第43話 図書室のプリズム
夏が終わり、秋の気配が少しずつ混じり始めた頃。
放課後の図書室は、いつの間にか俺たちの「女子会」の定位置になりつつあった。窓から差し込む西日が、少し低くなったのを感じる。
今日は中間テストの返却日だった。
「マジで数学、赤点かと思って死んだよ~!」
神田さんが叫びながら、全教科のテストを机に放り出した。見れば、彼女の言う赤点ギリギリは65点。中学1年生のこの時期なら、平均より少し下といったところだろう。
「うわ、国語98点!? 神じゃん。すごっ」
愛ちゃんが隣で目を丸くしている。確かに、社会もかなりの高得点だ。神田さんは暗記系や文系には滅法強いらしい。
「国語だけは、なんか得意なんだよね~。ねえ、愛ちゃんはどうだったの?」
「うちは、今回はまあまあかなー」
そう言って愛ちゃんが出した答案は、どれも80点前後で安定していた。さすが、そつなく平均以上を維持している。
ふと見ると、机の端っこで梨花が小さくなって俯いていた。
「梨花はどうだった~?」
梨花はお世辞にも勉強が得意なタイプではなかった。以前はよく赤点を取って補習に呼ばれていたのも知っている。だが、その原因が彼女の過酷な家庭環境にあったことを、俺と美桜は身をもって知っていた。
梨花はおずおずと、全教科のテストを机に並べた。それを受け取った神田さんの顔が、一瞬で固まる。
「えっ、ちょっと待って。社会と理科が90点じゃん! 何があったの!?」
「えへへ……」
梨花の顔が、パッと明るくほころんだ。
「最近ね、塾に行かせてもらってるの。そこで勉強、楽しくなっちゃって」
「えー! うちも塾行ってるけど、マジで行きたくないもん。梨花、すごすぎ」
照れくさそうに笑う梨花の姿は、どこか誇らしげに見えた。
数学などの論理的な科目は68点とまだ苦戦しているようだが、努力が結果に出やすい暗記科目は軒並み90点台に乗せている。環境さえ整えば、彼女はこれだけの力を発揮できるのだ。
「それでさ~、朱音ちゃんはどうだったの?」
やはり、こちらに飛び火してきた。俺は内心で苦笑いしながら、観念してカバンから答案を引っ張り出した。
「はあ!? 天才かよ……っ!」
結果を見た瞬間、驚愕の声が上がる。
数学98点、理科も同点。他の教科もほとんど90点台だ。中学生二周目なのだから当然ではある。ちょっと復習すれば大体は思い出す。
本当は全教科満点を取れるのだが、最近は保護者の千夏さんにも怪しまれているため、あえて数問だけ間違えて「将来を期待される優秀な生徒」を演出したつもりだった。だが、これでもやりすぎだったかもしれない。
「あ、美桜はどうだった?」
「え、あはは……。私は、大丈夫だよ」
美桜の返事が明らかに動揺している。元警察官の勘が、彼女の隠し事を敏感に察知した。
「美桜ちゃんも見せてよー。一人だけ隠すのズルいー!」
愛ちゃんに逃げ道を塞がれ、美桜がゆっくりと答案を差し出した。数学45点、理科51点。他も60点から70点の間を彷徨っている。どうやら彼女は理系が苦手なようだ。
一気に、その場の空気がお通夜状態になった。
「……み、美桜ちゃんはさ、体育とか超得意じゃん?」
「うぅ……」
流石の愛ちゃんでも、今のフォローは苦しすぎる。
「美桜、私が教えるから大丈夫だよ」
「……うぅ、お願い……」
実はこれまでも何度か数学を教えたことがある。だが、美桜は一度こうだと思い込んだ計算式があると、後から間違いを修正できなくなる癖がある。応用が極端に苦手なのだ。教え方を抜本的に変えないといけないなと、俺は次なる教育計画を練り直すことにした。
「朱音ちゃんが教えてくれるなら完璧だね!」
この重い空気をどう動かすか。ふと、さっき梨花が返却棚から持ってきたまま机の端に置いていた一冊の本に目をやった。
「……みんな見て見て。この本、面白そうじゃない?」
近くの棚から一冊の図鑑を抜き取った。『誕生花と花言葉』という、いかにも女子中学生が好みそうなキラキラした装丁の本だ。
「わあ、可愛い! 見よ見よ」
愛ちゃんがさっそく食いついてくれた。
「自分の誕生日のページを開いて、書いてあることが今の運勢なんだって。梨花の誕生日はいつ? 私が調べてあげるね」
俺は梨花の方を向き、小首をかしげて可憐な少女の笑みを浮かべて見せた。
「えっ、あ……。私は、3月だよ」
「おっ、3月だね。……あ、これだ。スイートピー。花言葉は……門出と優しい思い出。梨花にぴったりじゃん! すごーい!」
パチパチとはしゃいで拍手する。俺の目の前で梨花が笑った。
