「だったらもうそいつでいい。時間がねえんだよ」


 背筋に冷たいものが走る。


 代わりがいないから、通った。


 つまり、向こうも追い詰められている。


 俺の袖を、美桜がぎゅっと掴んだ。離すな、と言っているみたいな力だった。そのぬくもりが、暗い水の底に沈みかけた意識をぎりぎりのところで引き止めてくれる。


 やがて指示役の声が戻った。


「……いいか。裏切るな。ヘマもするな。やらかしたら木村を警察に突き出して終わらせる。それからお前だ。お前には、死んだほうがましだと思うくらいの目に遭わせる。分かったな」

「……もちろんです。陽太のためなら、私、なんでもやります」


 喉の奥が焼ける。演技だ。これは演技だと、自分に言い聞かせる。それでも、言葉にしてしまった以上、現実が一段深くこちらへ食い込んでくる。


「いいか、よく聞け。今から十二分後、一番線の電車に乗れ。大宮で降りたら、またこっちから連絡する」

「はい」

「それと、その連絡用のスマホのロックは木村に聞け。途中で開けなくなって手間取ったら切る」

「分かりました」


 ツ、ツ、と一方的に通話が切れた。


 一番線。十二分後。大宮。


 時間は、ない。


 俺はすぐに陽太さんへ向き直る。


「連絡用のスマホのパスワード、教えて。それから、普段使ってるスマホも貸して。早く」

「おい、お前……何勝手に……」

「早く! 手遅れになってもいいの!?」


 自分でも驚くくらい強い声が出た。


「お兄ちゃん、早くして!」


 舞香先輩まで震えた声で重ねる。


 陽太さんは苦しげに顔を歪めてから、やっと吐き出した。


「……『1111』だ」

「そっちは連絡用の方?」

「あ、ああ……」


 俺は確認するように頷いた。


「普段使いのスマホも」

「なんでそこまで……」

「舞香先輩のwhooで追うため。いま私が持って行くのは、陽太さんの普段使いのスマホ。位置が切れたら終わりだから」


 陽太さんは息を呑んだ。少し迷ったあと、もう片方のスマホまで差し出してくる。俺は二台を受け取った。


 連絡用のスマホ。普段使いのスマホ。どちらも、温度がまだ陽太さんの手のひらのままだった。


「陽太さん」


 俺は息を整えて言う。


「あなたが罪悪感を持ってるなら、まだ手遅れじゃない。警察に行って。犯罪は消えない。でも、これ以上深く沈まないうちに止まれる」

「……っ」

「少なくとも今、この場であなたを一人にしなくて済む。舞香先輩もいる。家族もいる。だから、自首して」


 陽太さんは俯いたまま、拳を握りしめていた。舞香先輩が、震える腕で兄の腕にしがみつくように回り込み、必死に何か囁いている。


 安心なんてできない。


 でも、少なくとも今すぐ陽太さんが一人で消えることだけは防げる。


 俺は美桜を見る。


「美桜、パーカー」

「……え」

「陽太さんのパーカー、借りて。制服を隠して。尾けるときに目立たないようにしたい」

「……やだ」


 美桜は露骨に嫌そうな顔で陽太さんを見た。陽太さんも困ったように目を逸らす。


「時間がないの。お願い」

「……っ」


 舞香先輩が兄を見上げて促す。陽太さんは観念したようにパーカーを脱ぎ、それを美桜に差し出した。美桜はものすごく嫌そうに眉を寄せながらも、制服の上からそれを被る。男子高校生の大きなパーカーは、彼女のシルエットをうまく曖昧にしてくれた。


 俺はエスカレーターへ向かって歩き出した。走りたい。でも走れない。心臓を壊したら、その場で全部終わる。一歩ずつ、速く、でも無理はしない。そのぎりぎりを探る。


 エスカレーターの手すりに指をかける。背後にぴたりとついた美桜へ、俺は声を潜めた。


「……目的は一つ。指示の流れと受け渡し場所を掴んで、警察につなぐこと」

「うん……」

「荷物を受け取る直前か、受け取った瞬間に通報するつもり。だから、舞香先輩のwhooで、いま私が持ってる陽太さんの普段使いのスマホを追って。動きが変だったら、迷わず通報して」

「分かった」

「連絡用のスマホの方は、指示役からの連絡専用。こっちは私が持つ」

「うん」

「それと、まわりに私を見てる人がいたら教えて。舞香先輩のスマホ借りて、LINEで」

「……うん」

「他人のふりをして。私のこと、見すぎないで」

「……分かってる」


 美桜の声は、小さく震えていた。


 エスカレーターが上へ運んでいく。視界が開ける。改札口までの導線は見渡せるのに、どこに監視の目があるのかは分からない。その不気味さが、余計に息苦しい。


 俺は振り返らずに、美桜の手を一瞬だけ強く握った。


 それだけで、十分だった。


「……信じて」

「うん」


 その一言を背中で受けながら、俺は手を離す。


 学生証の画像を送った時点で、もう線は越えた。ここから先は、見物席じゃない。


 俺は振り返ることなく、敵の待つ一番線へと足を踏み出した。


 


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