第34話 戻ってくる朝
その後、俺たちは駅前の交番を経由して、管轄の警察署へ向かった。
そこで供述調書を取り、被害届を作成した。証拠として、持っていた蛍光パウダーの小袋も提出することになった。
相談室で調書を取られている最中、現場にいた私服の警察官が話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、お手柄だったな。被疑者は観念して全部認めたよ。余罪もボロボロ出てきてる」
警察官は少し苦笑して続ける。
「あんたと同じ制服の……一緒にいた子にも話を聞いたけど、ずっと嬢ちゃんを心配してたよ。いい友達を持ったな」
「……はい」
「でも」
そのあと、きっちり注意もされた。
「危険だから絶対に真似するな」
「次はすぐ警察に来い」
被害者だからか、そこまで強く叱られたわけではない。
でも、俺が警察官の立場でも、きっと同じことを言ったと思う。
ある程度事情を聞かれたあと、連絡を受けた千夏さんが血相を変えて駆けつけてくれた。
千夏さんが持ってきてくれた新しい下着とスカートに着替え、事件当時のものは証拠品として提出することになった。
「……これ、お願いします」
俺は脱いだばかりの下着が入った紙袋を、ずっと付き添ってくれていた女性警察官へ渡した。
男性の鑑識官に直接渡すのは精神的にきついだろうという、警察側の配慮だった。
「辛い思いさせてごめんね。ちゃんと鑑識に回して、証拠にするから」
女性警察官は、俺の背中をさすりながら受け取ってくれた。
元警官として、証拠保全の重要性は分かっている。蛍光パウダーの付着状況も、犯人のDNAの採取も、立件には不可欠だ。
それでも、心の中には強烈な抵抗感があった。
恥ずかしさ。屈辱感。
被害者の気持ちは、教科書で習うよりもずっと重くて、ずっと苦かった。
手続きが終わると、俺は警察官たちに「ありがとうございました」と頭を下げ、署を出た。
神田さんと愛ちゃん、美桜は先に帰されて、一旦学校へ向かったらしい。
そして、その足で俺は千夏さんにめちゃくちゃ怒られた。
警察署の駐車場に停められたワンボックスカーの中で、正座させられる勢いだった。
「バカっ! 何考えてるの! 自分から囮になるなんて……何かあったらどうするつもりだったの!」
千夏さんの怒号が車内に響く。
俺は小さくなって俯くしかなかった。
ひとしきり怒ったあと、千夏さんの声が震え出した。
「……本当に、無事でよかった」
ぎゅう、と強い力で抱きしめられる。
「連絡来た時、心臓止まるかと思ったんだから……っ。怖かったでしょ、ごめんね……守ってあげられなくて」
千夏さんは泣いていた。
その涙を見て、俺はようやく、助かったんだと実感した。
施設に帰ってからも、俺は夕方まで自室で呆けていた。
犯人は捕まった。これで解決したはずだ。
警察官だった時は、犯人を捕まえれば、送検できれば、それだけで確かな達成感があった。被害者の「ありがとう」の一言で、今までの苦労が報われた気がしていた。
でも、今回は違う。
犯人を捕まえても、触られた感触は消えない。嫌な気持ちが、ずっと胸の奥に引っかかっている。
なんで、俺の身体は動かなかった。
あんなに震えて、声も出せなかった。
もしかしたら、俺はただの小心者だったのか。
俺は自分の小さな手を眺めた。
掌から伸びる指は節がなく、すらっとしていて、先に向かって細くなっている。華奢な少女の手だ。
中身は大人の男だと思っていた。
でも、本当は違ったのかもしれない。
警察という権威の鎧を借りて、強がっていただけの小心者だったのかもしれない。
そんなことを、悶々と考えていた。
夕方になって、美桜が学校から帰ってきた。
美桜は真っ先に俺の部屋へ飛び込んできた。
「朱音っ……!」
美桜は俺の両手を掴み、ぼろぼろと涙をこぼした。
目は赤く腫れていて、おそらく学校にいる間もずっと泣いていたのだと分かった。
