第33話 青白い証明
「待って!」
俺は叫んだ。
男は苛立った様子で、だるそうに振り返る。
「あぁ? まだなんかあんのかよ、チンチクリン。あんまりしつこいと訴えるぞ? 俺、知り合いに弁護士いんだけど」
法律を知っている、弁護士、警察の知り合い。
犯罪者の中には、そうやって権威をちらつかせて脅してくる奴がいる。そういう奴は決まって気が小さい。そして、あらかじめ逃げ道を用意している卑怯者だ。
「あなたの手には、私の服の繊維とかが付いてる! 本当に触ってないなら、警察で検査受けて!」
鑑識活動の中で、接触箇所から微物が検出されることはよくある。
それが俺のスカートの繊維と一致すれば、容疑は濃厚になる。
「はっ、そんな暇ねぇっつってんだろ、ガキが」
そう言って、男は鞄の中に手を突っ込んだ。
「あっ」
男はハンカチを取り出し、右手をゴシゴシと拭き始めた。
証拠隠滅だ。
「やめて! 本当にやってないなら、そんなことする必要ないじゃん! 証明してよ!」
「は? うっせぇな。お前こそ証拠出せよ。証拠がねぇなら、俺は行くからな」
男はそう言い捨て、汚れたハンカチを丸めて線路側へ放り投げた。
証拠を消すつもりだ。そこまでして逃げたいくせに、まだ潔白を装う。
「……通報された人ですか?」
その時、私服の男性が男の前に立ちはだかった。胸元から警察手帳を提示する。警察官だ。駅員からの連絡を受けて駆けつけたのだろう。恐らく刑事課か生活安全課だ。
「ちっ」
男は露骨に舌打ちした。
「お巡りさぁん、俺、こいつらに嵌められそうになってんすよぉ。こいつら詐欺で捕まえてくださいよ。あ、名誉毀損もセットでね」
「分かりました。お話を聞かせてください。まずは身分証明書を見せていただけますか?」
「なんで見せなきゃなんねぇんだよ。任意だろ?」
警察官は腕時計をちらりと見ると、鋭い眼光で男を睨みつけた。
「見せないってことでいいですか? 被害者は、逃げようとしたあなたのシャツを掴んでいたと聞いていますが」
男は、何かを察したようで、さらに苛立ちを募らせた。
「はっ、見ろよ! これで満足かよ!」
そう言って、鞄の中から免許証を乱暴に取り出し、警察官の胸元に押し付けた。
警察官はそれを受け取ると、無線を持った別の制服警官に手渡す。照会にかけるのだ。
男は捲し立てるように、さっきまでのやり取りを主張し始めた。駅員にも同意を求め、あたかも自分は潔白で、逆に被害者であるかのように振る舞う。
俺も、少し離れた場所で女性警察官に声をかけられた。
「大丈夫? 怪我はない?」
俺は頷く。
だが、このままだと「疑わしきは罰せず」で逃げられるかもしれない。物的証拠が弱い。
「……前、176が一件と、条例一件です」
戻ってきた制服警官が、私服警官に耳打ちした。
男の顔が引きつる。
俺にはその暗号の意味が分かる。
176条は不同意わいせつ。条例はおそらく迷惑防止条例だ。つまり、痴漢か盗撮もしている。
こいつは前科持ちだ。性犯罪の常習者。手口が慣れているのも納得がいく。
「俺はなんでも協力するって言ってんだろが! 署に行くんだったら行くよ。身の潔白を証明しにな! その代わり、あの女どもを名誉毀損で被害届出してやるからな! 覚悟しとけよクソガキ!」
男は俺や美桜を指差し、唾を飛ばして怒鳴った。
その剣幕に、俺の身体が一瞬すくむ。隣の美桜も、女性警察官も息を呑んでいる。
「分かりました。じゃあ、警察署に行きましょう」
男は盛大に舌打ちして、警察官と一緒に歩き出した。勝ち誇った、いやらしい薄笑いを浮かべて。
俺も女性警察官に促される。
――逃がさない。
「ちょっと待ってください!!」
俺は腹の底から声を出して、男と私服警察官を呼び止めた。
