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第57話 奈落への片道切符


「カンボジア? それって、外国だよね?」


 美桜が不安そうに聞き返してくる。


「うん、外国。東南アジアの国だよ」


 俺は、背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。


 カンボジア。

 今、その国名が裏社会の文脈で出てくる時、頭をよぎるものがある。闇バイトの若者たちが軟禁され、組織的な犯罪に加担させられる海外拠点。ニュースや捜査情報の中で何度も見てきた、あの嫌な単語だ。


 もちろん、通知の一文だけで全てを断定することはできない。俺の読み違いかもしれない。脅し文句として国名を使っているだけの可能性だってある。


 それでも――今は動くしかない。


 もし本当にその手の話なら、一度足を踏み入れた時点で、自力で帰ってこられる保証なんてどこにもない。詐欺の掛け子として使い潰されるかもしれないし、帰国できたとしても「被害者」では済まない現実が待っている。


 舞香先輩の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。

 俺の表情だけで、事の重さを察したのだろう。


「お兄ちゃん……ちゃんと帰ってこられるんだよね? どういうところなの?」

「……」


 余計な知識で、今ここで彼女を潰したくはない。

 でも、危機感だけははっきり伝えなきゃいけない。


「行かせちゃだめだよ。今のままじゃ、やばいよ」


 俺はできるだけ低く、強く言った。


「その通知が来たのって、いつ?」

「えっと……3日前くらい?」

「お兄さんが荷物をまとめたり、パスポートを探したりしてる様子は?」

「ずっと部屋にこもってるから……わからない」


 3日。

 その数字が、妙に生々しく頭の中に刺さった。


 最悪、もう準備は終わっているかもしれない。

 明日かもしれないし、今日の夜だってあり得る。


 警察に通報するべきか。

 そう考えた瞬間、別の可能性が浮かぶ。


 今の段階で制服の警官が家に踏み込めば、陽太さんはますます頑なになるかもしれない。下手をすれば、舞香先輩が兄のスマホを見たことまで疑われて、兄妹の関係そのものが壊れる。


 しかも、これはまだ通知一つの話だ。

 俺の推測が外れている可能性もある。


 でも、だったら何もしないで見送るのか。

 それは無理だ。


「今から、お兄さんに会いに行きたい」


「え? 今から?」


 舞香先輩と美桜が、同時に目を丸くした。


 まずは会って、話す。

 感触を確かめる。

 そこで危険が濃くなったら、その時こそすぐ動けばいい。


 一人の若者が、何も知らないまま組織に食い潰されるのだけは止めたい。


「うん。正直、一刻を争うと思う。私に説得させて」

「えっ、でも……ちょっとアドバイスをもらえればって思ってただけで。わざわざ来てもらうなんて……」


 舞香先輩は焦ったように両手を振る。


「お兄さん、自分が何に巻き込まれようとしているか、本当に分かってないかもしれないんだよ。もし私の考えてる通りなら、このまま行ったら取り返しがつかなくなる」


 思わず椅子から立ち上がっていた。


「……こうなったら、朱音は止まらないから」


 美桜が半分呆れたように、でも諦めたようにため息をつく。


「舞香先輩、案内して。朱音を止めるより、今は一緒に動いた方が早いよ」

「美桜……」

「だって、ここで引き下がる顔してないもん」


 図星だった。


 俺は借りていた本にしおりを挟み、返却棚へ押し込む。

 まだ閉館までは時間があったけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。


 三台の自転車で、舞香先輩の家へ向かう。


 学校から自転車で20分ほど。

 冬の冷たい風が肺の奥を刺してくる。心臓が痛まないように、呼吸を深く、一定に保ちながらペダルを漕いだ。無理はしたくない。でも急がなきゃいけない。


 マフラーで口元を覆いながら、焦る気持ちをどうにか抑える。


「……よかった。今日は、バイクの音がしないみたい」


 先頭を走る舞香先輩が、少しだけ安堵したように呟いた。


 その一言が逆に、俺の胸をざわつかせた。


 静かすぎる。

 何も起きていない夜の静けさじゃない。何かがもう、次の段階に進んでしまった後の、空白みたいな静けさだった。


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