第52話 チェックメイトの残像
俺は、隠しカメラを元のコンセント位置に戻す体裁で、再び机の下へと潜り込んだ。そのわずかな隙を突き、あらかじめ用意していた「本来のマイクロSDカード」へと素早く差し替えた。
再び立ち上がり、手元にある体育教師の端末を操作する。
「何をするつもりですか?」
校長が不審げに問いかけてくる。俺は可憐な教え子としての表情を崩さず、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「今から、このカメラと端末を同期させて、私たちが中身を確認します」
視線を上げると、体育教師は腕を組み、仁王立ちでこちらを睨みつけていた。平静を装ってはいるが、組んだ指先が微かに白んでいる。焦燥が漏れ出していた。
「まずは、Wi-Fiをカメラに接続します」
設定画面を開き、SSID『g100gt-ac』を選択。接続ボタンをタップする。数秒のラグの後、アンテナピクトが液晶の右上に点灯した。リンク完了だ。
そして、最後の難関。秘匿アプリ『Advance Storage』のパスワード突破。これこそが、カメラを制御しデータを秘匿する「城門」に違いない。
アイコンをタップすると、冷徹に4桁の数字を要求するダイアログが表示された。この手の人間は、初期設定を使い続けるか、あるいは安易な数字に頼る傾向がある。
『0000』――パスワードが違います。
『1111』――パスワードが違います。
『2222』――パスワードが違います。連続して間違えたため、あと2回で10分間のロックがかかります。
駄目だ、甘かったか。だが、焦るな。俺は元警察官だ。必ず、この壁を穿つ道はある。
「田中さん、大丈夫……?」
校長が心配そうに顔を覗き込んでくる。ビニール手袋の中は嫌な汗で湿り、肌に張り付いている。俺は端末を構えたまま、視線の端に見える体育教師の全身を意識した。
『1』
1桁目を入力した瞬間、奴の組んだ腕に微かな力が入った。
『1』
もう一度同じ数字を入れると、不意にその力が抜ける。これじゃない。
『2』
入力を消し、別の数字を叩く。その瞬間、奴の右前腕の筋肉がわずかに盛り上がった。
『3』
腕の緊張は持続している。
『4』
最後の1桁を打ち込んだ瞬間、画面が切り替わり、『ライブビュー』『再生・検索』『設定・管理』というメニューが躍り出た。
肺に溜まっていた熱い息を吐き出す。
自動車警ら隊のベテランから叩き込まれた「反応の観察」だ。対象が隠し持っている違法物件に近づいた際に見せる、無意識の筋緊張。それは嘘をつけない。
俺はまず、ライブビューを選択した。
画面には、今まさにこの場にいる俺たちの足元がリアルタイムで映し出される。校長の個性的な履物も鮮明だ。
「このカメラの映像に映っているのは、私たちの足です。先生のスマホにリアルタイムで届いています。なぜ、こんなアプリが先生のスマホに入っているのでしょうね」
「え、あ……」
体育教師は言葉を失い、顔面を蒼白に染めてパニックに陥っている。俺は構わず『再生・検索』をタップし、過去のログを遡った。
そこには、100を超える動画ファイルが整然と並んでいた。動体検知センサーによる自動録画だろう。無数の生徒たちの足元が、悪意の檻に閉じ込められている。
その中から、昨日の日付の最新ファイルを再生した。
サムネイルは、俺の足元だ。椅子が引かれる音とともに、スカートの奥が露骨に狙い澄まされている。今履いているのはスカートパンツだから決定的な部分は映らないが、見られてはいけない場所を覗き見られているという事実に、猛烈な羞恥と嫌悪が込み上げてくる。
その後は、俺たちの他愛もない女子トークが音声とともに流れ続けた。
「ふむ……。先生、これはどう説明するつもりですか?」
「いや、その……」
校長の重苦しい問いに、奴はしどろもどろになっている。流石に、もう諦めるだろう。
「そ、そうだ! これは仕組まれたんだ! 嵌められたんだよ!」
「どういうことですか?」
「こいつらが、このカメラを使って俺を陥れようとしてるんだ! 職員室に忍び込んで、勝手に動画を送り込んだに違いない!」
100ギガバイトを超える膨大なデータを、短時間で転送するなど物理的に不可能だ。矛盾だらけの、見苦しい足掻き。だが、奴の矛先はさらに歪んだ方向へと向けられた。
「こいつらは……施設の子供なんだろ! 田中に、お前、栗原と言ったか。お前ら、こんなことしてタダで済むと思うなよ! どこの馬の骨かもわからんガキが!」
「やめなさい!」
校長の怒声が響く。
美桜が悲しげに顔を伏せ、俺は奥歯を噛み締めた。俺自身のことはどう言われても構わない。だが、施設で共に生きる仲間を、その出自ゆえに侮辱することだけは、元警察官としての、いや、一人の人間としての矜持が許さない。
「し、施設って……?」
隣で愛ちゃんが、信じられないものを見るような目で俺たちを見ていた。
校長は毅然とした態度で言葉を重ねる。
「施設に身を寄せているからといって、人間性まで否定される筋合いはありません。軽率な発言は慎んでください」
「だってそうだろう! 気に食わない教師を追い出そうとする、悪魔のような子供だ!」
奴はこの差別的な攻撃を、唯一の逃げ道だと思い込んでいるらしい。
俺は無言でスマホを操作した。
再生リストを一番下まで――この端末に記録された、最初期のログまでスクロールする。そして、そのファイルをタップした。
画面に映し出されたのは、まだ誰もいない、早朝の図書室。机の下の暗がりだ。
校長が、その画面を凝視する。
再生された映像の中で、画面を覆うような大きな手が現れ、カメラの画角を微調整した。レンズが上を向き、椅子の座面を捉える。
そして――。
設置を確認するため、カメラのレンズを至近距離で覗き込み、手元の端末でアングルをチェックする体育教師の顔が、画面一杯に映し出された。
「……あ、あぁ……っ!」
「先生。あなた……よくも、こんな……!」
校長の失望と怒りに満ちた声が響く中、体育教師はその場に、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。




