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第38話 壊れた天秤

 万年床の上に座り込んだ梨花さんは、力なく笑った。その瞳にはもう、涙を流すだけの気力すら残っていないように見えた。


「……ねえ、朱音ちゃん。ここ、汚いよね」


 梨花さんは、カビの生えたコンビニ弁当の殻を、汚れた指先で部屋の隅へ移動させる。


「本当は、私が片付けなきゃいけないの。お母さんは私のために夜中まで働いてくれてるのに……。わかってるのに、もう無理なの。体が石みたいに重くて、動かないの」


 これは本人の怠慢などではない。養育不能の環境崩壊だ……。梨花自身が、深刻な抑うつ状態に陥っている。壊れかけている……。


……この家は行政の助けが必要だ。


 部屋の惨状や、梨花の汚れ。一見すれば親を責めるのは簡単だ。だが、彼女の話を聞けば聞くほど、母親が「責任から逃げている」のではなく、生活という泥沼で「溺れている」のが手に取るように分かった。


 母親が泥沼で必死にもがけばもがくほど、その手を掴んで沈まないように支えているのが、梨花という小さな娘なのだ。ヤングケアラーなんて横文字で呼ぶには、あまりに過酷すぎる。彼女は自分の人生を燃やして、壊れかけた家族を支えているのだ。


 俺は内心で、かつて現場で見てきた魂の摩耗した子供たちの姿を重ね合わせる。劣悪な住環境は、静かに、だが確実に子供の精神を破壊する。


「学校にいるときはね、全部忘れられるの。でも……この家に帰ってくると、急に、どろっとした黒いのが胸の中に溜まっていくの。……私、もう消えちゃいたい。どこか遠くへ行けたらいいのに、お母さんのことを考えると、何もできない。私は、お母さんを助けることもできない最低な人間なんだ」

「……」


 俺は何も言えず、ただ彼女の言葉を拾い上げる。


「近くのスーパーではね、もう何度も見つかって注意されてるの。だから、電車に乗って、あんな遠くのスーパーまで行くの。……私、おかしいよね。もう万引きしても、何も思わないんだ。捕まった時も、怖いっていうより『ああ、今日は食べさせてあげられないな』って、それだけだった」


 梨花さんはゆっくりと顔を上げ、俺と美桜を交互に見た。自嘲気味に歪んだその表情は、救いを求めているようでもあり、すべてを諦めているようでもあった。


「こんな私、軽蔑したでしょ……? いいよ、笑っても。ゴミ溜めの中で、盗んだ食べ物で生きてる、最低な人間だもん」


 美桜が、痛ましそうに息を呑む。

 俺は――静かに、彼女の隣に座った。


 清美さんが選んでくれた真っ白なブラウスの裾が、床に堆積した埃と脂で黒く汚れていく。だが、今はそんなことどうでもよかった。


「……ううん。軽蔑なんて、絶対にしないよ。梨花さんは、一人で戦いすぎちゃっただけだもん」


 俺は努めて穏やかな、女子中学生としての「私」の声で語りかける。だが、その内側では元警察官としての怒りと悲しみが激しく脈打っていた。


「梨花さんが『何も思わなくなった』のはね、心がこれ以上傷つかないように、梨花さん自身を守るために麻痺しちゃってるだけだよ。梨花さんが悪いんじゃないよ……。梨花さんは、ううん……梨花さん『も』、誰かに守られるべき子供なんだよ」


 俺がそう告げた瞬間、梨花さんの肩が微かに震えた。万引きを繰り返すことでしか家族を繋ぎ止められないなんて、そんな歪んだ構造は、絶対に間違っている。


「梨花。顔を上げて」


 隣で、美桜が今までになく強い声を出した。俺も梨花も、驚いて彼女を見る。美桜は梨花の瞳を真っ直ぐに射抜き、言い放った。


「私たちも、一緒だよ。私と朱音……普通の家には住んでない。児童養護施設から学校に通ってるの」


 梨花さんの動きが止まった。


「え……施設って……」

「そう。私には頼れる親なんていないし、朱音だって……昔の記憶がなくて、帰る家なんてどこにもない」


 美桜は俺の手をぎゅっと握り、力を込めた。

 俺は記憶が無いわけではない。嘘を突き通していることに、目線が下る。


「でも、私たちは今、ここにいる。朱音がいてくれるから、私は地獄から抜け出せた。……朱音はね、梨花が思ってるよりずっとすごいんだよ。だから、一人で消えようなんて思わないで」


 俺たちが抱える闇は、梨花さんのものとは形が違う。それでも、同じように「普通」からこぼれ落ち、それでも今、隣で手を握っている人間がいる。その事実だけが、梨花を繋ぎ止める楔になるはずだ。


 梨花さんの瞳から、さっきまでとは違う、温かい涙がこぼれ落ちた。張り詰めていた孤独の糸が、ほんの少しだけ緩んだような気がした。


「みんな、……一緒だったんだ。私だけじゃ、なかったんだ……」


 梨花さんの震える声が、狭いリビングに溶けていく。だが、その安らぎは長くは続かなかった。


 ――カチャリ。

 無施錠の玄関ドアが開く、乾いた音が響く。

「梨花〜? いるー? ご飯できた〜?」


 聞き慣れない、しかしどこか疲弊した女性の声。梨花さんのお母さんが、帰ってきたのだ。


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