「あぁ? てめぇ、しつこいんだよ! 調子こいてんじゃねぇぞ!」
男が肩を怒らせて近づいてくる。
女性警察官がとっさに前へ出て、俺を庇おうとしてくれた。
俺は震える手で、鞄の中から小さいジッパー付きのパケットを取り出した。
中には、白い微細な粉が入っている。
「何だそれ? 粉? ……お遊びじゃねえんだぞ」
「これ……今朝、施設で仕込んできました。私の下着と、スカートの内側に塗ってあります」
昨日の失敗で思い知った。
証拠がなければ、こいつは逃げる。
だから今朝、もう“触っても言い逃れできない”ように仕込んできた。
男はぎょっとした顔で白い粉を凝視した。
「それは何ですか?」
私服警察官が尋ねてくる。
「特殊な蛍光パウダーです」
俺はもう一つ、鞄の中から切り札を取り出した。
「これはブラックライト。これを当てれば、粉が付いた場所が光って見えます」
男の額には脂汗が滲み、表情が凍りついている。頭の中で言い訳を高速で組み立てているのだろう。
俺はブラックライトを女性警察官に手渡した。
「そのライトで、私のスカートの中……照らして見てください」
女性警察官が私服警察官に目配せすると、私服警察官が頷いた。
「分かりました。確認します」
女性警察官は、野次馬や男たちから見えないように、自分の身体で壁を作ってくれた。
俺はスカートの裾を少し上げる。恥ずかしい。でも、今は捜査のためだ。
女性警察官が屈んでライトを当てる。
「……光っています。青く、はっきりと」
その声が響いた瞬間、空気が変わった。
私服警察官が男に向き直る。
「その蛍光パウダーで、何を証明したいのかな?」
口調は静かだった。だが、もう確信している声音だった。
「あの男の右手を、ライトで確認してください!」
「は? ふざけんなよ。誰がそんなのやるかよ」
男は後ずさった。無意識なのか、左手で右手を擦っている。
だが、後ろには他の男性警察官も回り込んでいる。逃げ道はない。
「協力をお願いします。無実の証明のためにも、確認しましょう」
「ち、分かったよ……やりゃいいんだろ、やりゃあ」
男はそう言いながら、右手を服や鞄に執拗に擦りつけながら近づいてきた。
私服警察官は大きなカバンのようなものを用意し、その中に男の手を入れさせる。そこへライトが当てられた。
スイッチが入る。
暗い袋の中で、青白い光が浮かび上がった。
「……かなり強く出ていますね。指先だけじゃない。掌、手首、ワイシャツの袖まで光ってる」
「は? いやいや、さっきハンカチで綺麗にしたし、そんな残るはずねぇだろ!」
男が叫んだ瞬間、空気が止まった。
自分で『拭いた』ことを認めた。
私服警察官の目が細くなる。
「今、拭いたと言いましたね」
「っ……」
警察官は袋の口を少し開き、男自身にも見せた。
自分の右手が、まるで発光体みたいに青白く輝いている。
「う、嘘だろ……?」
「この粉は、簡単には落ちません。少なくとも、ハンカチで拭いた程度では」
理屈はそれだけで十分だった。
スカートの内側に塗ってあった粉が、男の手首から袖まで付いている。
つまり、手を入れて、擦って、出した。その痕跡が残っている。
「この女性のスカートの中にあった粉が、なぜあなたの右手に付いているんですか?」
私服警察官が、一つずつ逃げ道を潰すように問う。
「掌全体、手首、袖口。付き方にも整合性がある。これで、まだやっていないと言うんですか?」
「い、いや……だって……」
男の顔色は土気色だった。額から吹き出る汗を何度も拭っている。
初夏とはいえ、尋常じゃない量だ。
「あ、そうだ! 昨日の夜、ガンプラ作ってたんだよ! その時に蛍光パウダー使ったの忘れてたわ! それだよそれ!」
男は引きつった笑顔で言った。
私服警察官は、呆れたようにため息をつく。
