表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/51

第34話 戻ってくる朝


 その後、俺たちは駅前の交番を経由して、管轄の警察署へ向かった。

 そこで供述調書を取り、被害届を作成した。証拠として、持っていた蛍光パウダーの小袋も提出することになった。


 相談室で調書を取られている最中、現場にいた私服の警察官が話しかけてきた。


「お嬢ちゃん、お手柄だったな。被疑者は観念して全部認めたよ。余罪もボロボロ出てきてる」


 警察官は少し苦笑して続ける。


「あんたと同じ制服の……一緒にいた子にも話を聞いたけど、ずっと嬢ちゃんを心配してたよ。いい友達を持ったな」

「……はい」

「でも」


 そのあと、きっちり注意もされた。


「危険だから絶対に真似するな」

「次はすぐ警察に来い」


 被害者だからか、そこまで強く叱られたわけではない。

 でも、俺が警察官の立場でも、きっと同じことを言ったと思う。



 ある程度事情を聞かれたあと、連絡を受けた千夏さんが血相を変えて駆けつけてくれた。

 千夏さんが持ってきてくれた新しい下着とスカートに着替え、事件当時のものは証拠品として提出することになった。


「……これ、お願いします」


 俺は脱いだばかりの下着が入った紙袋を、ずっと付き添ってくれていた女性警察官へ渡した。

 男性の鑑識官に直接渡すのは精神的にきついだろうという、警察側の配慮だった。


「辛い思いさせてごめんね。ちゃんと鑑識に回して、証拠にするから」


 女性警察官は、俺の背中をさすりながら受け取ってくれた。


 元警官として、証拠保全の重要性は分かっている。蛍光パウダーの付着状況も、犯人のDNAの採取も、立件には不可欠だ。

 それでも、心の中には強烈な抵抗感があった。


 恥ずかしさ。屈辱感。

 被害者の気持ちは、教科書で習うよりもずっと重くて、ずっと苦かった。


 手続きが終わると、俺は警察官たちに「ありがとうございました」と頭を下げ、署を出た。

 神田さんと愛ちゃん、美桜は先に帰されて、一旦学校へ向かったらしい。


 そして、その足で俺は千夏さんにめちゃくちゃ怒られた。


 警察署の駐車場に停められたワンボックスカーの中で、正座させられる勢いだった。


「バカっ! 何考えてるの! 自分から囮になるなんて……何かあったらどうするつもりだったの!」


 千夏さんの怒号が車内に響く。

 俺は小さくなって俯くしかなかった。


 ひとしきり怒ったあと、千夏さんの声が震え出した。


「……本当に、無事でよかった」


 ぎゅう、と強い力で抱きしめられる。


「連絡来た時、心臓止まるかと思ったんだから……っ。怖かったでしょ、ごめんね……守ってあげられなくて」


 千夏さんは泣いていた。


 その涙を見て、俺はようやく、助かったんだと実感した。



 施設に帰ってからも、俺は夕方まで自室で呆けていた。


 犯人は捕まった。これで解決したはずだ。

 警察官だった時は、犯人を捕まえれば、送検できれば、それだけで確かな達成感があった。被害者の「ありがとう」の一言で、今までの苦労が報われた気がしていた。


 でも、今回は違う。


 犯人を捕まえても、触られた感触は消えない。嫌な気持ちが、ずっと胸の奥に引っかかっている。


 なんで、俺の身体は動かなかった。

 あんなに震えて、声も出せなかった。


 もしかしたら、俺はただの小心者だったのか。


 俺は自分の小さな手を眺めた。

 掌から伸びる指は節がなく、すらっとしていて、先に向かって細くなっている。華奢な少女の手だ。


 中身は大人の男だと思っていた。

 でも、本当は違ったのかもしれない。

 警察という権威の鎧を借りて、強がっていただけの小心者だったのかもしれない。


 そんなことを、悶々と考えていた。


 夕方になって、美桜が学校から帰ってきた。

 美桜は真っ先に俺の部屋へ飛び込んできた。


「朱音っ……!」


 美桜は俺の両手を掴み、ぼろぼろと涙をこぼした。

 目は赤く腫れていて、おそらく学校にいる間もずっと泣いていたのだと分かった。


「ごめんね……私、朱音を守るって言ったのに……逆に邪魔しちゃって……足手まといで……」


「ううん、違うよ」


 俺は美桜の手を握り返す。


「美桜が立ち向かってくれたから、私も声が出たの。私こそ、偉そうに捕まえるって言ってたのに、ビビって全然動けなくて……」

「ううん! 朱音は、いつも通り格好良かったよ」


 美桜は涙を拭いて、へらっと笑った。


 胸の奥のこわばりが、少しだけ緩む。


「――美桜さん。ちょっと来なさい」


 背後で、地獄の底から響くようなドスの利いた声がした。


 振り返ると、千夏さんが仁王立ちになっていた。


「朱音ちゃんは、反省として施設の掃除。美桜さんは、こっち」


 あ、まだ終わってなかった……。



 夕食後、洗い物をしていると、ゆかり姉が横から肩をぐいっと引き寄せてきた。


「いーよいーよ、気にしないで! っていうかさ、朱音ちゃん意外と大胆だね~! あんな大人しそうなのに、友達のために身体張るとか……マジ尊い! 私、朱音ちゃん推すわ~!」


