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第37話 片付けられない家

 梨花さんはふらふらと立ち上がると、俺たちに向かって深く頭を下げた。


「……あの。親には、言わないで……欲しいの」

「ねえ、何があったのか、教えてくれる……?」


 俺の問いかけに、梨花さんは口を噤んだ。俺はその細い手を、そっと握りしめる。


「食材を万引きするなんて……やっぱり、普通じゃないよ。私、梨花さんの助けになりたいの……」


 この年頃の少女が万引きすると言えば、大抵は化粧品やアクセサリー。あるいは菓子類だ。だが、お刺身のパックなんて聞いたことがない。

 ……これは嗜好品じゃない。

 それでも梨花さんは何も言わなかった。俺は、彼女の瞳の奥をじっと覗き込む。


「……でも、お母さんにはちゃんとお話しするからね」


 梨花さんの顔が、驚愕に引きつった。


「そ、そんな……やめて……っ」


 家出か、あるいは……。

 腹を空かせ、服も汚れ、髪もボサボサ。条件は揃いすぎている。このまま見過ごせるわけがない。

 店員の話が本当なら、梨花さんはこの遠いスーパーで何度も『万引き』を繰り返している。このままだと、梨花さんは破滅まで一直線だ。


 ……ここで止めなきゃならない。それこそ、俺が憎まれ役になろうとも。


「だめだよ。店員さんとも、約束しちゃったから……」


 逃げ場のない「拒絶」を込める。梨花さんの目には、みるみるうちに涙が溜まっていった。

 隣で美桜が、俺の手をぎゅっと握ってくる。俺の強引さに驚いているのかもしれない。


「うぅ、分かった。でも、すぐ……帰ってね」

「うん。お話しするだけ。そしたらすぐ帰るから」


 俺たちは梨花さんと共に大宮駅へ向かった。

 梨花は通学用の定期券でこのスーパーまで来たみたいだった。

 俺たちは、Suicaの残金を使い大宮駅まで向かった。


 大宮駅に彼女の家へと足を向けた。

 辿り着いたのは、古びた団地の五階。エレベーターのない階段は、今のこの身体には負担が大きすぎる……。

 眼の前がチカチカしてきて、胸が痛くなる。


「朱音大丈夫? 梨花さんもう少しゆっくりでお願い」

「あ、うん……」


 俺の心臓は悲鳴をあげていた。

 美桜が腰に手を回して支えられながら、なんとか5階まで上がった。

 着いた頃には、息が完全に上がっていた。


 五階に着いたところで、ずっと下を向いていた梨花さんが振り返った。


「……その、家、片付いていないの。ショック、受けるかも。……あと、もうそろそろお母さんが、帰ってくると思う」

「……うん。わかった」

 五階の一番奥の部屋。ドアの周辺には、ボロボロになった子供の玩具や壊れたビニール傘、泥のついた靴が散乱していた。

 

 ……俺はこの景色を知っている。

 梨花さんは無施錠のドアを開け、中へと消えていった。

 俺と美桜も続こうとしたが、玄関の一歩手前で足が止まった。

 ……この匂い。酸鼻を極める生ゴミの腐敗臭と、堆積した埃の脂っこい臭気。


 ――典型的な『ゴミ屋敷』だ


 玄関は雑誌や新聞紙が地層のように積み重なり、靴を脱ぐスペースすらない。廊下にも荷物が散乱し、中身の分からないゴミ袋が壁を埋めている。床は髪の毛と埃が混ざり合い、堆積している。


「お、お邪魔……します……」

 

 俺と美桜は、どこに足を置くべきか迷いながら、意を決して靴を脱いだ。

 一歩踏み出すごとに、靴下越しに床のベタつきが伝わってくる。

 リビングの光景は、さらに凄惨だった。

 テーブルの上にはコンビニ弁当の空き殻が山をなし、椅子の上にも衣類や得体の知れないガラクタが積まれている。家具はその機能を完全に失っていた。

 床には、皿に載ったままカピカピに乾いた焼き鳥が放置されている。


 そして部屋の奥には、万年床の布団がぐちゃぐちゃに敷かれていた。

 梨花さんは、その布団の上に力なく座り込んだ。

 万年床の上に、糸の切れた人形のように座り込んだまま動かない。

 俺と美桜は、汚れの堆積した床に膝をつくのを躊躇いながら、彼女の前に屈み込んだ。


「……ねえ、梨花さん。お母さんは、何もしてくれないの……?」


 俺は消え入りそうな声で、核心に触れる。

 ……このゴミの山、放置された残飯。

 元警察官時代、嫌というほど見てきた『ネグレクト』の現場そのものだ。

 こういう現場を嫌というほど見てきた。だから最悪を想像してしまう。


 嫌な気持ちになる……。


 嫌な分析を隠し、俺は梨花さんの顔をそっと覗き込んだ。だが、梨花さんは俺の問いに、激しく首を振った。


「ち、違うの。お母さんは、……お母さんは、頑張ってるんだよ!」


 絞り出すような声だった。梨花さんは、膝の上の汚れきったスカートを強く握りしめる。


「お、お母さんは、お昼は、スーパーのパートに行って。夕方は、五時に一回帰ってくるけど、……すぐ、夜のスナックに働きに行っちゃうの」

「……え?」


 予想外の言葉に、俺は思考を止めた。

 ネグレクトじゃない? 昼夜を分かたず、この家を支えるために働いている。


「……お母さん、一人で頑張ってるから。私が、……私がなんとかしなきゃいけないのに……っ」


 梨花さんの瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。


「……お刺身とか、お惣菜のパン。どうして盗もうとしちゃったの?」

「弟たちが、……お腹空くと、……すぐ、喧嘩するから……」


 梨花さんは、嗚咽を漏らしながら言葉を繋ぐ。


「お腹が空くと、みんなイライラして。……大声で喧嘩すると、すぐ、お隣さんに怒鳴られるの。『うるせえ! 役所に通報するぞ!』って。……そうなったら、お母さん困るから。……だから、みんなが静かになる、美味しいものを……食べさせてあげたくて……」


 ……絶句した。


 万引きの動機が『贅沢』でも『スリル』でもない。飢えた兄弟を静かにさせるための、……即ち、この破綻しかけた家庭を維持するための『防音材』だった……

 警察官の頃、多くの犯罪を見てきた。だが、これほどまでに切実で、これほどまでに不器用な「罪」には、そう出会えるものではない。


「……お刺身なら、調理しなくていいし……。みんな好きだから」


 梨花さんは、もう声にもならない声で泣きじゃくっている。

 隣の美桜が、耐えきれずに梨花さんの肩を抱き寄せた。美桜の瞳にも、うっすらと涙が浮かんでいる。


 ……母親は無知ゆえに、身を粉にして働くだけで制度に頼る術を知らない。娘は、そんな母親を守るために、幼い手を犯罪に染める。


 ――これは『悪意』の物語じゃない。

 ……『無知』と『貧困』が、この家族をゆっくりと絞め殺しているんだ


 俺は、ベタつく床を見つめたまま、拳を固く握りしめた。

 元生活安全課の俺なら、法を説いて終わる。

 だが、今の俺は、……「田中朱音」は。


「……梨花さん。お母さんが帰ってきたら……私とお話し、してくれるかな……?」


 人見知りな少女の仮面の下で、俺の中の元警察官の魂が、静かに、そして激しく燃え上がっていた。


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