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第39話  砂上の楼閣


 ――カチャリ、と無機質な金属音が、異臭の立ち込めるリビングに響いた。


「ただいま、梨花。ごめんね、遅くなっちゃって……。すぐ夜の方に行かなきゃなんだけど、ご飯まで少しだけ横にならせて……」


 ゴミの山をかき分け、一人の女性がリビングに入ってきた。梨花さんのお母さんだ。

 スーパーの制服であろうエプロンはあちこちが汚れ、髪は湿り気を帯びて顔に張り付いている。その瞳の下には、消えない刺青のように深いくまが刻まれていた。彼女は俺たちの存在に気づくと、幽霊でも見たかのようにその場で硬直した。


「……え? あ、あの……梨花? 誰、この子たち」


 彼女の視線が、俺の泥と埃に汚れた白いブラウスに止まる。まともな世界から来たはずの少女が、自分たちの地獄の泥濘ぬかるみに足を突っ込んでいる。その事実が、彼女の中に眠っていた薄氷のような自尊心を粉々に砕いたのが分かった。


「お、お母さん……あの、この人たちは……」

「……帰って!!」


 母親の叫びは、怒りというよりは悲鳴に近かった。


「何よ……見世物じゃないわよ! 梨花、あんた友達なんて呼んで……こんな、こんな家、見せて……っ!」


 彼女は狂ったように、足元のコンビニ弁当の殻を蹴り飛ばした。だが、その勢いでよろけ、荷物の山に突っ込む。バサバサと崩れ落ちる雑誌の束。舞い上がる埃。


「お母さん!」


 美桜が、倒れた母親に駆け寄ろうとした。

 

「触らないで! 汚れるから……あんたたちみたいな綺麗な子が、うちにいていいわけないでしょ!」


 俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。悪臭と、絶望の熱気。五階まで階段を登ったツケが、今さら酸素不足となって脳を焼く。視界がチカチカと明滅する。倒れそうになる俺の肩を、美桜が背後から力強く支えてくれた。


 ああ、そうか。この人は加害者じゃない。


 俺は激しい動悸を堪えながら、床に這いつくばる母親をじっと見つめた。刑事の頃、何度も見てきた。自分を犠牲にして、ボロボロになりながら、それでも結果として子供を追い詰めてしまう「善意の自滅者」だ。


 この人は、梨花さんを愛している。愛しているからこそ、自分の無力さに耐えられず、その重圧を梨花さんに無意識に預けてしまっているのだ。


「……お母さん。落ち着いてください」


 俺は美桜に支えられながら一歩前に踏み出した。声が震えないよう、元警察官としての腹の据わったトーンを意識的に引き出す。


「私たちは、梨花さんを笑いに来たんじゃありません。……梨花さんが、もう一人じゃこの家を支えきれなくなって、独りで犯罪に手を染めてまで家族を守ろうとした。その結果を、話しに来たんです」


 犯罪、という言葉に母親の身体がビクンと跳ねた。


「梨花が……犯罪? 何言ってるの、そんな……」

「お刺身です。……梨花さんは、お腹を空かせた弟さんたちのために万引きを繰り返していました」


 俺は、冷蔵庫を指さした。その中には、美桜がパピコを諦めて支払った保冷剤の入った刺し身が入っている。


「お母さんは、頑張ってる。死ぬ気で働いてる。それは分かります。……でも、あんたのその『頑張り』の影で、梨花さんの人生が今、音を立てて崩れようとしてるんです」


 俺は汚れきったブラウスの袖で額の汗を拭い、真っ直ぐに彼女の目を見た。


「……助けて、って言ってください。お母さんも梨花さんも、そして兄弟も、みんな崩れてしまいます」


 お母さんは、立ち上がりよろよろと万年床に座った。


「あなたに何が分かるのよ。知ったようなこと言わないで」

「お、お母さん、朱音ちゃんたちは……」

「梨花! あなたは保育園に迎えに行ってちょうだい」

「で、でも……」

「行ってちょうだい」


 梨花は俺の手を一度強く握ってから、玄関に向かった。お母さんは、ただ俯いて黙ったままだ。


「全部、私が悪いんでしょ。私は何も出来ないんだから」

「そんなことないです。お母さんの梨花さんに対する愛情は、確かにあります」

「愛情だけでお腹が満たされるの? 家が綺麗になるの? 私が子供の頃も、梨花と同じように家の手伝いを何でもしたわ。母も離婚してシングルだったから……」


 その言葉に、俺の胸の奥がチリりと焼けた。

 負の連鎖。警察官の時、現場を回れば嫌というほど突きつけられた現実だ。親から子へ、絶望というバトンがこの狭い団地の一室で、また次の走者に渡されようとしている。


「梨花には、申し訳ないと思ってるの。本当は私と同じ道を歩ませたくないって思ってる。でも、しょうがないじゃない」

「そんなことないです。色々と支援があるから……」

「私だって市役所に何回も行ったよ! 分かったように言わないで!」


 母親が床を叩いて叫ぶ。その指先は荒れ、爪の間にスーパーの品出しでついたであろう汚れがこびりついていた。もはや顔を上げる気力も無いのだろう。この人ももう、限界なのだ。生活という荒波に呑まれ、いつ事切れてもおかしくない。


 母親はベッド脇にあるポーチから一本の口紅を取り出した。

 そして震える手で、鏡を見ることもなく、ただ機械的にその唇へ色を引き直した。

 

 それは、これから始まる「夜の戦い」に向かうための、ひどく不格好で、痛々しい儀式に見えた。

 沈黙する室内に、古びた冷蔵庫のモーター音だけが、不快なほど大きく響いていた。


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