「プラモデル作りなら、普通は指先に付きますよね。ですがあなたの手は、掌全体と手首、それに今日着ているワイシャツの袖まで光っている。これは、手を差し入れて、擦って、掴んだ付き方です」
「っ……!」
男が言葉を詰まらせた。
理屈で詰んだのだ。もう、感情論では逃げ切れない。
俺は、さらに言葉を重ねる。
「線路に捨てたハンカチも回収してください。あれにも粉が付いてるはずです。証拠を消そうとしたことも含めて、全部残ります」
私服警察官が小さく頷いた。
「それに、家宅捜索すれば分かりますよ」
俺は男を睨みながら言った。
「令状を取って家に行けば、その『ガンプラ』とやらに本当に同じ蛍光パウダーが付いてるか、すぐ確認できます」
私服警察官が一瞬だけこちらを見た。
俺は口をつぐむ。少し言いすぎたと思ったが、もう止まれなかった。
「……さて」
警察官は男に向き直る。
「まだ続けますか?」
男はギロッとこっちを向いた。目が血走っている。
「うるせぇ!! てめぇ余計なこと言ってんじゃねぇ! 黙ってろクソガキ!」
逆ギレだ。
だが、キレたいのはこっちだ。
今まで飲み込んできた怒りが、一気に喉までせり上がる。
「黙って苦しんでる子ばかりだと思わないで!」
声が震えた。
でも、止まらなかった。
「あなたのせいで、学校に来られなくなってる子がいる! 毎日、黙って耐えてる子がいる! 何も言わないからって、傷ついてないわけじゃない!」
男が一瞬だけたじろいだ。
「私だけの話じゃない。ずっと泣いてた子もいる。怖くて、恥ずかしくて、誰にも言えなくて、それで壊れていった子がいる!」
目から涙が溢れてくる。
悔しさも、恥ずかしさも、梨花さんの痛みも、自分の無力さへの怒りも、全部まとめて喉から噴き出していた。
「もう逃げるな。絶対に許さない」
短く言い切った瞬間、男が俺に掴みかかろうと近寄る。
「うるせぇよ! ガキが偉そうに……!」
ガシャリ。
冷たい金属音が響いた。
私服警察官が、男の手首に手錠をかけていた。
「はい、そこまで。不同意わいせつの現行犯で逮捕する」
男は自分の手首を見て、信じられないという顔をした。
そして、糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
「……ご、ごめんなさい」
地面に這いつくばるように、男が震える声で呟く。
だが、その口から出てくるのは謝罪ではなかった。
「俺だって、俺だって苦しかったんだよぉ……ムショから出て、カウンセリング行ってた時はよかったけど、行かなくなってからもう性欲が我慢できなくなってきたんだよ……」
身勝手な言葉が、ぼろぼろとこぼれる。
「俺だってしたくなかったんだけど、誘惑してくるやつが悪いんだよ! そうだよ、悪いのはお前らなんだよぉぉ!!」
最後は、自分の弱さを正当化する見苦しい絶叫だった。
こいつは最後まで、自分が何をしたのか理解していない。
苦しんだ被害者を、自分の欲望の言い訳にしているだけだ。
警察官は男の腕を強引に引き上げた。
「詳しいことは署で聞く。行くぞ」
男は抵抗する力もなく、ずるずると連行されていった。
その背中は、さっきまでの威勢の良さが嘘みたいに小さく見えた。
連行を見送ったあと、私服警察官が思い出したように制服警察官へ指示する。
「あと、駅員さんに頼んで、線路に落ちたハンカチを回収しておいてくれ。重要な証拠品だ。付着物も確認したい」
男が投げ捨てたハンカチ。
あれも証拠になる。粉だけじゃない、俺のスカートの繊維もあるはずだ。証拠を消そうとした行為そのものが、こいつの動きを物語っている。
俺の中に、達成感みたいな高揚感はなかった。
ただ、女性の敵を一人捕まえたという、重たい事実だけが残った。




