第41話 白いブラウス
夜。
団地の狭い廊下に、場違いなほど毅然とした足音が響いた。現れたのは、息を切らせた千夏さんだった。彼女は玄関に足を踏み入れた瞬間、その「異臭」と「地層」に一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐにプロの顔に戻った。
「……朱音さん、美桜さん。よく電話してくれたわね。あとの判断は私に任せて」
俺は、千夏さんにこの家の現状を伝えた。
そして、子ども・若者育成支援推進法にて定められた「訪問型伴走支援」が必須であることを。
俺は、母親を説得するために感情的になっていたのか、千夏さんに感情的に全てを話した。
千夏さんは、万年床で呆然としている梨花さんのお母さんの前に膝をついて視線を合わせた。俺が苦労してこじ開けた心の隙間に、千夏さんは淀みのない、それでいて温かい言葉を流し込んでいく。
「お母さん、梨花さん、初めまして。児童養護施設の職員の、千夏と言います。お母さん……今日はもう、頑張らなくていいですよ。今まで、本当にお一人でよく……」
その一言で、お母さんの強張っていた肩が、ふっと崩れた。プロによる「肯定」は、時にどんな特効薬よりも効く。
その間に、俺と美桜は千夏さんの指示で、最低限の「動線」を確保するためにゴミ袋を部屋の隅へ移動させる。カビの生えた弁当殻、得体の知れない液体の入ったペットボトル。清美さんに貰った白ブラウスは、もう見る影もなく汚れ、袖口には梨花さんの涙と部屋の脂が染み付いている。だが、この汚れこそが、俺が今日、この家族の「地獄」に共に潜った証のように思えて、不思議と嫌な気分ではなかった。
「……田中さん。ちょっと、いいかしら」
一通りの現状把握や子供の健康状態の確認を終えた千夏さんが、俺を廊下へ呼び出した。美桜が心配そうに俺の服の裾を掴んだが、俺は大丈夫だと頷き、千夏さんと向き合った。
「田中さん。……あなた、さっき私に何を言ったか覚えてる?」
「え……? 早く助けてほしい、って言っただけですけど……」
「いいえ。あなたは、私でも条文までは正確に覚えていない法律に触れて、伴走支援が必要なケースだって、明確な『専門用語』を使って私に指示を出したわ」
千夏さんの眼鏡の奥の瞳が、鋭く俺を射抜く。しまった、と思った。現場の緊迫感に当てられて、無意識に警察官時代の「報告」のトーンが出てしまっていたのだ。
「中学生がスマホで調べたにしては、出来過ぎている。……田中朱音さん。あなた、本当は何者なの? ギフテッド……なんて言葉じゃ、もう説明がつかない気がするんだけど」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。冷や汗が背中を伝う。元警察官が、現職の福祉職員に「事情聴取」されているような、奇妙な逆転現象。
「それは……その。私、梨花さんの家が、施設のみんなみたいになっちゃうのが、怖くて。必死に調べただけです」
俺は精一杯の「子供らしい必死さ」を声に乗せて答えた。千夏さんは長い沈黙の後、小さくため息をつき、俺の汚れた肩を優しく叩いた。
「……いいわ。今はこれ以上聞かない。でも、今のあなたに必要なのは、法律の知識じゃなくて『休息』よ。顔色が最悪。……美桜、朱音を連れて先に施設に帰りなさい。あとは私が、役所のコーディネーターと引き継ぐから」
「……はい。ありがとうございます」
俺と美桜は、夜の団地を後にした。帰り道、美桜が俺の手をぎゅっと握りしめてきた。背中には、千夏さんの視線が刺さっていた。
「朱音……。私、朱音がどこの誰でもいいよ。……今日、梨花さんを救ったのは、間違いなく『朱音』なんだから」
その言葉に、俺は救われるような思いだった。
消灯時間を過ぎた施設の寝室は、重苦しいほどの静寂に包まれていた。
深い夜の闇が、俺の心臓の鼓動を誇張するように耳元で響き渡る。
「……朱音、体調は大丈夫?」
同じベッドから、衣擦れの音と共に優しい囁きが届いた。狭いシングルベッドには、いつものように美桜が横たわっている。
俺がその中へ滑り込むと、美桜の柔らかな肌が熱を帯びて触れた。俺の心臓は、正常なリズムを刻むことを頑なに拒み、激しく跳ねている。
「うん。もう落ち着いたよ」
美桜の細い腕が、俺の首に回された。
彼女の鼻先が鎖骨のあたりに埋められ、湿った呼気が直接、肌を愛撫する。
「朱音の匂いに戻ったね」
美桜がそう呟き、俺の胸元に顔を押し当ててくる。
石鹸で何度も洗ったはずなのに、あの家に漂っていた「カビた絶望」の臭いが鼻腔にこびりついて離れなかった。だが、美桜の香りに包まれているうちに、あのどろりとした嫌な感覚は完全に消えていく。
本当に、良かったと思う。
あのまま梨花が心を壊す前に対処できて。そして母親も、最悪の結果を招く前に救い出すことができて。今はそれだけで、俺の荒んだ魂も救われたような気分だった。
「朱音は、朱音だからね」
そう言って、美桜は俺の髪をそっと耳にかけた。
彼女の指先は冷たくて、火照った肌には心地よい。
「朱音が何を知っていても、どのようなことをしても、私は信じてる」
「うん……ありがとう」
私は短く答えて、重なるように唇を寄せた。
暗闇の中で視界は意味をなさず、ただ二人の呼吸がシンクロしていく音だけが聞こえる。美桜の吐息が俺の肺を満たし、溶け合っていく。
……ああ、俺もだ。美桜をこの汚い世界の裏側には行かせたくない。そのためなら、俺は何でも……。
「……どこまでもついていくからね」
美桜は俺を強く抱き寄せた。
俺の心臓は一瞬、不規則に脈打った気がする。
まるで、心が読まれているようだった。
彼女からは生命力のような、希望のような、絶対的な安心感を感じられる。
俺たちは、言葉にならない対話を肌の接触だけで続けていた。それは梨花の家で見つけた「孤独の深淵」に対する、俺たちなりの切実な抵抗だったのかもしれない。
「朱音が……好きだからね。ずっと一緒だからね」
それは、明日の朝になればまた「ただの同級生」という仮面の下に隠される、二人だけの秘密の密約。
俺たちは寄り添い、どちらからともなく深い眠りへと落ちていった。泥のように重く、けれどクレープのホイップよりも甘い、恋人たちの眠りに。