門出か。あの過酷な日常から抜け出した彼女には、これ以上ない言葉だと思う。
「次は私! 私もやってー!」
「神田さんは……あはは、これ面白いよ。ヒマワリだって。花言葉は、あなただけを見つめる。神田さん、意外と情熱的なんだね?」
「ええーっ! マジで!? 誰を見つめればいいの~!?」
神田さんが顔を赤くしてジタバタする。その様子に、ようやく美桜も声を漏らして笑い始めた。
「美桜のもやってみるね」
俺は美桜の誕生日のページをめくった。
「……あ、これだ。ブルースター。え、なになに? 花言葉は……信じ合う心、だって」
「わあ、素敵だね……」
俺は美桜に本を渡し、美桜はその言葉を噛み締めるように、そっとページを撫でた。
「……信じ合う心。……うん、いいかも」
俺の方を見て浮かべた、美桜の優しい笑顔。
その光景に、不意に心臓がトクンと跳ねた。最近、今まで以上に彼女の笑顔が愛おしく感じてしまう。今の俺は、一体どんな顔をして彼女を見つめているのだろうか。
「あ! 朱音ちゃんのも見せてよ! 主役が最後だよっ!」
「えっ、私? 私のはえーっと……あった。……あ、これ……カスミソウだ」
「わあ、可愛い! 控えめだけど、どこにでも似合うお花だよね。朱音ちゃんみたい!」
梨花が嬉しそうに言う。
カスミソウの花言葉は「清らかな心」。
元警察官という、汚れ仕事も厭わなかった「俺」には一番縁遠い言葉だ。だが、この平和な図書室で、こうしてみんなと笑っている「朱音」なら、いつかそんな風になれるのだろうか。
「ねえねえ、さっきの花言葉……信じ合う心と清らかな心。やっぱり、あの夏休みの宣言を聞いた後だと、説得力が違うよね~?」
愛ちゃんがニヤニヤしながら覗き込んできた。
「えっ? あ、あはは……。愛ちゃん、まだあのこと言ってるの?」
俺は頬を染め、わざとらしくパタパタと手で顔を仰いだ。
あのクレープ屋の前で、美桜が「そうだよ、文句ある?」とキッパリ言い放ったあの瞬間。あの時から、俺たちの関係は周囲の公認になったのだ。
「だってさぁ、あの時の美桜ちゃん、マジで男前だったもん! 梨花ちゃんもそう思わない?」
梨花も優しく微笑んで頷く。
「うん。……すごく、かっこよかった。二人が一緒にいるのを見ると、私もなんだか嬉しいよ」
「梨花まで……。もう、みんなして恥ずかしいよ」
俺は隣の美桜に助けを求めようとしたが、当の美桜はブルースターのページを見つめたまま、耳まで真っ赤にして俯いていた。
「……でもさ、二人の雰囲気って本当尊いな~。でも、二人とも気をつけてね。あんまりベタベタしてると、先生とか周りの人に目をつけられちゃうから」
愛ちゃんの言葉に、俺は少しだけ真面目な顔をして頷いた。
「……うん、ありがとう。気をつけるね」
俺はみんなを見つめ、神妙に頷いてみせた。
「よーし! それじゃあテストお疲れ様会、行っちゃう? 今日は奮発して、またあのクレープ屋さんの……」
「あ! 神田さん、ちょっと待って」
神田さんの提案を、俺は慌てて遮った。
脳裏をよぎるのは、あの夏の日のいちごチョコクッキーアイスブリュレだ。あの一撃で俺の財布は死にかけたし、何より、塾代などで家計に余裕がないはずの梨花に、また出世払いという名の無理をさせるわけにはいかない。
「……あのね、今日は公園に行かない? 河原の銀杏が、すっごく綺麗に色づいてるの、さっき見えたから」
俺はリュックから、千夏さんに持たされた個包装のチョコを取り出してみせた。
「これ持ってきたんだけど、私一人じゃ食べきれないから。みんな、手伝ってくれると助かるな。美桜も、昨日買ったクッキー、カバンに入ってたよね?」
「あ、うん! 公園かあ。それいいかも……朱音、ナイスアイディア」
美桜が俺の意図を察して、そっと微笑んでくれた。
「私もグミ持ってるし、みんなで食べよう!」
「梨花はどう? 外の空気、気持ちいいよ?」
梨花は少し驚いたように瞬きをして、それから本当に嬉しそうに頷いた。
「……うん。行きたい。……ただ歩いて、お花とか景色を見るの、すごく楽しみ」
「じゃあ、決まりだね! 図書室をお片付けして……行こう!」
俺は一度深呼吸をして、ゆっくりと椅子を引き、出入り口に向かって歩き出した。
「いたっ」
勢いよく立ち上がろうとした神田さんが、床に置いていたバッグに足を取られて転んだ。
「大丈夫?」
梨花が駆け寄る。
「いててー。大丈夫」
そう言って、梨花の手を借りて立ち上がろうとしたところ。
「ん? あれ何?」
神田さんは俺たちが座っていた机の下を、怪訝そうに凝視していた。




