第42話 灯りが入る家
翌日。
梨花さんの家には、市役所から派遣されたヤングケアラー専門の相談員が異例の早さで入った。
その数日後には、ヘルパーが派遣され山のようなゴミが運び出され、床のベタつきが消え、窓が開けられる。それは、梨花という少女が背負っていた「大人の責任」という重荷が、ようやく本来あるべき場所へと、適切に分配され始めた瞬間だった。
梨花さんの家でのあの一夜から、数週間経った夏の午後の陽光が、児童養護施設の庭を眩しく照らしている日。俺と美桜がホームの縁側で項垂れていると、見覚えのある、けれど前とは決定的に違う五つの影が近づいてきた。
「あ……朱音ちゃん! 美桜ちゃん!」
梨花さんの声が弾んだ。ボサボサだった髪は綺麗に整えられ、汚れの目立っていた服は清潔なものに変わっている。何より、焦点の合わなかったあの瞳に、今はっきりと「意思」の光が宿っていた。
その後ろには、少し緊張した面持ちのお母さんと、梨花さんの服の裾を掴んだ幼い弟たちが三人。
「……こんにちは。今日は、ちゃんとお礼を言いたくて」
お母さんは、俺たちの前に来ると深く、深く頭を下げた。スーパーのエプロン姿ではなく、質素だが整った私服姿。その顔色は以前の土気色が嘘のように消え、人間らしい血色が戻っている。
「千夏さんから聞きました。お掃除のヘルパーさん、入ったんですよね?」
俺が声をかけると、お母さんは少し照れくさそうに、けれど晴れやかな顔で頷いた。
「ええ。最初は、他人を家に入れるなんて怖かったんだけど……。来てくれた方が本当に手際よくて、私たちと一緒にゴミを片付けてくれたの。……床があんなに白かったなんて、忘れてたわ」
例の2024年改正法に基づいた「伴走型支援」が、驚くほどの速さで機能し始めたらしい。コーディネーターが間に入り、お母さんのスナックの仕事を減らすための追加の公的扶助の手続きも、同時並行で進んでいるという。
「……みんなは、仲良くしてる?」
兄弟喧嘩は大丈夫か聞いてみたところ、梨花さんは一瞬だけ顔を赤らめたが、すぐに隣の弟の頭を撫でながら笑った。
「うん。……夜、お母さんがお家にいてくれるようになったから。ヘルパーさんが教えてくれた簡単な料理、二人で作ってるの。お刺身より、お母さんの作ったお味噌汁の方が美味しいって、この子たちも喜んでる」
弟たちが、施設の広い敷地を駆け出していった。かつて梨花が彼らを「静かにさせるため」に悩んでいたとは考えられない、無邪気で騒がしい笑い声。
――ああ、そうだ。子供ってのは、本来これくらい五月蝿いものだよね
俺はその光景を、元警察官としてではなく、ただの田中朱音として、温かい気持ちで眺めていた。美桜が俺の隣で、そっと耳打ちする。
「……良かったね、朱音。……私たちの服、汚した甲斐があったよね」
「……うん、そうだね」
俺は、今着ている別の真っ新なシャツの袖を撫でた。清美さんからもらったあの白ブラウスは、千夏さんが「勲章ね」と言って丁寧に洗濯してくれたが、まだ少しだけ、あの夜の脂っぽい臭いが残っている気がする。けれど、それは嫌な記憶ではなかった。
……もっとも、清美さんにそれを見つかったときには、めちゃくちゃに怒られたけれど。
「……お母さん。これから、大変なこともたくさんあると思います。でも、もう一人で背負わなくていいんです。市役所の人も、私たちも、味方ですから」
俺がそう告げると、お母さんの目に涙が溜まった。
「……ありがとう。本当に、ありがとう。……あなたたちみたいな子がいてくれて、救われたわ」
ふと、施設の玄関ホールからこちらを見つめる視線に気づいた。千夏さんだ。
彼女は微笑んでいたが、その眼鏡の奥の瞳は、相変わらず鋭く俺を観察している。
「12歳の少女が、なぜこれほどまでに行政のシステムを熟知し、大人を説得できるのか」という疑問の答えを、彼女はまだ諦めていないのだろう。
梨花さん一家が、何度も振り返りながら帰路につく。
「法の灯火」が照らし出したのは、ゴミの山だけではなかった。それは、一度壊れかけた家族が、再び「家族」として歩き出すための、細い、けれど確かな道だった。
夏休みの最後の日。俺たちは、街の外れにある神社の夏祭りに来ていた。
立ち並ぶ屋台の灯りと、どこか切ない祭囃子の音。浴衣姿の愛ちゃんと神田さんがはしゃぎ、その後ろを俺と美桜、そして梨花さんが歩く。
「ねえ、あそこのアイス屋さん、美味しそうだよ!」
梨花さんが、自分から声を上げた。一ヶ月前、クレープ屋の前で足が止まっていた彼女の姿は、もうどこにもない。彼女の手には、お母さんから「お手伝いのご褒美」として貰った、自分の財布が握られていた。
「すみません、アイスください!」
みんなそれぞれの好みを選んで注文していく。梨花さんもバニラ味を選んで、自分の小銭を並べて会計を済ませる。手渡されたのは、何の変哲もない、けれど今の彼女にとってはどんな宝石よりも輝いて見えるバニラアイスだった。
「あ、朱音ちゃん。一口食べて?」
梨花さんは、俺にアイスを差し出した。俺は、その真っ白な冷たさを一口、掬い上げる。
――ああ、甘くて美味しい
あの時、ゴミ屋敷の万年床の上で感じた重苦しい沈黙や、鼻を突く異臭。それらを全て、この一瞬の冷たさが洗い流してくれるような気がした。梨花さんは俺の反応を見て、満足そうに自分のアイスを頬張る。
「……梨花、鼻にアイスついてるよ」
「えっ、うそ、どこ!?」
神田さんの指摘に慌てる梨花さんを見て、愛ちゃんと美桜が笑う。この何気ない、中学生らしい騒がしさ。守りたかった「平穏」という名の正体が、今、ここにある。
「朱音。……楽しかったね、今年の夏休み」
美桜が、人混みの中で俺の指先にそっと触れた。俺のブラウスは、もうあの夜の汚れは一つも残っていない。清美さんが丁寧に洗ってくれた通り、真っ白なままだ。
「……うん。色々あったけど、楽しかった」
夜空に、一発の大きな花火が打ち上がった。轟音と共に広がる光の輪を見上げながら、俺は思う。
俺がこの身体になった意味は、きっと、この光景を「当事者」として守るためにあったのだと。
梨花さんの横顔が、花火の光に照らされていた。




