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第32話 饒舌な悪意


 お尻に、ぬるりと何かが当たった。


 最初はスカートの上から。

 すぐに、片方のふくらみを包み込むように掌が置かれた。


 これは気のせいじゃない。鞄の圧力じゃない。

 誰かの手が、俺のお尻を触っている。


 身体が一瞬で石のように固まった。頭のてっぺんまで、冷たい電撃が走ったみたいだった。

 手は、右から谷間を通って左へ移っていく。

 凹凸を確かめるように。柔らかさを味わうように往復される。

 俺は、力を入れて耐えるしかできなかった……。


 雑踏の音も、電車の揺れも遠のき、そこにある気味の悪い感触だけがリアルだった。

 ――まるで別世界に引きずり込まれたような錯覚に陥る。


 後ろのスカートの裾が、ゆっくりと上がっていく。

 太ももの裏に冷たい空気が当たるたびに、恥ずかしさと屈辱がこみ上げてきた。


 もう、やめて……。


 布が太ももを擦り上がっていく感覚がなくなる。


 次の瞬間、また曲線が包まれた。

 今度はさっきより、ずっと生々しい。

 指の形がはっきり分かるほど、肉に食い込んでくる。

 明らかに、スカートの中を触っている。


 や、やめて……!


 心の中では絶叫している。口から何もかも吐き出してしまいたい。

 身体を捩って逃げたいのに、満員電車で身体は固定されている。背中の上の方、肩甲骨のあたりに鞄の角が強く押し付けられているのだ。

 それによって上体は固定され、逆に腰元には「空間」が作られていた。


 周りからの視線を鞄で遮断し、その陰で手だけを自由に動かす。

 ……常習者の手口だ。俺は逃げ場のない玩具にされていた。


 指が、お尻の谷間に沿って下がってくる。


 もう、無理……。


 キキーッ。


 電車のブレーキ音。

 車内の人の塊が、慣性で前方へ動く。


 上頭駅に到着する。


 その瞬間、背中に押し付けられていた鞄の圧力が、一瞬だけ弱まった。


 ――今だ。


 心の中では、動け、動け、と叫んでいる。

 でも、身体は恐怖で硬直したままだ。金縛りにあったみたいに、指一本まともに動かない。


 その時、脳裏に美桜、愛ちゃん、神田さんの顔がふっと浮かんだ。

 あの、信頼に満ちた目。

 「朱音ならできる」と言ってくれた声。


 ――強い朱音でいなくちゃ!


 俺ははっとして、自分の右手を見た。

 スクールバッグの端を、指の関節が白くなるまで握りしめている。


 開け。

 開け。

 開け――!


 念じると、強張っていた指がぎこちなく、でも確かに開いた。


 いける。


 俺は人の波が崩れる一瞬の隙を突いて、身体を半回転させた。ねじ込むように右手を後ろへ回す。とにかく、相手の手を掴む。


 俺は背後の気配めがけて手を伸ばした。

 相手の手首らしきものに触れた――そう思った瞬間、指は空を切った。


 スッ。


 お尻の感触が消えた。


 手を引っ込められた。

 気づかれた!


