第56話 忍び寄る「異国」の影
期末テストの騒がしさがようやく落ち着き、カレンダーの数字が冬休みに向かって一気に加速し始めていた。
放課後。
俺はいつものように、美桜と一緒に図書室へ向かっていた。
廊下を歩くとき、美桜がさりげなく俺の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれるのがわかる。そういう小さな優しさが、冷え込み始めた空気の中で少しだけ胸を温かくした。
図書室に入ると、暖房の効きが悪いのか、鼻先をかすめる空気が少しひんやりしている。貸し出しカウンターに誰もいないのを確認して、俺たちはいつもの窓際の席に座った。この時期は受験勉強に追い込みをかける三年生が自習室にこもるから、ここは驚くほど静かだ。
俺は鞄から一冊の本を取り出した。
逢坂冬馬の『同志少女よ、敵を撃て』。
鈍器みたいに分厚い本だけど、ページをめくるたびに戦場の張り詰めた空気が肌を刺してくるようで、一気に物語の世界へ引き込まれる。施設にはない新しい本を自由に読めるのは、図書部に入って一番良かったことかもしれない。
「ねえねえ、朱音?」
ふいに意識が現実へ引き戻される。
美桜が顔を寄せて、俺の読んでいる本を覗き込んできた。
「その小説、面白いの? なんだか、すっごく恐そうなタイトルだけど」
「うん、すごい面白いよ。女性だけの狙撃部隊の話。狙撃手としての緊張感とか、仲間との関係がすごく濃くて……つい夢中になる」
「ふーん、朱音らしいね。……あ、そうだ。今度、大宮とかにお洋服買いに行かない?」
「えっ、服? お金、どうするのよ」
「今度ね、施設から被服代として一万五千円出るんだって。本当はゆかり姉とか清美先輩がついてこなきゃいけないんだけど、『二人だけで行っていいよ』って許可してくれたの」
一万五千円。
今のこの身体になってから、自分の意思で服を買いに行くのは初めてだ。
正直、施設のお下がりでも別に困ってはいない。けれど、美桜が目を輝かせているのを見ると、俺の心も少しだけ浮き立ってしまう。
「朱音の服、私が選んであげようか?」
「や、やめてよ。美桜のセンス、たまに尖りすぎてるんだから」
「えー、いいじゃん。朱音には絶対かわいいの着てほしいな」
「そんなこと言って、また清美先輩みたいにフリフリしたの選ぶんでしょ」
以前、清見先輩に買われた『朱音は可愛いんだから盛れ!』の服を思い出して、思わず顔が引きつる。
中身41歳のおっさんには、あれは本気できつかった。
「ふふふ、あれも可愛かったよ。でも朱音には、韓国風の格好かわいい感じが似合うと思うんだよね」
「美桜の方が背も高くてスラッとしてるから、そういうの似合うよ」
「えぇー、私はユニクロとかで十分。目立つの恥ずかしいもん」
「それ、こっちの台詞だよ」
そんな他愛もない話をしていた時だった。
図書室の重い扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、最近よく見かけるロングヘアの女子生徒だった。高い位置で結んだハイポニーテールが、すらりとした立ち姿を際立たせている。
俺と美桜は反射的に声を潜め、読書を再開する。
彼女は俺たちから少し離れた席に座ると、慣れた手つきで分厚い参考書とノートを広げた。
三年生だろう。十二月も半ば。受験生にとって、この時期は精神的にも一番きつい頃だ。
俺も昔、受験期にはそれなりに器用に立ち回れていた自負があった。だが、あの孤独な戦いだけは、何度思い返しても胃の奥が冷える。誰にも代わってもらえない種類の消耗だった。
そんな昔の記憶に触れながら、再び本へ視線を落とす。
この教官、気配察知がほとんど超能力だな……。
「あの……田中朱音さんと、栗原美桜さんだよね?」
静かな声に呼び止められ、意識が本の世界から引き戻された。
凛としているのに、どこか疲れが滲んだ声だった。
顔を上げると、さっきの先輩がこちらを見ている。
「あ、はい。そうですが……」
「突然ごめんね。私、三年の木村舞香っていいます」
俺はその名前に聞き覚えがなかった。
だが、相手は俺たちのことをはっきり知っている。
「実は……神田愛さんから、二人のことを聞いたの」
「神田さんから?」
