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第60話 邂逅のプラットホーム


 手紙を持つ指に、じわりと力がこもった。


 陽太への同情がなかったわけじゃない。脅されて、追い詰められて、逃げ場を失っていたのは分かる。けれど、それ以上に腹の底で煮え立っていたのは、あまりにも取り返しのつかない場所まで、自分の足で踏み込んでしまったことへの怒りだった。


 大宮駅で紙袋を渡したとき、あの老人がどんな気持ちで金を差し出したのか。

 それを一瞬でも考えたのか。


 喉の奥が、焼けるように熱かった。


「う、うぅ……お兄ちゃん……っ!」


 背後で、舞香先輩が膝から崩れ落ちた。

 美桜も、手紙に書かれていた「500万」という数字の重さと、妹を脅しの道具に使った卑劣さに息を呑んでいる。


 俺は手紙を畳み、できるだけ静かに机へ戻した。


「舞香先輩。泣くのはあとです。まだ間に合うかもしれない」

「で、でも……どうしたら……」


 舞香先輩が震える手でスマートフォンを握りしめる。

 その指が、反射みたいにオレンジ色の丸いアイコンをタップした。


「あ……」


 画面を見た舞香先輩の目が、見開かれる。


「先輩、それ……」

「whoo。お兄ちゃん、これ切らないから……まだ見える」


 差し出された画面の上で、小さなアイコンが自宅の近くを移動していた。

 家から100メートルほど先。線路のある方角へ、ゆっくりと。


 位置情報共有アプリ。

 十代の間では珍しくもない。けれど今、その気軽な繋がりが、家を出た兄の現在地を暴く命綱になっていた。


「駅に向かってる……!」


 舞香先輩が弾かれたように立ち上がる。


「お兄ちゃん、今すぐ止めないと……!」


 そのまま駆け出そうとした彼女の後を、俺も追いかけた。

 胸の奥で、どくん、と脈が嫌な跳ね方をする。


 まずい。


 呼吸を整えようとしても、焦りのせいで浅くなる。

 それでも足は止められなかった。


 玄関を飛び出した舞香先輩は、自転車のスタンドを蹴り上げ、そのまま勢いよく跨った。


「早く、早く……!」


「舞香先輩、待って」


 美桜が、俺を庇うみたいに前へ出る。


「朱音は走れない。心臓が悪いの」

「そ、そんな……じゃあ、私一人で……!」


「駄目!」


 自分でも驚くくらい強い声が出た。


 舞香先輩がびくりと肩を揺らす。


「先輩一人で行っても、陽太さんがそのまま人混みに入ったら終わりです。私も行く。止めるなら、今しかない」


「でも、朱音……」

「美桜」


 俺は美桜の自転車の横へ回り込んだ。

 荷台に横座りで乗る。腰を下ろした瞬間、金属の冷たさが制服越しに伝わってきた。


「え、朱音、本気で!?」

「……今日だけ。お願い、急いで」


 美桜は一瞬だけ迷った。

 それでも次の瞬間には、覚悟を決めた顔になる。


「分かった。しっかり掴まって」

「うん」


 美桜の細い腰に腕を回す。

 体温が近い。けれど、それに意識を向ける余裕はなかった。


 舞香先輩が前を走る。

 その背中を追って、美桜がペダルを踏み込んだ。


 ぐん、と加速した瞬間、胸の奥が鋭く引き攣る。

 段差を越えるたび、心臓が嫌な打ち方をした。

 息が上ずる。冷たい風が喉を刺す。


「朱音、大丈夫?」

「……止めないで」


 自分でも分かるくらい、声が掠れていた。


 住宅街を抜ける。

 信号を越える。

 夕方の薄い群青の中へ、駅前の灯りが見えてくる。


 舞香先輩が何度もスマホを見下ろしながら、ふらつきそうな勢いでペダルを回していた。


「まだ動いてる……駅前、もう駅前……!」


 嫌な汗が背中に滲む。

 もし改札を抜けられたら、通勤客の流れに紛れて見失う。そうなったら終わりだ。


 駅前ロータリーに飛び込んだとき、位置情報のアイコンがぴたりと止まった。


「……いた」


 舞香先輩が、震える声で呟く。


 俺たちもほとんど同時に自転車を降りた。

 視線を上げる。


 平日の夕方。

 改札へ向かう人の流れはそこまで多くない。だが、紛れ込めば見失うには十分だった。


 階段を上がりかけた背中があった。


 灰色のビッグシルエットのパーカーに、黒のワイドスラックス。

 高めに刈り上げたブロックヘア。今どきの高校生らしい、気取った清潔感。

 けれど、肩の線だけが不自然なくらい強張っていた。


「お兄ちゃん!」


 舞香先輩の叫びが、駅のざわめきを切り裂いた。


 その背中が止まる。

 ゆっくりと振り返った顔には、怒りじゃなく、追い詰められた動物みたいな怯えが浮かんでいた。


「舞香……なんで、ここに……」

「お兄ちゃんのバカ! 手紙、読んだよ!」


 陽太の顔が一気に歪む。

 舌打ちしそうな顔で周囲を見回し、それから俺たちを睨んだ。


 手には、コンビニの袋が一つ。

 そしてもう片方には、部屋に置かれていた古いiPhoneSEじゃない、今使っているらしいスマホが握られていた。


 やっぱり、あっちにあったのは予備か。

 そう考える間にも、陽太は低く吐き捨てた。


「……静かにしろっ」


 そう言って、出入口の階段脇、人目の薄いスペースへ足を向ける。


 舞香先輩がすぐに追おうとする。

 俺も美桜の背から離れ、地面へ足を下ろした。


 その瞬間、胸の奥で不規則な拍動がまた跳ねる。

 軽く眩暈がした。けれど、ここで膝をつくわけにはいかない。


 呼吸を一つだけ深く吸う。


 陽太は、逃げたいのに逃げ切れない人間の歩き方をしていた。

 肩は上がっているのに、足取りだけが妙に鈍い。

 本気で妹を振り切る気なら、もう走っているはずだ。

 まだ止まれる。

 まだ引き返せる。


 俺は数歩進み、陽太の背に向かって声を投げた。


「……木村陽太さん」


 陽太の肩が止まる。


「その『最後の仕事』を引き受けたら、終わりじゃない。戻れなくなりますよ」


 冷えた空気の中に、俺の声がまっすぐ落ちた。


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