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第54話 結び目と温もり

 窓を叩く霧雨が、数日間の騒乱を洗い流していくようだった。


 施設の事務室に警察からの正式な報告が入ったのは、その翌日のことだ。

 俺が暴き出したスマートフォンの動画データが、言い逃れのできない物証となり、あの体育教師は性的姿態等撮影未遂の容疑で正式に逮捕された。


 奴は余罪も含めて全面的に容疑を認め、自宅の家宅捜索も行われたという。クラウド上への拡散形跡も確認されず、押収されたデバイス内のデータは捜査終了後に警察の手で完全に消去される。

 1人の元警察官として、最悪の事態――ネットへの流出――を未然に防げたことに、安堵と共にひどく乾いた疲れを覚えた。


 2日間の安静期間、俺はただ泥のように眠った。

 かかりつけ医からの「2日間安静」と書かれたの診断書は、俺の心臓が抱える脆さを改めて千夏さんに突きつけた。少しばかり走った代償は、俺が想像していたよりもずっと重かったのだ。



 久しぶりの登校日。朝の光が差し込む食堂は、トーストの焼ける香ばしい匂いと、子供たちの賑やかな声に満ちていた。

 今日の献立は、厚切りのトーストに目玉焼きとソーセージを乗せたもの。たっぷりと回しかけられたケチャップの赤が、白木風のテーブルの上で鮮やかに映える。


「おっ、朱音ちゃーん、美桜ちゃ〜ん。おっはよ〜!」


 食堂に入ると、ゆかり姉がいつものように両手を振って迎えてくれた。


「おはようございます」

「おはよう、ゆかり姉」


 俺と美桜は並んでトレーを受け取り、焼きたてのパンの温もりを掌に感じながら席に着いた。

 食パンを半分に折り、思い切りかぶりつく。サクッという心地よい音と共に、ソーセージのジューシーな脂と卵のコク、そしてケチャップの甘酸っぱさが口の中で完璧なハーモニーを奏でた。

 美味しい。思わずこぼれたのは、41歳の男の感想ではなく、素直な12歳の感嘆だった。


「まーた、2人で大活躍だったんだって? 警察から電話来るなんてさ」


 向かいに座ったゆかり姉が、悪戯っぽく目を細める。


「ううん、そんなことないですよ。ちょっと……大変だったけど」

「もう、姉さんとしては鼻が高いけどさ。でも、あんまり無理しちゃダメだよ? 朱音ちゃん、顔色がまだ少し白いんだから」

「はーい」


 俺と美桜は声を揃えて返事をした。


「本当よ。もうこれ以上、私の寿命を縮めないでちょうだい」


 背後から、千夏さんの凛とした、けれどどこか疲れた声が響く。


「……私、本当に、反省しています」

「分かればよろしい。さあ、遅れないように早く食べてしまいなさい」


 千夏さんは俺の肩にぽんと手を置いてから、去っていった。

 大人たちの心配は、今の俺には束縛ではなく、この不安定な命を繋ぎ止めてくれる錨のように感じられた。



 美桜と共に、雨上がりの湿った空気を吸い込みながら、いつもよりゆっくりとした足取りで学校へ向かう。

 教室の前で「また後でね」と美桜と別れ、1人で部屋に入ろうとした時、ふと、あの体育教師の最後の、狂気に満ちた歪んだ顔が脳裏をよぎった。

 無意識に、胸元の鼓動を確かめるように手が動く。肋骨の裏側で、心臓が弱々しく、けれど確かに時を刻んでいた。


「朱音ちゃん! 大丈夫!? 荷物、私に持たせて!」


 背後から飛んできたのは、愛ちゃんの心配するような声だった。俺が返事をする暇もなく、肩からバッグが奪い取られる。


「あ、愛ちゃん。私、平気だよ。そんなに重くないし」

「ううん、ダメ! 無理しないでね。ほら病み上がりだし」


 愛ちゃんはどこか決然とした表情で、俺の隣をぴたりとキープした。


「愛ちゃん……いつも通りでいいんだよ?」

「これが、これからの私の『いつも通り』なの!」


 彼女の過保護なまでの優しさに、俺は苦笑いしながらついていくしかなかった。



 放課後、事後報告を兼ねていつものメンバーで図書室に集まった。

 午後の西日が差し込む室内には、埃の粒が静かに舞っている。


 俺は無意識に、あのカメラが仕掛けられていた窓際の席を避けた。椅子に腰を下ろす際、どうしても、机の下やコンセントがないか見てしまう。

 机の裏側に指が伸びる。冷たい木材の感触を確かめ、異常がないことを確認せずにはいられない。


 その指先が、隣に座った美桜の手と不意に重なった。互いに何をしていたかを悟り、顔を見合わせて小さく吐息を漏らす。恐怖はまだ、完全には消えていない。けれど、繋いだ手の熱だけは本物だった。