 相変わらずの機関銃トークと近い距離感。

 でも、その豪快な明るさに少しだけ心が軽くなった。


 そのあと、お風呂掃除をしていると、清美さんがドアに気だるげに身体をもたれ掛けて話しかけてきた。


「はぁ~……そんなことするなら、とっとと警察に言えばいいじゃん。わざわざ自分でお尻触られる必要ある?」

「……うっ……」

「まぁ、何かしたいって気持ちは偉いけどさ」


 皮肉っぽい言い方だったけど、彼女なりの心配なのだろう。


 明るく笑わせてくれる人もいる。

 呆れた顔で現実を言ってくる人もいる。

 そのどっちも、今の俺にはありがたかった。


 今回のことは、精神的にも相当きつかった。

 それでも、周りの人たちがこうして気にかけてくれるたびに、胸の中に沈んでいた澱が少しずつ薄まっていくような気がした。



 お説教と反省掃除を終え、夕食も済ませて、美桜が部屋に戻ってきたのは夜八時を過ぎてからだった。

 げっそりしていて、緊張と反省がそのまま顔に貼りついている。


「はぁ~……やっと息が吸える。マジ死ぬかと思った……」

「お疲れ様」

「本当だね。……朱音も、よく頑張ったね」


 その言葉が、胸に刺さった。


「よく頑張れたかな……? なんか、やれると思ったのに全然動けなかった。自己嫌悪だよ……」

「ううん。朱音がいなければ、誰もあいつを捕まえられなかった。みんな感謝してるよ。自信持って」

「うん、ありがとう」


 そう言うと、美桜がそっと髪に触れてきた。


「あいつに大きな声を出してる朱音……惚れ直したよ。朱音があんなに感情的になるとは思わなかった」

「なんか……色々な感情が溢れてきて……」


 急に恥ずかしくなって、目を逸らす。


「弱い朱音も、頼り甲斐ある朱音も、どっちも好きだから」


 俺は美桜の胸に顔を埋めた。

 心が、少しずつ元の形に戻っていく気がする。


「ありがとう」


 誰かを守ることばかり考えていた俺は、こうやって支えられて立っている。

 それでもいいのかもしれない、と初めて思えた。


「み、美桜……」

「ん?」

「その……えっと」

「ん? どうしたの?」

「今日、その……して欲しいな……」

「えっ、昨日の今日だけど……大丈夫?」

「うん……その、今日も……」


 犯人に痴漢された記憶が、まだ皮膚に残っている気がする。

 それは消えないかもしれない。でも、少しでも忘れたい。

 美桜は一瞬、真剣な目で俺を見た。俺の揺れる瞳の奥を覗き込むように。


「……忘れさせてほしいの?」


 俺はコクリと頷いた。


「……うん。美桜で、ちょっとだけ……」


 美桜の瞳に、とろりとした艶が宿った。

 彼女は優しく微笑んだ。


「いいよ。……全部、私で塗り替えてあげる」


 その後は柔らかく、優しく、そして激しい夜を過ごした。

 お互いに重なり、体温を分け合い、嫌な記憶の欠片すら残らないように、何度も上り詰め、啼いたのだった。




 扉をコンコンとノックする音で目が覚めた。


 身体が重い。

 でも、昨日までの重さとは少し違った。芯の奥にはまだ疲れが残っているのに、不思議と息はしやすい。


「は、はいー」


 俺は裏返った声で返事をした。


「おっはよ~! もう朝だよ~! 早くしないとご飯なくなっちゃうよ~!」

「は、はいー!」


 元気すぎるゆかり姉の声。

 いつもの朝が始まった。


 毛布をめくると、細い裸体が露わになる。昨日のことを思い出して恥ずかしさは込み上げてくるが、前みたいな激しい動揺はなかった。


「あ、もう朝?」


 美桜も起きて、てきぱきと服を着る。

