第51話 王手、あるいは絶望への導線
顔を上げると、そこには校長が立っていた。
廊下には、さっきの衝撃で弾け飛んだ体育教師のスマートフォンが転がっている。奴が手を伸ばすより早く、俺は痛む体に鞭打ってその端末を確保した。
「この……!」
体育教師が苛立ちを隠そうともせず、低く唸る。
「……何があったのですか。説明しなさい」
校長の峻烈な声が廊下に響く。俺は奪い返されないよう、スマートフォンを両手で固く握りしめた。
「朱音……田中さんが持っているのは、この先生のスマホです。その中には、盗撮の動画が入っています」
美桜が、震える声を抑えてはっきりと告げた。俺はまだ、心臓の鈍痛と激しい呼吸の乱れで、即座に言葉を紡ぐことができない。
「ち、違います! そんな事実はありません。田中が全校集会を抜け出し、職員室に無断侵入して私の私物を盗んだんです。私はそれを取り返そうと……」
体育教師は身振り手振りを交え、俺の「非行」をまくしたてた。
「とりあえず、場所を変えましょう。校長室で話を聞きます」
周囲を見渡せば、遠巻きに事の次第を見守る生徒たちの視線が集まっていた。これ以上の騒ぎは学校側も望まないだろう。校長、教頭、体育教師、そして美桜と愛ちゃん、俺。一行は沈黙のまま校長室へと向かう。
美桜と愛ちゃんは、俺を護衛するように左右を固めて歩いてくれた。繋がれた美桜の手から、彼女の不安と、それを上回る強い覚悟が伝わってくる。
校長室のローテーブルを挟んで、俺と体育教師が対峙する。その脇に、審判のように校長と教頭が立った。
俺は、アドレナリンが無くなったせいか強い倦怠感を感じ、高級そうな革張りのソファーに寄りかかりながら立った。
「さて。まずは田中さん。なぜ全校集会を抜け出したのですか?」
「……すみません。先生のスマホを確保しなければ、証拠の動画を消去されると思ったんです。チャンスは、このタイミングしかありませんでした」
校長は、品定めをするような鋭い眼差しで俺を凝視している。
「なぜ、盗撮が行われていると確信したのですか?」
俺は隠しカメラを発見した経緯を、論理的に、かつ冷静に説明した。そして、決定的な事実を付け加える。
「カメラは、図書室の窓際……いつも私が座る席だけを狙って固定されていました。あの場所に座るのは私だけです。そして、私のことを良く知っている先生で、私のあの日の所在を知っていて、なおかつ職員室にいたのは、この体育の先生だけでした」
「……言いがかりだ。飛躍しすぎている」
奴の反論を無視し、俺はあらかじめロックを解除しておいたスマートフォンを差し出した。画面にはまだ、鑑定の跡であるチョークの粉が薄く残っている。
校長はそれを受け取り、眉間に深い皺を寄せた。
「この偽装アプリの中に、データが入っています」
俺が『Advance Storage』のアイコンをタップする。
体育教師は諦めたように目を閉じ、深くうなだれた。……いや、違和感がある。
「これは……どういうことですか?」
校長の声に画面を覗き込む。そこには、非情にも4桁のパスワード入力を要求するダイアログが表示されていた。
2重ロックか。慎重な奴だ。
「パスワードは何ですか、先生」
校長の問いに対し、体育教師はゆっくりと顔を上げた。
その口角が、不自然に吊り上がっている。絶望に染まっていたはずの瞳に、嫌な光が宿った。
「……ああ、それですか。最近、変なウイルスに感染したみたいでね。勝手にパスワードがかかって、開くことも消すこともできないんですよ。本当です、困っていたんです」
見え透いた嘘だ。だが、この場でパスワードを吐かせなければ、立証は困難になる。
「田中。お前は機械に詳しそうだな。ウイルスなら仕方ない、そのアプリを消去できるか試してみろ。先生は消せなかったからやってみてくれ」
奴の言葉に、背筋が凍った。
消去すれば、中の動画データは2度と復元できない。「証拠隠滅」を、被害者である俺自身の手で行わせようという、極めて悪質な罠だった。
今はまだ、4桁の呪縛を解く鍵がない。
だが、もう1つの「物証」を突きつければ、この男の虚勢を剥ぎ取れるはずだ。
「校長先生。隠しカメラの設置場所まで来ていただけませんか? 証拠をお見せします」
「ふむ……分かりました。全員で行きましょう」
再び移動を開始する。体育教師は口元に不敵な笑みを浮かべているが、俺は感情を殺し、ただ「冷静に、冷静に」と脳内で反芻していた。
校長室を出ると、廊下の隅で神田さん、梨花、相澤くんが心配そうにこちらを伺っていた。俺は大丈夫だという意を込めて小さく頷き、一行の後に続いた。
図書室の前で、俺はポケットから本物の鍵を取り出し、扉に差し込む。
「は……? 鍵は壊れてるんじゃなかったのか」
体育教師が驚愕に目を見開く。俺は奴を冷徹に射貫き、淡々と答えた。
「隠しカメラが故障したと判断すれば、犯人は必ず図書室へ回収に来る。そう踏んで、あらかじめ本物の鍵は隠しておきました。返却したふりをして、キーボックスには別の部屋の鍵を掛けておいたんです」
「なっ……!」
体育教師が怒りに震え、拳を握りしめる。俺はその反応を無視して室内へ踏み込んだ。
「これが、隠しカメラです」
俺が指し示した先を、校長は机の下に潜り込むようにして覗き込んだ。
「ふむ……私にはただの充電器に見えますが……」
俺は持参したビニール手袋を装着し、慎重に粘着テープを剥がしていく。そして、マイクロSDカードが挿入されているスロットの蓋を外し、校長に提示した。
「ここに刻印されているのが、この端末固有のSSID――Wi-Fiの名前です。そして……」
俺は先ほど確保した体育教師のスマートフォンのネットワーク設定画面を表示させ、校長の目の前に並べた。
「このスマホには、先ほどと同じWi-Fiに接続された履歴が明確に残っています」
突きつけられた事実に、俺は体育教師を真っ向から睨みつけた。
「いや……たまたま繋がったんじゃないか? 先生はそんな設定、身に覚えがないぞ」
「このWi-Fiはステルス設定になっており、意図的に検索しなければ見ることすらできません。ましてや、この複雑な初期パスワードを手動で入力しない限り、接続は不可能です」
「いやあ、本当に心当たりがないんだ。ほら、最近はタッチするだけで繋がる機能もあるし、昔の設定が何かの拍子に残っていたのかもしれないな」
どこまでもシラを切り通すつもりらしい。
校長が困惑したように唸る。
「ううむ……私には判断がつきかねます。とりあえず、警察に通報して委ねるしかないかな」
確かに、警察の捜査権を介入させるのは正攻法だ。
だが、否認を続けたまま任意同行になれば、スマホ内のデータを遠隔消去されたり、Wi-Fiの履歴だけで「証拠不十分」とされるリスクが残る。ここで、奴の心を完全に折らなければならない。
「分かりました。では、言い逃れの不可能な『次の証拠』をお見せします」