「ごめんね……私、朱音を守るって言ったのに……逆に邪魔しちゃって……足手まといで……」
「ううん、違うよ」
俺は美桜の手を握り返す。
「美桜が立ち向かってくれたから、私も声が出たの。私こそ、偉そうに捕まえるって言ってたのに、ビビって全然動けなくて……」
「ううん! 朱音は、いつも通り格好良かったよ」
美桜は涙を拭いて、へらっと笑った。
胸の奥のこわばりが、少しだけ緩む。
「――美桜さん。ちょっと来なさい」
背後で、地獄の底から響くようなドスの利いた声がした。
振り返ると、千夏さんが仁王立ちになっていた。
「朱音ちゃんは、反省として施設の掃除。美桜さんは、こっち」
あ、まだ終わってなかった……。
夕食後、洗い物をしていると、ゆかり姉が横から肩をぐいっと引き寄せてきた。
「いーよいーよ、気にしないで! っていうかさ、朱音ちゃん意外と大胆だね~! あんな大人しそうなのに、友達のために身体張るとか……マジ尊い! 私、朱音ちゃん推すわ~!」
相変わらずの機関銃トークと近い距離感。
でも、その豪快な明るさに少しだけ心が軽くなった。
そのあと、お風呂掃除をしていると、清美さんがドアに気だるげに身体をもたれ掛けて話しかけてきた。
「はぁ~……そんなことするなら、とっとと警察に言えばいいじゃん。わざわざ自分でお尻触られる必要ある?」
「……うっ……」
「まぁ、何かしたいって気持ちは偉いけどさ」
皮肉っぽい言い方だったけど、彼女なりの心配なのだろう。
明るく笑わせてくれる人もいる。
呆れた顔で現実を言ってくる人もいる。
そのどっちも、今の俺にはありがたかった。
今回のことは、精神的にも相当きつかった。
それでも、周りの人たちがこうして気にかけてくれるたびに、胸の中に沈んでいた澱が少しずつ薄まっていくような気がした。
お説教と反省掃除を終え、夕食も済ませて、美桜が部屋に戻ってきたのは夜八時を過ぎてからだった。
げっそりしていて、緊張と反省がそのまま顔に貼りついている。
「はぁ~……やっと息が吸える。マジ死ぬかと思った……」
「お疲れ様」
「本当だね。……朱音も、よく頑張ったね」
その言葉が、胸に刺さった。
「よく頑張れたかな……? なんか、やれると思ったのに全然動けなかった。自己嫌悪だよ……」
「ううん。朱音がいなければ、誰もあいつを捕まえられなかった。みんな感謝してるよ。自信持って」
「うん、ありがとう」
そう言うと、美桜がそっと髪に触れてきた。
「あいつに大きな声を出してる朱音……惚れ直したよ。朱音があんなに感情的になるとは思わなかった」
「なんか……色々な感情が溢れてきて……」
急に恥ずかしくなって、目を逸らす。
「弱い朱音も、頼り甲斐ある朱音も、どっちも好きだから」
俺は美桜の胸に顔を埋めた。
心が、少しずつ元の形に戻っていく気がする。
「ありがとう」
誰かを守ることばかり考えていた俺は、こうやって支えられて立っている。
それでもいいのかもしれない、と初めて思えた。
「み、美桜……」
「ん?」
「その……えっと」
「ん? どうしたの?」
「今日、その……して欲しいな……」
「えっ、昨日の今日だけど……大丈夫?」
「うん……その、今日も……」
犯人に痴漢された記憶が、まだ皮膚に残っている気がする。
それは消えないかもしれない。でも、少しでも忘れたい。
美桜は一瞬、真剣な目で俺を見た。俺の揺れる瞳の奥を覗き込むように。
「……忘れさせてほしいの?」
俺はコクリと頷いた。
「……うん。美桜で、ちょっとだけ……」
美桜の瞳に、とろりとした艶が宿った。
彼女は優しく微笑んだ。
「いいよ。……全部、私で塗り替えてあげる」
その後は柔らかく、優しく、そして激しい夜を過ごした。
お互いに重なり、体温を分け合い、嫌な記憶の欠片すら残らないように、何度も上り詰め、啼いたのだった。
扉をコンコンとノックする音で目が覚めた。