「うん。同じ塾で少し話したことがあって。前に助けてもらったことがあるって言ってた。もし本当に困った時は、田中さんと栗原さんならちゃんと話を聞いてくれるかもしれない、って」
神田さんか。
なるほど、それなら話はつながる。
体育教師の件も、あの夜の騒ぎも、学校全体では表向き伏せられている。けれど、当事者の一人である神田さんが、自分の言葉で「助けられた」と誰かに話すのは不自然じゃない。
「……それで、相談したいことがあるの」
舞香先輩は、言葉を選ぶように一度唇を結んだ。
俺と美桜は顔を見合わせ、小さく頷く。
「どうぞ」
「最近、うちの周りに毎晩みたいにバイクが来るの。家の前でずっとコールして、パトカーが来ると逃げて、また少し経つと戻ってくるの。そのせいで近所からも変な目で見られてて……」
図書室の穏やかな空気が、一瞬で張り詰めた。
「それって……警察には相談したんですか?」
「うん。何度も。でも、パトカーが来るといなくなって、帰るとまた来るの繰り返しで……」
舞香先輩は膝の上で拳を握りしめた。
「たぶん、お兄ちゃんの知り合いなんだと思う」
「お兄さんの?」
「お兄ちゃん、少し前まで悪いグループに入ってたの。そこを抜けようとしてから、こうなった気がしてる」
暴走族。
今の時代、昭和みたいな特攻服とロケットカウルの旧車會ばかりじゃない。スクーターや原付を改造して、ただ目立つためだけに爆音を鳴らす連中もいれば、古いマニュアル車で執拗にコールを続ける連中もいる。
そして、そういう集団にありがちな抜ける時の揉め事は、昔から変わらない。
ケジメだの上納だの、もっともらしい言葉を振りかざして、結局は脅しと恐喝に変わっていく。
「お兄さん、今はどうしてるんですか?」
「ほとんど部屋にこもってる。高校二年なんだけど……第一志望に落ちてから少しずつ変わっちゃって。悪い友達と遊ぶようになって、夜中にバイクで出るようになって……でも、本当は優しい人なんだよ」
舞香先輩の声が、最後のところで少しだけ揺れた。
「迷惑かけられてるって分かってる。怒ってるし、何やってるのって思う。でも……それでも、お兄ちゃんのこと嫌いになれないの」
美桜が小さく息を呑む。
俺も、その一言に胸の奥が少しだけ重くなった。
家族って、そう簡単には切れない。
どれだけ迷惑をかけられても、どれだけしんどくても、嫌いになりきれないことがある。
「最近は、私の帰り道にもバイクが近づいてくるような気がして。学校に行く時も、なんとなく見られてる感じがするの」
「それ、かなり危ないですよ」
「うん……。警察には『何かあればすぐ通報して』とは言われてる。でも、それ以上はなかなか……」
警察の限界。
確かに、ボディガードみたいなことまではできない。少年の脱退トラブルは、本人の意思と被害の申告がないと決定打に欠けることも多い。
「お兄さんは、警察にちゃんと話してくれないんですか?」
「それが……全然。警察が来ると怒鳴って追い返そうとするし、お父さんもお母さんも事情を話してって言ってるのに、ずっと黙ったままで」
舞香先輩は、そこで一度言葉を切った。
「お兄ちゃん、最近スマホもずっと気にしてて。家では何も言わないのに、通知が来るたび顔色が変わるの」
その言い方に、嫌な気配が混じった。
「……これ、見て」
舞香先輩がスマートフォンを取り出し、通知画面を撮影した画像をこちらへ差し出す。
「お兄ちゃんがお風呂に入ってる時、ダイニングにスマホを置きっぱなしにしてて。その時にTelegramでメッセージの通知が来たの」
そこに並んでいた文字を見た瞬間、背筋が冷えた。
『二週間ほどカンボジアだ。行ったら全部終わりにでき……』
通知だから、文は途中で途切れている。
――カンボジア。
――二週間。
――全部終わりにできる。
ただの不良同士の揉め事じゃない。
元警察官だった頃の感覚が、頭の中で鋭く警鐘を鳴らした。
背後にいるのは、もっと大きくて、もっと底の見えない何かだ。
「お兄ちゃん、何かとんでもないことに巻き込まれてるんだよね……?」
舞香先輩の声は、今にも崩れそうだった。
俺はスマホの画面から目を離せずにいた。
これはもう、ただの騒音被害じゃない。
もっと深い奈落の入り口が、すぐそこまで口を開けている。