「……先生は、正式に逮捕されたって電話があったよ。動画も警察が全部消してくれるって」


 俺が事実を伝えると、一同を包んでいた硬い空気がふっと緩んだ。

 学校側からの説明会もあり、衝撃は広がっていたが、当事者である俺たちの口から決着を聞いて、ようやく納得がいったようだった。


「それと……もう1つ、ちゃんと伝えておかなきゃいけないことがあるんだけど……」


 俺は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。


「私と美桜は、児童養護施設からこの学校に通ってるの。……今まで、隠しててごめんなさい」


 神田さんが息を呑み、相澤くんが珍しく真面目な顔でこちらを凝視する。


「え、田中さんって、そうだったのか。……いや、マジで大変じゃん」


 相澤くんが戸惑いながらも、いつものぶっきらぼうな口調で応えた。


「AZW、いたの? 影が薄くて気づかなかったわ」

「ひっでーな! 最初からフル出席だっつの!」


 美桜の軽口に、相澤くんが肩をすくめる。その何気ないやり取りが、俺の不安を少しだけ溶かしてくれた。


「今まで、気づいてあげられなくてごめんね……」


 愛ちゃんが俯いたまま、俺に向かって絞り出すような声で言った。


「私、朱音ちゃんの制服が少し古いのを見て、もしかしてって思ったこともあったの。でも、朱音ちゃんがあまりにかっこいいから、私……自分のことばっかりで」

「困ったことがあったら、いつでも俺に言えよな。力仕事とかなら任せろよ」


 相澤くんが力強く付け加え、神田さんも深く頷いてくれた。愛ちゃんが、再び俺の手をぎゅっと握る。


「私、朱音ちゃんが心臓が悪いって知ってたのに、あんなに無理させて……。倒れちゃうのを見た時、本当に心臓が止まるかと思ったんだからね」

「心配かけて、本当にごめんなさい。でも、もう大丈夫だから」


 冷たくなった愛ちゃんの指を、俺はゆっくりと温めるように握り返した。


「もう二度とあんな無茶しないで。何かあったら私に言って。私が代わりに全部やるから!」

「……それは無理よ」


 美桜が、愛ちゃんの言葉をピシャリと遮った。


「朱音は、私がどれだけ止めても、誰かのために自分を顧みず突っ走る子なんだから。私が一番それをわかってる。……でも、そんな朱音に、私は救われたの」


 美桜は唇を少しだけ尖らせ、それから、慈しむような眼差しで俺を見た。


「私も、朱音ちゃんに救われました。だから……今度は私たちが、朱音ちゃんを助ける」


 梨花も俺の手を重ね、3人の体温が俺の掌に集まった。

 胸の奥が、温かい雫で満たされていくようだった。かつての俺のいた世界には、これほどまでに純粋で、痛々しいほどの優しさはなかった。


「ありがとう。……なるべく、心配かけないように気をつけるね」


 目尻に溜まった熱いものを指先で拭い、俺は最高に可愛らしい朱音の笑顔を見せた。


「『なるべく』じゃなくて、『絶対』でしょ!」


 美桜の鋭いツッコミに、全員が泣き笑いのような声を上げて吹き出した。



 その夜。施設の静寂が包むベッドの中で、俺は美桜と1つの毛布にくるまっていた。


「明日になったら、学校中に広まっちゃうかな。私たちのこと」

「いいんじゃない? もし誰かが何か言ったら、私がそいつを黙らせるし。朱音を独占する理由が増えるだけだもん」

「……美桜、それじゃただの怖い人だよ」


 美桜が俺の頭を優しく撫でる。


「今回も、頑張ったね。朱音」


 今回は誰かを救うというより、正義の執行だった。教育者という聖域に隠れた悪意を、白日の下に晒した。けれど、それ以上に得たものは、かつての高橋満雄が1度も手にできなかった「信じ合える仲間」という光だった。


 美桜が、熱を持った瞳で顔を近づけてくる。シャンプーの甘い香りが、鼻腔をくすぐる。

 俺はそれを静かに受け入れ、ゆっくりと目を閉じた。


 かつて警察官として生きていた頃、俺の視界は犯人や悪意、歪んだ欲望ばかりを捉えていた。世界は救いようのない泥濘だと思っていた。


 けれど、それは間違いだった。共に怒ってくれる仲間がいて、泣いてくれる友がいて、そして何より――この小さな命を、自分以上に大切に想ってくれる美桜がいる。


 唇が重なり、湿った熱が絡み合う。

 触れられないはずの魂の輪郭を、互いの体温でなぞり合うような感覚。守られることが、これほどまでに安らかで、頼もしいものだとは知らなかった。


 美桜の手がパジャマの下に滑り込み、熱を帯びた指先が臍から上へと這い上がってくる。体が自然と丸まる。


 心臓の鼓動が早まる。


「……み、お……」

「逃げないで」


 美桜は俺の顎をそっと持ち上げ、逃がさないように深く口づけを重ねた。

 彼女の熱が上半身から下へと波及していく。口唇と指先が、それぞれ別の意志を持っているかのように俺を翻弄した。


 なすがままにされる悦び。以前の41年間では決して味わうことのなかった、この華奢で敏感な肉体が奏でる歓喜に、俺は抗う術を持たなかった。


 元警察官としての理性が、甘美な痺れの中に溶けて消えていく。

 俺はただ、俺を愛してくれる少女の腕の中で、どこまでも深く沈んでいった。


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