 俺も下着をつけ、そのまま制服に袖を通した。


「ゆかり姉が、早く~だって」

「うん、わかった」


 そう言って二人で食堂へ向かった。


 食堂には、焼きたてのパンの小麦のいい匂いが広がっていた。

 俺はカウンターにいるゆかり姉のところへ行く。


「はい、これ朱音ちゃんの!」


 渡されたのは、バターがたっぷり塗られた葡萄パン。最近のお気に入りだ。


「ありがとう!」


 葡萄パンとサラダ、スクランブルエッグ、牛乳をトレイに乗せて席につく。

 美桜のパンはマーマレードが塗ってある。ゆかり姉は、一人一人の好みを全部覚えていて用意してくれる。


 二人で「いただきます」と手を合わせて、パンを頬張った。

 口の中にバターの芳醇な香りと、葡萄の甘酸っぱさが広がる。


 はぁ~、幸せ。


 パンをむしゃむしゃ食べていたところ、後ろからゆかり姉が俺と美桜の肩を抱いてきて、ぐっと顔を寄せてきた。


「え? なに?」

「ねぇねぇ、二人ともさ。……夜はもーちょいボリューム下げよっか?」


 ゆかり姉は、ニヤニヤしながら小さい声で囁いた。

 俺と美桜は、一瞬で顔がトマトみたいに真っ赤になった。


「えっ……ま、まさか、全部……!?」


 俺が裏返った声で聞くと、ゆかり姉は「さぁね~?」と楽しそうにとぼけた。


「ここ禁止じゃないけどさ〜、職員に見つかったら超めんどいことになるよ? 気をつけてね〜!」

「あ、う……」

「あはは、二人とも真っ赤! 可愛い〜! 青春だねぇ〜!」


 そう言って、ゆかり姉は笑顔で手をブンブン振って厨房へ戻っていった。

 俺と美桜はご飯を食べ終わるまで、一言も喋れず真っ赤になっていた。



 学校へ行くと、校門前に愛ちゃんと神田さんが待っていた。


「朱音ちゃん! 美桜ちゃん!」


 二人が駆け寄ってくる。

 お互いに無事なことを確かめて、抱き合って喜び合う。


 そこへ、一人の女子生徒が歩いてきた。


 ウルフカットが印象的な美少女。

 桑名梨花さんだ。


「……朱音さん。そ、その。本当にごめんなさい。私のために……」


 梨花さんは俯いて、大きな瞳に涙を溜めていた。


「梨花……」


 神田さんが、そっと梨花さんの手を取る。


「朱音さんが、私の代わりに……その、酷いことされたって」


 神田さんに握られていない方の手で顔を覆う。罪悪感で押しつぶされそうなのが見て取れた。


「梨花さん」


 俺も、梨花さんのもう片方の手を取る。

 目が合う。


「今度の放課後さ、一緒に帰ろ? クレープとか食べてさ」

「……え?」

「事件のことはもう終わり。これからは、普通の友達として遊ぼ」


 強がりでも、今はそれを言いたかった。


「私は大丈夫だから、全然気にしないで」


 その言葉を聞いた瞬間、梨花さんの目から大粒の涙が溢れた。

 彼女はその場に膝から崩れ落ちる。


 神田さんが慌てて支え、美桜と愛ちゃんも駆け寄った。


 俺はその姿を見ながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。


 全部が消えたわけじゃない。

 嫌な記憶も、触られた感触も、まだ消えていない。


 それでも、こうしてまた校門の前に立って、みんなで顔を合わせて、放課後の約束を口にできる。

 それだけで十分だった。


 元警察官としての正義とは、少し違うかもしれない。

 でも、誰かに支えられながら、壊されかけた日常にもう一度手を伸ばせた。

 今は、それでいいと思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