 プシューッ。


 ドアが開いた。


 外に出る人の波が、一気に動き出す。犯人が紛れて逃げてしまう。

 俺はとっさに、肩を痛める勢いで手を伸ばし――後ろの逃げようとする人物のワイシャツの袖を、死に物狂いで掴んだ。


「やめて下さいっ!!」


 今までの恥ずかしさも恐怖も、全部ぶちまけるみたいに叫んだ。

 その声は震えていて、悲鳴に近かったかもしれない。でも、周りの人が驚いて振り返るには十分だった。


「その人、痴漢です!!」


 少し離れたところから、美桜の声が聞こえた。

 一瞬、その場の空気が凍りつく。



 だが、電車から吐き出される人の流れは止まらない。俺は掴んだワイシャツを離さず、ホームへ流されていった。


 人の流れが落ち着くと、犯人の姿が見えてきた。


 三十代くらいの男。

 身長は160センチくらいで、小太り。

 着ている白いワイシャツは黄ばんでいて、カフスのボタンが外れている。サイズが合っていないのか、だらしなく身体に張り付いていた。


 さらに、俺が袖を引っ張っているせいで、裾がズボンからはみ出ている。

 右腕には、黒色の革ベルトのアップルウォッチ。茶色のくたびれた革靴。


 間違いない。こいつだ。


 男の顔はこっちを見ており、明らかに怒っていた。


「おい、離せよ!」


 男は汚いものを見るような目で、俺の手からワイシャツを強引に振りほどこうとした。


「この人、痴漢です!」


 俺は袖を握る手に力を込める。

 美桜も、人混みをかき分けて横に来た。息が上がっている。焦りと怒りが、そのまま顔に出ていた。


「私も……見ました! この人、痴漢です!」


 言った瞬間、美桜の目がわずかに揺れた。

 自分でも、どこまで見えていたか曖昧なのだと分かる顔だった。それでも、俺を庇うために前へ出てくれた。


 近くにいた三十代くらいの女性が、心配そうに駆け寄ってくる。


「駅員さん呼んでくるね!」


 そう言って、女性は階段の方へ走っていった。

 神田さんと愛ちゃんも、息を切らして近くに来てくれた。


「あ、朱音ちゃん。スカートが……」


 愛ちゃんが俺の後ろに回る。

 お尻の部分がめくれて、太ももが露わになっていた。


「あ、大丈夫」


 顔から火が出る思いで、自分で裾を摘んでぴょんぴょん跳ねて直した。

 屈辱だ。

 でも、今はそれ以上に怒りが勝っていた。


「おい、冤罪だよ冤罪。ふざけんなよ!」


 男が大げさに叫び出す。

 周りには、騒ぎを聞きつけた野次馬が集まり始めていた。


「本当に、この人に触られたんです!」


 その時、駅員が駆けつけてきた。

 ホームを巡回していたのか、到着が早い。



 ここからが勝負だ。


 駅員は中年の男性だった。冷静な目をしている。ただ、その視線は一瞬だけ、俺の乱れたスカートと青ざめた顔に落ちた。慣れているはずなのに、内心までは鈍くないのだと分かる。


