第61話 断絶のコール
「はぁ? ……なんだお前。ガキは引っ込んでろ」
陽太さんが、威圧するように鋭い視線を投げかけてくる。
隣にいた美桜が、びくりと肩を震わせながらも、俺の腕をぎゅっと掴んだ。怖いはずなのに、それでも俺を一人で前に出させまいとする体温が、掌から伝わってくる。
「その仕事、もう引き受けないで」
俺はまっすぐ陽太さんを見た。
「もう利用されないで」
陽太さんの眉がぴくりと動く。
「お前に何がわかるんだよ」
押し殺した声の底に、剥き出しの苛立ちと、それ以上に深い絶望が混ざっていた。
「まだ手遅れじゃない」
「……何がだよ」
「今ならまだ止まれる。これ以上やったら、本当に抜けられなくなる」
陽太さんの目が、一瞬だけ揺れた。
威圧するように睨み返しているのに、視線だけが落ち着かない。強がっているのに、もうその強さが張りぼてになっている。元警察官だった頃の感覚が、目の前の高校生の限界を告げていた。
「それに、これ以上、被害者を増やすつもり?」
「……っ!」
陽太さんの顔が強張る。
けれど、すぐに唇を引き結び、怒りの仮面を被り直した。
「……わけわかんねえこと言うな。話しかけるな」
「陽太さんがこのまま捕まったら、舞香先輩はどうなると思う?」
「なっ……」
「新しい高校で、お兄ちゃんが詐欺で捕まったって噂されたら、普通に学校へ通えると思う?」
「やめろ……」
「あの家だって、もう今までみたいにはいられないよ。父さんも母さんも、舞香先輩も、みんな巻き込まれる。それでも行くの?」
陽太さんは言い返せず、唇を噛んだ。
睨みつけてくる目の奥で、怒りと屈辱と恐怖がぐちゃぐちゃに絡まり合っているのが見える。
「今ならまだ、警察に話せる側に戻れる」
「……無理だ」
「無理じゃない。怖くても、今止まればまだ違う」
「無理だって言ってんだろ……!」
吐き捨てるように言ったその声は、怒鳴っているはずなのに、ほとんど泣き声みたいだった。
「陽太さん。行っても終わらないよ。もっと縛られるだけだよ。最後ってことは、それだけ危険だよ!」
「うるさい……!」
「お願い、お兄ちゃん! 行かないで!」
舞香先輩の悲鳴みたいな声が、冷えた駅の空気を裂いた。
「お兄ちゃんがいなくなるなんて嫌だよ……! 私、一緒にいたいよ。バイクの音なんて平気だから、学校だってどうなってもいいから、だから……お願い、行かないで……っ」
「……舞香」
陽太さんの足が止まる。
吸い寄せられるみたいに、一歩、二歩と妹の方へ向きかける。
止まる。
止まってくれ。
そう願った、次の瞬間だった。
乾いた着信音が鳴った。
陽太さんの顔が、一瞬で変わる。
さっきまで怒っていた兄の顔じゃない。上から命令されることに慣れきった、怯えた駒の顔だった。
陽太さんは震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てる。
「はい、木村です。……はい、駅に着きました」
低く、小さく、それだけ答える。
一度もこちらを振り返らないまま、陽太さんは階段の方へ向き直った。
「はい、大丈夫です。……やります」
悔しさが喉の奥を焼いた。
あと少しだった。あの揺らぎに、もう半歩踏み込めていたら。
陽太さんは通話中のスマホを耳に当てたまま、もう片方の手で普段使っているらしいスマホを取り出し、時間を確認した。
その瞬間、組織との連絡用の端末が、ほんの少しだけ耳元から下がる。
「お兄ちゃんのバカッ!」
舞香先輩が叫びながら、階段を駆け上がった。
陽太さんが反応した時には、もう遅かった。
舞香先輩は兄の脇をすり抜け、その下がった方のスマホをひったくるように奪い取り、そのまま勢いよく俺たちの方へ駆け戻ってきた。
「そのスマホを貸して!」
「う、うん! 使って!」
差し出されたのは、ついさっきまで陽太さんが耳に当てていた端末だった。
俺は躊躇わず、それを受け取って耳に押し当てた。
向こうから、苛立ちを隠さない低い男の声が響いてくる。
「おい、木村。何してんだ」
俺は一瞬だけ息を整えた。
ここで黙れば、相手はただ陽太さんを締め上げる。
なら、少しでもこっちへ意識を向けさせる。
陽太さんの代わりに自分が行く。仕事を引き受ける。そう言えば、相手は無視できない。時間も稼げるし、うまくすれば連絡役の主導権を乱せる。
危ない賭けだと分かっていた。
でも、このまま陽太さんを持っていかせるよりはましだった。
「もしもし。……私は陽太の彼女です。もう、陽太に変な仕事、やらせないでください」
できるだけ震えを押さえながら、けれど少女らしいか細さは消さないように言う。
「陽太の代わりに、私が仕事をやります。だから、陽太にはもう手を出さないで」
「……誰だ嬢ちゃん。おい、木村に代われ」
「お願いします。陽太、もう限界なんです。このままだとパニックになって、警察にお金を渡して全部喋るかもしれません。私ならちゃんとできます。陽太より冷静に動けます」
「ふざけてんのか」
「本気です。だから、陽太じゃなくて私に──」
「いいから代われっつってんだろ!」
怒鳴り声と同時に、陽太さんが血相を変えて駆け戻ってきた。
「朱音!」
美桜が咄嗟に俺の前へ出る。
陽太さんの腕が伸び、美桜の肩を強く押しのけた。美桜は小さく息を呑みながらも、転ばずに踏ん張って俺の腕を引いた。
「美桜、大丈夫!?」
「平気……っ」
その一瞬で、陽太さんが俺の手からスマホをひったくった。
「す、すみません! はい……いえ、滅相もないです。そんなこと、絶対にさせません。彼女なんかじゃないんです、ただの……はい、本当にすみません!」
見えない相手に向かって、陽太さんは何度も頭を下げていた。
声は震え、肩も小刻みに揺れている。怒っていたはずの高校生はもうどこにもいなかった。ただ、逆らえない相手に必死で許しを請う少年がいるだけだった。
やがて、陽太さんは青ざめた顔のまま、スマホを俺の方へ差し出してきた。
「……お前に、代われって」
その手は、見ていられないほど震えていた。
俺は無言で端末を受け取り、再び耳に当てる。
今度の声は、さっきよりずっと低く、冷たかった。
「……おい、嬢ちゃん。よく聞け」
背筋を舐めるような、粘ついた声だった。
「このことを知ったお前も、木村も、ただじゃ済まねえ」
「……」
「妹も、家族も、お前の家族もだ。周りから順番に壊してやる」
「……っ」
「遊びじゃねえんだよ。誰に首突っ込んだか、あとで泣きながら分からせてやる」
耳の奥で、男の声が冷たく響いた。
冬の駅の空気とは別の寒気が、背中を一気に駆け上がった。




