第53話 結末の抱擁
ようやく、終わった。
全てを暴かれた体育教師は、その場に崩れ落ち、頭を抱えて呻いている。
「教頭先生、すぐに通報を」
「わ、分かりました……!」
教頭が震える手でスマートフォンを取り出し、緊急通報を行う。
緊張の糸が切れた瞬間、視界がガクリと垂直に落ちた。膝を突いたことにも、一瞬遅れて気づく。
アドレナリンが引き、酷使した循環器系が悲鳴を上げ始めていた。たった数分、少しばかり走っただけの代償としては、あまりに重い。
「朱音!」
美桜がすぐさま駆け寄り、背中に手を回して俺の身体を支える。
「……大丈夫。少し、目眩がしただけ。それと、バッグから……薬を……」
「うん、分かった。愛ちゃん、持ってき――」
美桜が愛ちゃんに呼びかけようとして、言葉を飲み込んだのが分かった。
俺たちが児童養護施設の出身であることは、まだ彼女には伏せていた。事情を知っているのは、梨花と、一部の教職員だけだ。
「待って! 私が持ってくる。本当に……ごめんね……!」
愛ちゃんは目に涙を溜め、弾かれたように図書室を飛び出していった。
「大丈夫ですか、田中さん。心臓の具合が悪いと聞いていましたが……救急車を呼びましょうか?」
「いえ……少し無理をしただけですから。休めば落ち着きます。カメラの件、警察への引き継ぎ……よろしくお願いします」
「ええ、分かっています。難しいことは教頭に任せますので、貴女はもう休みなさい。それと保護者にも連絡しますから」
俺は、体育教師のスマホを取りだし、校長に差し出した。
歩けなかったので、美桜がスマホを受け取り校長に渡してくれた。
暗証番号が『Z』であることも伝えた。
校長の温情に、俺は声を出せずにただ深く頷いた。動悸が収まらず、床に正座したまま動くことができない。
「朱音、保健室へ行くよ」
「うん……」
自力で立ち上がろうと試みたが、足に力が入らない。他人にこれ以上の醜態を晒したくないが、弱った身体に拒絶される。
その時、不意に視界が宙に浮いた。
ふわっとした浮遊感の後、目の前に美桜の顔があった。
「……っ、美桜?」
いわゆる、お姫様抱っこ。
美桜に軽々と持ち上げられ、俺は反射的に彼女の首に手を回した。視点が高くなった恐怖と、12歳の少女としての羞恥が混ざり合い、顔が熱くなる。
「み、美桜。もう歩けるから、下ろして……」
「ダメ。このまま保健室まで連れて行く。いいから、大人しくしてて」
美桜の瞳には、一切の妥協を許さない強い意志が宿っていた。
図書室から保健室までは、この体勢で移動するにはあまりに長い。校長に一礼し、彼女は堂々と廊下へ踏み出した。
案の定、すれ違う生徒たちの視線が、突き刺さるような熱を持って俺たちを追ってくる。逃げ場のない羞恥に耐えかね、俺は外界を遮断するように美桜の胸元に顔を埋めた。
その耳元で、彼女の呼吸が少しだけ荒くなっているのを感じる。
「……ごめんね」
首に回した腕に、そっと力を込める。
俺のために、彼女は何度でも「守る側」になろうとしてくれるのだ。
角を曲がるたびに、美桜は少し腕を組み直している。やっぱり、今の俺でも多少は重いのだろう。
保健室のベッドに横たわり、養護教諭の診察を終える頃には、ようやく胸の痛みも落ち着いていた。
カーテンの隙間から、扉が開く音が聞こえる。
養護教諭と短く会話を交わした後、カーテンが静かに引かれた。そこにいたのは、愛ちゃんだった。
「……」
美桜が無言で手を差し出す。愛ちゃんは、持ってきた薬の袋を渡すと、一言も発することなく、逃げるように保健室を後にした。
施設育ちであることを知られたショックだろうか。それとも、隠し事をされていたことへの不信感か。
「朱音、私たちは大丈夫。何があっても、私はずっと朱音の味方だから……」
「うん。でも、……心配ないと思うよ」
美桜が不思議そうに眉を寄せた。
「愛ちゃんも神田さんも、そんなことを理由に私たちを遠ざけるような人じゃないと思う。今はただ、受け止める情報が多すぎただけだよ」
「そうかな……。そうだといいけど」
俺たちは繋いだ手を離さないまま、しばらくの間、静かな時間を共有した。
再び扉が勢いよく開き、今度は聞き慣れた、しかし少しだけ怒気を含んだ声が響く。
「……また、無茶をしたわね。朱音」
現れたのは、施設職員の橋本千夏さんだった。呆れ顔でカーテンを開けた彼女の眼差しは、心配と叱咤が入り混じっている。
「千夏さん、ごめんなさい……」
「はぁ……全く。自分の身体のことを考えなさいって言ったはずよ。電話であなたの名前が出るたびに、私の心臓が止まりそうになるんだから」
返す言葉もない。俺はもう、平謝りするしかなかった。その後、美桜にも飛び火して、2人して厳重注意を受ける羽目になった。
俺たちは千夏さんに付き添われて保健室を出た。
廊下には、神田さん、梨花、そして愛ちゃんの姿があった。
愛ちゃんは俺の顔を見るなり駆け寄り、美桜が制止するよりも早く、俺の両手を力いっぱい握りしめた。
「朱音ちゃん……本当に、気づかなくて。ごめんね……!」
彼女の大きな瞳から、止めどなく涙が溢れ出した。
「朱音ちゃんが、普段からこんなに辛い思いをしていたなんて。心臓のことも、それ以外のことも……何も知らないで、私、頼ってばかりで。あんなに身体を張って私たちを助けてくれたのに、私……っ」
「私もよ。朱音ちゃんに甘えてばかりで、自分の不注意のせいなのに……ごめんなさい」
泣きながら頭を下げる愛ちゃんと神田さんに、俺の目頭も熱くなる。
元警察官としての理性よりも先に、朱音としての感情が溢れ出していた。
「……ううん。私は、みんなが無事でいてくれるのが、一番嬉しいよ」
誰からともなく歩み寄り、俺たちは人目も憚らず、廊下で抱き合って泣いた。隠し事のない、本当の意味で繋がった瞬間だった。
帰り道、千夏さんの車の後部座席にて。
「良い友達を持ったわね、朱音」
「……うん。私の、自慢の友達だ」
バックミラー越しに微笑む千夏さんに、俺は俺として答えた。
ふと横を見ると、美桜が少しだけ唇を尖らせて窓の外を見ている。愛ちゃんたちと抱き合っていた時間が長すぎたせいか、少し嫉妬しているのかもしれない。
俺は、繋いだままだった彼女の手に、ぎゅっと力を込めた。
美桜が驚いたようにこちらを向く。
「……でも、美桜は美桜だよ」
千夏さんには聞こえないほどの囁き声。
12歳の少女の身体に、俺の魂が最適化され始めているのか。それを堕落と呼ぶべきか、適応と呼ぶべきか、今の俺には判断がつかない。
美桜は一瞬、目を見開いた後、夕暮れ時の光に包まれて、世界で1番優しい微笑みを返してくれた。