「どうしました? ……とりあえず、ここでは危ないし迷惑になります。事務所に行きましょう」


 口調は事務的だった。

 きっと、こういう揉め事を何度も見てきたのだろう。だが、その一歩前に出る動きには、完全に傍観するつもりではない硬さがあった。


「おいおい、俺は絶対触ってないぞ。事務所なんて行かねぇからな」


 男はそう吐き捨てて歩き去ろうとした。

 俺はワイシャツを離すまいと握りしめるが、大人の男の力には勝てず、身体ごと引きずられて手が離れる。


 そこに美桜が回り込み、男の前に立ちふさがった。


「逃がさない! 私は見てたんだから!」

「何を見てたんだよ。俺が何したっていうんだよ」

「だから、痴漢をしたって言ってんじゃん!」

「だ・か・ら! 俺がどうやって、こんなチンチクリンの女に痴漢したって言ってんだよ」


 男の唾が飛ぶ。


 その瞬間、男の目の奥が少しだけ剥き出しになった。

 さっきまでの余裕だけじゃない。追い詰められた苛立ちと、見下し慣れた相手への本音が漏れている。


 俺は分かっていた。

 おそらく、美桜には見えていない。人の壁に阻まれて、俺の頭しか見えていなかったはずだ。

 俺を援護するために、必死に飛び出してくれた。

 でも今は――それが逆効果になるかもしれない。


「あなたは、右て……」

「お前は話すな!」


 男がいきなり俺に向かって怒鳴った。

 身体がびくっと震え、言葉が喉で詰まる。


 こいつは、触るだけじゃない。

 こうやって言葉でも被害者を潰す。怯ませて、口を塞いで、空気ごと自分のものにする。

 そこまで含めて慣れている。


「おい、駅員。これは冤罪だ。この痴漢痴漢言ってる女から聞くから、よく聞いとけよ」


 男は余裕たっぷりに美桜を指さした。


「おい、そこの女。俺がどうやって痴漢したんだよ。言ってみろよ」

「え、えっと……あなたが朱音のお尻を触ってた」


 美桜の語尾がわずかに下がる。

 自信がないのだ。


 本当、ごめん。美桜。俺のために。


「お尻をどうやって触ってたんだよ。右手か? 左手か?」

「そ、そんなの……右手よ」

「へぇ~。おい、駅員。今聞いたよな? 右手って」

「……はい、聞きました」


 駅員は事務的に頷いた。

 だが、その目はもう少しだけ慎重になっていた。現場の空気が、どちらへ転ぶかを見ている。


「ホームにある防犯カメラを見れば分かると思うが、俺の横にその女はいなかった。むしろ結構離れてたぞ。この時間帯の満員電車で、このチンチクリンのお尻を触ってるのを、離れた場所からどうやって見るんだよ」

「そ、それは……」

「え? 真横にでもいないと分からないのに、離れてるお前がどうやって分かるんだよ。透視能力でもあるのか?」


 美桜の顔から、さっと血の気が引いていく。

 その顔は「しまった」と絶望に染まっていた。自分の証言が、逆に俺を追い詰める材料にされてしまったことに気づいたのだ。


 こいつは慣れている。

 ホームの防犯カメラの位置も、満員電車内での目撃証言の曖昧さも、全部逆手に取る。

 かなり手強い。


「はぁ~。こうやって冤罪が増えるんだよ。お? よく見たらお前ら、上着は違うけど同じ制服じゃん」


 男は俺たちのスカートを見比べ、にやりと笑った。


「何? お前らグルになって、痴漢って言って金でも巻き上げようとしたの? 怖い世界になったねぇ~。俺はそんな美人局みたいなガキには負けない正義だから。残念でした~」


 こいつの口は、饒舌に回る。


 野次馬の視線が変わっていくのを感じた。

 さっきまで「痴漢か?」と寄ってきていた人たちが、少しずつ距離を置く。

 「かわいそう」という目が、「中学生の悪ふざけか?」「冤罪なのか?」という疑いの目に変わっていく。

 味方だったはずの空気が、じわじわ逃げていく。


 美桜に恥をかかせたこいつに、怒りが込み上げた。


「触られた。だから掴んだ」

「おい、どうやって掴んだんだよ。お前、俺のシャツ握ってたよな? 普通、触ってた手を捕まえるだろ?」


 それは、俺としても痛恨だった。

 痴漢を捕まえる時に一番確実なのは、痴漢行為をしている最中にその手を掴むことだ。現行犯逮捕の鉄則。

 男は腕を組み、勝ち誇ったように笑う。その右腕で、黒いアップルウォッチがぎらりと光り、太い指が見えた。


 ……あいつの手だ。間違いない。昨日、俺の胸を触っていたのも、あいつだ。


「適当に掴んだのが、たまたま俺のシャツだったんじゃないのか? もしかしたら本当に痴漢されていたのかもしれない。でも、それは俺じゃねぇ」


 遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。

 男もそれに気づいた。


「じゃ、俺は商談があるから行くよ。駅員さん、あんたに俺を拘束する権限はないだろ? これ以上止めるなら監禁罪で訴えるぞ」


 男は鞄から名刺を取り出し、駅員の胸元に放り投げた。


「名刺やるから、後で連絡してこい! 俺は逃げるんじゃない、仕事に行くんだ!」


 そう言って、男は強引に人混みを割って歩き出そうとする。

 逃がさない。

 ここで逃がしたら、二度と捕まえられない。


「待って!」


 俺は叫んだ。


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