身体が重い。
でも、昨日までの重さとは少し違った。芯の奥にはまだ疲れが残っているのに、不思議と息はしやすい。
「は、はいー」
俺は裏返った声で返事をした。
「おっはよ~! もう朝だよ~! 早くしないとご飯なくなっちゃうよ~!」
「は、はいー!」
元気すぎるゆかり姉の声。
いつもの朝が始まった。
毛布をめくると、細い裸体が露わになる。昨日のことを思い出して恥ずかしさは込み上げてくるが、前みたいな激しい動揺はなかった。
「あ、もう朝?」
美桜も起きて、てきぱきと服を着る。
俺も下着をつけ、そのまま制服に袖を通した。
「ゆかり姉が、早く~だって」
「うん、わかった」
そう言って二人で食堂へ向かった。
食堂には、焼きたてのパンの小麦のいい匂いが広がっていた。
俺はカウンターにいるゆかり姉のところへ行く。
「はい、これ朱音ちゃんの!」
渡されたのは、バターがたっぷり塗られた葡萄パン。最近のお気に入りだ。
「ありがとう!」
葡萄パンとサラダ、スクランブルエッグ、牛乳をトレイに乗せて席につく。
美桜のパンはマーマレードが塗ってある。ゆかり姉は、一人一人の好みを全部覚えていて用意してくれる。
二人で「いただきます」と手を合わせて、パンを頬張った。
口の中にバターの芳醇な香りと、葡萄の甘酸っぱさが広がる。
はぁ~、幸せ。
パンをむしゃむしゃ食べていたところ、後ろからゆかり姉が俺と美桜の肩を抱いてきて、ぐっと顔を寄せてきた。
「え? なに?」
「ねぇねぇ、二人ともさ。……夜はもーちょいボリューム下げよっか?」
ゆかり姉は、ニヤニヤしながら小さい声で囁いた。
俺と美桜は、一瞬で顔がトマトみたいに真っ赤になった。
「えっ……ま、まさか、全部……!?」
俺が裏返った声で聞くと、ゆかり姉は「さぁね~?」と楽しそうにとぼけた。
「ここ禁止じゃないけどさ〜、職員に見つかったら超めんどいことになるよ? 気をつけてね〜!」
「あ、う……」
「あはは、二人とも真っ赤! 可愛い〜! 青春だねぇ〜!」
そう言って、ゆかり姉は笑顔で手をブンブン振って厨房へ戻っていった。
俺と美桜はご飯を食べ終わるまで、一言も喋れず真っ赤になっていた。
学校へ行くと、校門前に愛ちゃんと神田さんが待っていた。
「朱音ちゃん! 美桜ちゃん!」
二人が駆け寄ってくる。
お互いに無事なことを確かめて、抱き合って喜び合う。
そこへ、一人の女子生徒が歩いてきた。
ウルフカットが印象的な美少女。
桑名梨花さんだ。
「……朱音さん。そ、その。本当にごめんなさい。私のために……」
梨花さんは俯いて、大きな瞳に涙を溜めていた。
「梨花……」
神田さんが、そっと梨花さんの手を取る。
「朱音さんが、私の代わりに……その、酷いことされたって」
神田さんに握られていない方の手で顔を覆う。罪悪感で押しつぶされそうなのが見て取れた。
「梨花さん」
俺も、梨花さんのもう片方の手を取る。
目が合う。
「今度の放課後さ、一緒に帰ろ? クレープとか食べてさ」
「……え?」
「事件のことはもう終わり。これからは、普通の友達として遊ぼ」
強がりでも、今はそれを言いたかった。
「私は大丈夫だから、全然気にしないで」
その言葉を聞いた瞬間、梨花さんの目から大粒の涙が溢れた。
彼女はその場に膝から崩れ落ちる。
神田さんが慌てて支え、美桜と愛ちゃんも駆け寄った。
俺はその姿を見ながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。
全部が消えたわけじゃない。
嫌な記憶も、触られた感触も、まだ消えていない。
それでも、こうしてまた校門の前に立って、みんなで顔を合わせて、放課後の約束を口にできる。
それだけで十分だった。
元警察官としての正義とは、少し違うかもしれない。
でも、誰かに支えられながら、壊されかけた日常にもう一度手を伸ばせた。
今は、それでいいと思えた。




