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第50話 剥がれ落ちた仮面

 指先が微かに震える。


 液晶画面に並ぶアイコンは一見、何の変哲もない。だが、俺の勘が網膜に引っかかる違和感を逃さなかった。


「……これか」


 ブラウザアプリ『Chrome』のアイコンが2つ並んでいる。片方の名称は『Advance Storage』。アイコンの隅、解像度がわずかに甘い。ブラウザを装った秘匿ストレージアプリだ。この殻の中に、奴の歪んだ欲望がデジタルデータとなって詰まっている。


 その時、背後で引き戸の滑車が鳴る音がした。


「――どうした。なぜ全校集会に出ていない」


 低く、湿り気を帯びた声。それはドアが開く音と重なって聞こえた。


 振り返ると、そこには体育教師の影が立っていた。逆光で顔は見えない。だが、背後にいる愛ちゃんの怯えた表情が、事態の異常さを物語っていた。


「あ、あの……朱音ちゃんが、気分悪いって言うから……」

「そうか。鈴木、お前は先に行け。田中は俺が保健室へ連れて行く」


 奴が1歩踏み込んでくる。そして、俺と目が合った。


 俺の手の中にある「それ」を視認した瞬間、教師の顔から教育者の仮面が剥がれ落ちるのを俺は見逃さなかった。それは怒りではない。喉元にナイフを突きつける者の、剥き出しの殺意だ。


「……なぜ、それを、持っている」

「……分かりませんか? 返せません」


 俺は41歳の声音を12歳の声帯に乗せ、あえて挑発的に笑ってみせた。奴の顔が醜く歪む。


「田中……いいから返しなさい。それは先生のスマートフォンだ」


 じりじりと、獲物を追い詰める歩調で近づいてくる。


「先生、なんでこんなに早く戻ってきたんですか? 回収にでも行くつもりだったんですか?」

「……お前には関係ないことだ」


 俺はスマホの画面を奴の方へ向けた。


「このアイコン、Chromeにそっくりですね。……いい趣味をしていらっしゃる」


 奴の喉が「ひゅっ」と鳴る。


「今から、中身を確認しに行くつもりだったんでしょう?」

「何を言っている。さっぱり訳がわからんぞ」


 あくまで白を切り通すつもりらしい。さらなる接近を阻むため、俺は後ずさりしながらスマホを胸元に抱え直した。


「カメラなら、さっき回収しましたから」

「は? だって図書室の鍵は壊れて入れなくなっているはずだ。嘘を――」


 言いかけて、奴が言葉を飲み込む。

 俺の心臓が警鐘を鳴らすように跳ね、鋭い痛みが走った。後ろで愛ちゃんが息を呑む。


「先生……私は図書室なんて、一言も言っていませんよ。場所、図書室だったんですね」

「この……舐めるなよ」


 その時、廊下の遠くから喧騒が響いてきた。全校集会が終わり、生徒たちが戻ってきたのだ。ふっと俺の気が緩んだ。


「返せッ!」


 その隙を突いて、巨体が弾丸のように突っ込んでくる。

 俺は一瞬遅れて横に跳び、奴の突進をかわした。今の身体でまともにぶつかれば命に関わる。逃げるしかない。


 駆け出した。


 数ヶ月ぶりに全力に近い速度を出した。驚くほど身体が軽く跳ねる。だが、それはアドレナリンによる一時的な麻痺に過ぎない。怒り狂った表情の奴が、すぐ背後まで迫る。


 俺はデスクを障害物にし、直角に曲がって距離を稼ぎながら出口の扉を目指した。愛ちゃんの近くへ行けば彼女を巻き込んでしまう。反対側のドアに辿り着き、勢いよく開け放つ。職員室を飛び出る際、髪に指先が触れた感覚があった。


 廊下へ飛び出す。


 心臓が内側から胸壁を叩き壊さんばかりに脈打っている。大丈夫だ、まだ動ける。


 背後から、質量の大きい足音が床を鳴らして迫る。


 だが、20メートルも進まないうちに足が止まった。視界がちかちかとし、肺が焼けるように熱い。こんな紙細工のような身体では、もう1歩も進めない。呼吸をするたびに、肺の中にガラスの破片を吸い込んだような痛みが走る。いつもに、半分も息が吸えない。


 その時だった。目前に1人の女子生徒が滑り込んできた。


「捕まって!」


 美桜だ。

 反射的に彼女の背中に手を回すと、美桜は俺を軽々と背負い、再び走り出した。振り返れば、愛ちゃんが必死の形相で教師の腰にしがみついている。


「離しなさい! 邪魔だ、どけ! 待て、待ってくれ、田中!」


 身を捩り、愛ちゃんを振りほどこうとする奴を置き去りに、美桜が廊下を駆ける。


「……なんで、美桜がここに」

「もう、朱音ったら着信に全然気づかないんだもん。あの教師が真っ先に体育館を出ていったから、様子を見に来たんだよ」


 本当に頼りになる相棒だ。美桜のぬくもりに安堵し、俺は残りの体重をすべて預けた。

 だが、背後から迫る足音は信じられない速度で距離を詰めてくる。いくら運動神経のいい美桜でも、俺を担いだままでは逃げ切れない。ハッ、ハッ、と彼女の呼吸も乱れ始めた。


「そ、そこを右に……っ」


 咄嗟に指示を飛ばした瞬間、俺の背中に奴の手が届いた。強引に背中を押され、バランスを崩した美桜とともに廊下へ転倒する。左半身を床に打ち付け、鈍い衝撃が走った。美桜も左手を擦りながら、すぐに立ち上がろうともがく。


「もう逃げられないぞ、田中」


 背後から、勝利を確信した奴の声が降ってくる。スマホが奪われてしまう。


「――そこで、何をしているんですか?」


 凛とした、年配の女性の声が廊下に響き渡った。

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