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第40話 法の灯火

「役所に行ったのは、いつですか?」


 俺は、崩れかけた女性と視線を合わせるように膝をついて聞いた。


 「もう五、六年前よ……。離婚した夫からの養育費が途絶えて、梨花の学童に行けなくなったくらいから……」


 「それからは、一度も行っていないんですか?」


 母親は顔をクッと上げて、俺を見てくる。目は疲れているが、そこには消えかけた火種のような怒りが宿っていた。


 「私が何もしていなかったと思うの? あの子たちのために土日も働いていたのよ! 行く時間なんて私にはなかったの! 前に行ったときも……」


 「就業していることを理由に、相手にされなかったんですよね?」


 母親は無表情のまま、射抜くような視線で俺を見ている。元生活安全課の警察官として、俺は何度も同じような家庭を見てきた。この人は自分の精神を限界まで削って家庭を支えている。誰も助けてくれない、誰も同情してくれない、私が頑張るしかない……。そう自分に言い聞かせ、心を鋼のように硬く閉ざしてしまっているのだ。


 「それに、親族に頼めないかとか、元夫への養育費の請求についても細かく説明を求められて、結局は門前払いになった……。記録だけ取られて、実質的には何もしてくれなかった。そうですよね?」


 母親は俺の目を凝視した。そこには驚きも同情もなく、ただ冷たい沈黙だけが流れる。その時、ガチャリとドアが開く音がした。


 「今日ね、今日ね! 体操で逆立ちできたんだよ~!」


 何人もの子供たちの声が重なり、暗く澱んでいた部屋が一気に騒がしくなる。リビングには梨花を含めて、二人の子供が顔を出した。年齢的にはほとんど年子のようにも見える。子供たちは俺たちを見てはしゃいでいたが、梨花によってすぐ別の部屋へと連れて行かれた。


 梨花はすぐに戻ってくると、母親の元へ駆け寄った。  「お母さん、大丈夫……?」


 母親は、梨花の細い手を無言で握り返すだけだった。


 「お母さん、梨花さん。聞いてほしいことがあるの」


 俺は、静かに言葉を切り出した。


 「梨花さんの今の状況は、『ヤングケアラー』という状態です。実は2024年に法律が制定されて、国や自治体から手厚い支援を受けられるようになったの」


 母親は何も言わない。梨花も、縋るような目で下を向いた。


 「私は当然のことをしているだけ。市役所には言いたくないの……。児童相談所に連れて行かれたく……」


 そこまで言って、梨花はさっきの俺たちの告白を思い出したのか、慌てて口を抑えた。


 「うん、大丈夫だよ。この法律は自治体によって差はあるけど、梨花さんみたいな方を助ける法律です。この法律のおかげで、学校で使う文房具や給食費、行事にかかるお金なんかも支援が受けられるようになるの」


 梨花が、弾かれたように見てくる。


 「それに、ヘルパーさんが無料か、すごく安い料金で来てくれるようになる。お掃除や下の子たちの面倒を見てくれるから、梨花さんの負担もずっと減るはずだよ」


 梨花の瞳が、大きく見開かれた。


 「学校の先生にも情報は共有されるから、梨花さんの勉強や宿題を優先的に見てくれるようになるし、遅れている分を取り戻すために塾にだって行けるんだよ」


 「でも……そんなの、役所に行って色々な資料を集める時間なんてないよ」


 「大丈夫。この制度は、役所の人が自宅まで来てくれて、相談に乗ってくれるから。梨花さんの家庭のように、生活がいっぱいいっぱいの人のために作られた法律なんだよ。以前のような対応は絶対にされないから、安心して」


 今度は母親も、ゆっくりと顔を上げた。


 「下の子たちの保育料も、子供が二人通っていて今の収入なら全額免除になるはずです。今まで無理してスナックで稼いでいた分を、そのまま子供たちと過ごす時間に充てられる」


 母親の、丁寧に塗られた口紅がついた唇が、微かに震えだした。


 「で、でも……」


 「お、お母さん。私、朱音ちゃんの言う支援を受けたい。お母さんと一緒にいたいよ……っ」


 梨花の目からは、大粒の涙が溢れていた。


 「でも、ダメだった時、本当に嫌になるわよ……」


 俺は、母親の荒れた手をそっと握った。


 「大丈夫です。それに……そうすれば、梨花さんが万引きをしなくて済むようになります」


 母親の目が見開かれた。張り詰めていた何かが、音を立てて千切れた。そこからはもう、止まることのない涙が幾筋も滴り落ちていった。


 「……助けて。……私、もう、どうしたらいいの分からないの……」


 母親の口から漏れたのは、祈りのような、あるいは断末魔のような掠れた声だった。俺はその震える肩にそっと手を置き、隣で涙を流す美桜に視線で合図を送った。


 「梨花さん。……今日、お母さんは仕事を休みます」

 「え、でも……お店に言わないと……」

 「電話だけお願いします。……お母さん、今日はもう、しばらく休んでいてください。今から、プロの人を呼びますから」


 俺はポケットからスマホを取り出し、短縮ダイヤルを押した。相手は、児童養護施設の職員・千夏さんだ。


 『はい、田中さん? どうしたの?』


 受話器から聞こえる冷静な大人の声に、俺は元警察官としての、迷いのないトーンで答えた。


 「……千夏さん。至急、支援が必要な家庭があります。場所は追って送ります。――今日中に、大人の『プロ』の力が必要です。協力をお願いします」


 『え、あ。え? 今日は非番なんだけど……』


 「お願いします。千夏さんしか頼れないんです。それに、以前困ったときには頼ってって……」


 『……分かった。今すぐ行くから。詳しい話は後で聞くわ』


 窓の外では、日が落ちてきている。夜の街は相変わらず無関心に輝いている。この地層のようなゴミに埋もれた部屋に、ようやく「法」と「福祉」という名の、小さくとも消えない灯火が灯った。


 梨花さんの震える手が、俺の汚れたブラウスをもう一度、強く握りしめた。


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