第55話 音 (木村陽太視点)
ヴァン、ヴァヴァヴァン。
ヴァン、ヴァヴァヴァン。
断続的に、けれど執拗に空気を切り裂くマフラー音が、深夜の住宅街に響き渡る。
家の真正面に陣取った三台のバイク。
わざと一定のリズムを刻む「コール」の音は、ただの騒音なんかじゃなかった。耳を塞いでも壁を抜け、床を伝い、腹の底まで入り込んでくる。鼓膜を殴るだけじゃない。神経そのものを爪で引っかかれるみたいな、不快で、暴力的で、逃げ場のない音だった。
「もう……やめろよ……!」
声に出したところで、消えるわけじゃない。
むしろ自分の声さえ、あの爆音に飲み込まれていく。
くそ。
ふざけんな。
なんで、まだ終わらねえんだよ。
恐怖の奥底で、怒りが煮え立っていた。
あいつらに対して。何度通報しても何も変わらない現実に対して。何より、こんな状況を家に持ち込んだ自分自身に対して。
俺は震える指でスマホを掴み、三桁の番号を押した。発信音すら待ちきれない。
『警察です。事件ですか、事故ですか?』
受話器の向こうの落ち着き払った女の声に、喉が焼けるような苛立ちが噴き出した。
「事件だよ! 家の前にまた暴走族が来てるんだ! 早く来いよ! 何回通報させれば気が済むんだ!」
『場所を教えてください』
「電話番号で照会すれば分かるだろ! 何度もかけてんだよ! この音、聞こえないのかよ!」
『木村さんですね。過去の通報履歴を確認しました。現在、向かわせていますので、ご自宅の中で待機してください』
「分かってるよ、そんなこと!」
吐き捨てるように言って、通話を切る。
切ったところで何も終わらない。分かっているのに、そうせずにはいられなかった。
耳を押さえて、その場にしゃがみ込む。
薄い壁の向こうには、受験を控えた妹の部屋がある。深夜まで机に向かって、必死に未来を掴もうとしている妹。そして、その娘を案じながら、どうにもできずに息を殺している母。
親父はまだ帰っていない。
仕事という戦場から戻るはずの家まで、今は地獄みたいになっていた。
どうして、こんなことになった。
いや、違う。
どうしてじゃない。
俺が、こうしたんだ。
かつて自分が犯した過ちが、音になって、形を変えて、家まで追いかけてきている。
やがて遠くからサイレンが近づいてきた。
ウゥゥゥゥ――
それに気づいた途端、あいつらのバイク音が一段と荒く高まる。
ヴァアァァァァァ!
最後に威嚇するみたいな排気音を残し、3台は闇の向こうへ消えた。
数秒後、窓の外をパトカーの赤色灯が染める。
どろりとした赤い光が、カーテン越しに部屋の中まで滲んできた。
けれど、その光は安心なんかじゃない。
ただ「また来た」と近所に知らせるだけの灯りだった。
パトカーは、獲物がいないことを確認すると、規則通りの事務的な動きでその場を離れていく。
そして、静寂が戻る。
いや――本当の静寂じゃない。
しばらくして、壁の向こうから微かに音が漏れてきた。
妹の部屋だ。ヘッドフォンをつけているんだろう。音量を上げすぎたせいで、シャカシャカと薄く外へ漏れている。
勉強しながら、無理やりあのコール音をかき消そうとしているんだ。
胸の奥がぐしゃりと潰れた。
数十分後。
忘れた頃を狙ったみたいに、またあの爆音が帰ってくる。
ヴァン、ヴァヴァヴァン。
ヴァン、ヴァヴァヴァン。
「っ……!」
頭の芯が灼ける。
俺はまたスマホを握りしめ、同じ番号にかけ、同じように怒鳴る。
その繰り返しだった。
パトカーが家の前に長時間停まり、番犬みたいに赤色灯を回し続けた夜もあった。
だが、その光さえ今は凶器だった。
あそこの家がまた通報した。
あそこの家がトラブルを呼び込んでいる。
あいつらのせいで眠れない。
そう言いたげな近所の視線が、目に見えない悪意になって木村家へまとわりついてくる。
いつの間にか、敷地の中にゴミを投げ込まれることも増えた。
バイクが悪い。
そんなことは百も承知だ。
でも、そもそもの原因を作ったのは俺だ。
誰ももう、俺たちを被害者としては見ていない。
「……引っ越そう」
数日前、重苦しい沈黙の中で開かれた家族会議。
親父が絞り出すように言ったその一言が、今も胸の奥に鉛みたいに残っている。
俺は何も答えられなかった。
うなずくことも、嫌だと言うこともできず、ただ背中でその言葉を受け止めて、自分の部屋へ逃げ帰った。
ドアを強く閉める。
鈍い音が家の中に響く。
腹の底から煮え立つ苛立ちを、どこにもぶつけられない。
いや、違う。ぶつける相手は分かっている。
俺が一番ムカついているのは、俺自身だ。
妹がどれだけ頑張っていたか知っている。
偏差値の高い高校に行って、仲のいい友達と一緒に通いたいんだって、参考書をぼろぼろになるまで読み込んでいた。
この家だって、親父が必死に働いて、ローンを組んで、ようやく手に入れた場所だったはずだ。
母さんだって、ここで家族を守ろうとしてきた。
全部。
全部、俺のせいで音を立てて崩れていく。
暗闇の中、また遠くからバイクの音が聞こえ始めた。
俺は爪が食い込むほど強く、自分の耳を塞いだ。




