第58話 密室のプロファイリング
舞香先輩の家は、閑静な住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。
ベージュの外壁に茶色の屋根を載せた、どこか北欧風の洒落た造り。細部までこだわりを感じる家なのに、玄関の前に立った瞬間、そこに漂う空気は妙に重かった。
インターホン横のカメラに舞香先輩が顔を向けると、電子音とともに解錠される。
扉の向こうに広がっていたのは、昼間だというのに厚いカーテンで光を遮られた、どんより暗い空間だった。
「ごめん、ちょっと散らかってるかもしれないけど……入って」
「全然。お邪魔します」
「今は両親いないから。お兄ちゃんの部屋は二階」
一歩踏み込むと、センサーが反応して照明が灯った。
俺たちは靴を揃え、無言のまま家に上がる。
舞香先輩が先に階段を上がっていく。
その背中を追いながら、俺は手すりの付け根や階段の隅に目をやった。
そこには、掃き出されずに残った細かな埃や髪の毛が薄く溜まっていた。
家そのものは新しくて立派なのに、日々の掃除という最低限の手入れが追いついていない。家族全体の気力が、もうかなり削られている証拠だった。
二階の奥。
木製の片開き戸の前で、舞香先輩が立ち止まる。
扉には『Youta』とアルファベットで書かれたルームプレートが掛かっていた。既製品ではなく、雑貨屋かネットで選んで買ったような、少しだけポップで新しいデザイン。几帳面に真っすぐ貼られていて、本人が気に入っていた名残がまだそこに残っていた。
その「自分の部屋」にこだわっていた気配が、今の状況とひどく噛み合わなくて、胸の奥に鈍い重さが落ちた。
トントン、と舞香先輩がノックする。
「お兄ちゃん、いるー?」
彼女の声は、さっきまでより少し低く、慎重だった。
返事はない。
「お兄ちゃん? ちょっと話があるんだけど」
やはり沈黙だけが返ってくる。
トントントン。
今度は少し強く叩く。
それでも反応はなかった。
「あれ……いないのかな……」
嫌な感覚が背筋を撫でた。
俺は舞香先輩を軽く制するように前へ出て、ゆっくりドアノブを回した。
鍵はかかっていない。
扉の隙間から、澱んだ空気と静けさが漏れ出してくる。
「ま、まさか……もう……」
舞香先輩の声が震えた。
その不安に引きずられそうになるのを抑えながら、俺は部屋の中を素早く見渡した。
乱雑に積み上がった毛布。
床に転がる携帯ゲーム機。
のたうち回る充電ケーブル。
隅のバスケットから溢れ出した脱ぎ捨ての服。
ただ、荒らされた形跡はない。
誰かと争ったような異様さもない。あくまで「掃除を放棄した男子高校生の部屋」の範囲内だった。
美桜が鼻をひくつかせ、不快そうに眉を寄せる。
籠もった汗と埃の匂いが、この部屋が長いこと停滞していたことを物語っていた。
「……失礼します」
足元の散乱物を避けながら、慎重に中へ踏み込む。
俺のあとから、舞香先輩が「ごめん、お兄ちゃん」と小さく呟きながら入ってきた。
兄妹の間に、普段はちゃんとプライバシーの線引きがあるのだろう。
だからこそ、この踏み込みは彼女にとっても相当重いはずだった。
「舞香先輩。修学旅行で使うような、大きめのボストンバッグとかリュックって、なくなってない?」
「えっ……」
舞香先輩は戸惑いながらも、すぐに押し入れを開けた。
中には、バイクのカウルや工具類がぎっしり詰め込まれている。
「あ……ある。大きいバッグは、全部ここにあるよ」
「パスポートの場所は分かりますか?」
「ごめん、それは分からない……。持ってるのかどうかも」
ベッド脇のコンセントには、スマートフォンの充電器が挿しっぱなしになっていた。
俺はその周辺を見回し、衣類の山の上に置かれた一台のiPhone SEを手に取る。
古い型だ。
電源ボタンを長押ししてみるが、画面は真っ黒なまま反応しない。
「これ、お兄ちゃんの?」
「うん……前はそれ使ってたと思う。でも最近、新しいスマホ買ったって言ってた」
なるほど。
これは普段使いではなく、以前の端末……サブ機か、もう使っていない端末だ。電源が入らないなら、今の連絡手段にはならない。
俺は同じ場所にそのiPhoneを戻し、他にないか周囲を探した。
「朱音、あんまり汚いの触っちゃ駄目だよ!」
「あ、ごめん……」
元警察官だった頃の癖で、つい手が先に動いてしまう。
だが見回した限り、今使っているらしいスマホやタブレット、ノートPCの類は見当たらなかった。
その時、視線が机の上で止まった。
そこだけが、妙に整いすぎていた。
散らかり放題の部屋なのに、机の天板だけは物が少ない。
本来なら教科書や雑貨が置かれていてもおかしくないのに、ぽつんとシャーペンが一本置かれているだけ。その脇に、一冊のノート。
違和感がある。
俺はそのノートを手に取り、中をぱらぱらとめくった。
高校の社会科の授業ノートだった。字は丁寧だが、後半へ行くにつれて少しずつ乱れ、あるところで途切れている。
最後まで見ても、遺書じみた書き置きはない。
だが、最初の方のページに微妙なズレがあった。
綴じ目を見ると、不自然に千切られた跡がある。数枚分だ。
俺は机の周辺を見渡した。
ゴミ箱の中にも、それらしい紙屑は見当たらない。
「何かあったの、朱音ちゃん?」
「……まだ分からない。でも、このノート変な感じです」
俺は一番上の引き出しを開けた。
そこに、二つ折りにされた紙が入っていた。
罫線の幅も紙質も、さっきのノートと同じだ。
千切られたページは、これだ。
俺はそれをそっと取り出し、慎重に開いた。
背後から、美桜と舞香先輩が息を呑みながら肩越しに覗き込んでくる。
そこには、震えるような筆跡で文字が綴られていた。




