第31話 もう一度、あの中へ
学校の最寄り駅である、上頭駅。
朝のホームの端、喧騒を避けるように集まった俺たちは、小さく円陣を組んでいた。
これから一度大宮駅まで戻り、そこから梨花さんの通学ルートをなぞって、あの犯人が乗る電車に乗り込む。
神田さんは、俺の顔を覗き込んで聞いてくる。
「え、でも昨日はたまたまだったんじゃない?」
「うん、昨日はね。でも……」
俺は一度言葉を切って、記憶の中の粘着質な感触を噛み砕く。
「あいつ、梨花さんのこと毎日狙ってたでしょ? そういう執着質な人って、ターゲット変えても追いかけてくるはず。それに昨日、私は怖くて声も出せなかった。……“いいカモ”だって、ロックオンされたと思う」
ふっと、あの気味の悪い手の熱さが蘇る。
吐き気がこみ上げる。でも、今はそれどころじゃない。奥歯を噛み締めて飲み込んだ。
「恐怖に震えて何も言わない女子中学生って、格好の餌食だと思ってる」
「……うわ、マジきっしょ……」
愛ちゃんが顔をしかめて、腕をさすった。
痴漢行為はハイリスクだ。もちろん、スリルを楽しむ異常者もいるが、捕まりたい奴はまずいない。捕まりそうになれば逃げる。
だからこそ、反撃してこない相手を選んで狙う。卑劣な手口だ。
「だから、私がやられると思う。犯行はたぶん、私たちがこの駅に帰ってくる、ドアが開く瞬間まで続くと思う。だから……」
俺は震える拳を握りしめた。
「手を出してきた瞬間、私がその腕を掴む。絶対に逃がさない」
美桜が、俺の肩に手を回してくる。
「朱音、大丈夫? ほんとにできる?」
「うん。……みんなが一緒にいると思えば、平気」
平気なわけじゃない。
でも、ここでそれを顔に出すつもりはなかった。
「私は朱音の位置を追う。離れても、何かあったらすぐ行くから」
「私は通報と、周りの人の確保」
愛ちゃんが真顔で言った。
「目撃してそうな人がいたら絶対つかまえる。逃がさない」
「私は相手の特徴、ちゃんと見る」
神田さんが小さく言う。声は震えていたけれど、目は逸らしていなかった。
「昨日みたいに、誰か一人に全部背負わせない」
全員の視線には、心配と信頼、そして張り詰めた緊張が混じっていた。
『まもなく、大宮行き電車が参ります――』
無機質なアナウンスが響く。
まずはこれに乗って、敵の待つ始発側へ向かう。
犯人を捕まえる。
その一点だけを、頭の真ん中に置いた。
大宮駅のホーム。
ターミナル駅の朝は、戦場そのものだった。
一旦人の流れから離れ、上頭駅方面へ向かう、昨日と同じ時間の電車を待つ。俺の服装は昨日と同じ、制服のシャツの上にベスト。
「……そろそろだね」
愛ちゃんが、緊張で少し上ずった声で言った。
「行こう」
俺はあえて、低く力強く言った。
その一言で空気が締まり、四人の目に覚悟の色が宿る。
恐怖で足がすくみそうになる。
それでも、前を向く。
ここで引いたら、昨日のまま終わる気がした。
乗車位置へ向かうと、相変わらず殺人的な混雑具合だった。
ホームの真ん中あたりまで、黒いスーツの列がびっしり伸びている。
電車が到着した。
プシュー、と音を立ててドアが開く。
その四角い開口部は、人を飲み込む地獄の入り口みたいに見えた。
入りたくない。
本能が拒否して、足が止まる。
昨日の圧力。熱気。逃げ場のない壁。
身体の方が先に思い出してしまう。
後ろから人の流れが迫ってくる。ここで立ち止まっていることさえ許されない。視界の端に、美桜の横顔が見えた。昨日の夜、抱きしめてくれた美桜が。
――行くんだ。
足が前に出た。
絶対、捕まえてやる。
俺たちが乗り込んだあとも、後ろから次々と人が押し込まれてくる。
背中をぐいぐい押され、また身体が浮く。
踏ん張ることさえ許されない圧力。
周りは?
美桜、愛ちゃん、神田さん、見えてるか?
まるで壁みたいな大人の背中に囲まれ、みんなの姿が見えない。
俺は呼吸を確保しながら、スマホを取り出して『+メッセージ』を開く。
まだ誰からもメッセージは来ていない。
朱音:私見える?
プシューッ。
ドアが閉まる音がして、一拍置いて電車が動き始める。
スマホが小さく震えた。
愛:ごめん無理、埋もれた
神田:私もダメ……全然見えない。マジやばいかも
美桜:私はなんとか。頭だけ見える。何かあったらすぐ行くから
愛ちゃんと神田さんはダメみたいだ。人波に呑まれてしまったらしい。
美桜だけは、かろうじて俺の頭が見える位置にいる。文面から、みんなの焦りが伝わってくる。
朱音:作戦通り行く
朱音:もし私が捕まえたり大声出したら、周りの人の顔覚えといて
朱音:最悪、目撃者になってもらうから
美桜:りょ。絶対見逃さない
他の二人からも、了承のスタンプが飛んできた。
電車は揺れながら進んでいく。
背中にじわりと冷や汗が流れてきた。これはベストを着ている暑さのせいだけじゃない。恐怖と、大人の匂い。整髪料、汗の匂い。熱気と酸素不足で、また胃の奥がせり上がるような気持ち悪さを感じる。
ガタンッ。
電車が横方向に大きく揺れた。
身体はなすがままに隣の人へぶつかり、押し返される。ブレーキがかかり、停車してドアが開く。
途中の駅だ。人が電車から吐き出されていく。
俺はそれに抗うこともできず、一度ホームへ押し出された。
外へ出ると、新鮮な空気が肺に満ちる。吐き気が少し和らいだ。
列の後ろの方へ並び直す。
周りを見ると、みんなと目が合った。はぐれてはいない。なるべく近くにいる。
再び、電車内に押し込まれていく。
みんなのところへ行きたいのに、無理だった。
なんでこんなに押してくるんだ。荷物じゃないんだぞ。
怒りを覚えながら流され、ようやく足場を確保できたのは、ドアの脇、手すり付近だった。愛ちゃんから聞いた、いわゆる“狛犬ポジ”だ。
俺はドアの方を向き、車内の人波に背中を向ける形で立つことになった。
背中をぎゅうぎゅうに押されて、肋骨がきしむような圧迫感はある。
それでも、顔の前に壁がないというだけで、精神的にはかなり楽だった。前後左右、百八十度人間に囲まれるのは、それだけで強いストレスになる。
視界が確保され、前方が安全だというだけで、少し息ができる。
ドアが閉まり、電車はまた動き出した。
俺は相変わらず狛犬ポジで、壁に顔がくっつくほどの距離で立っている。
背後からは、大人の男たちの圧力がのしかかっていた。
ふと、背中の感触が変わった。
ぐぐっ、と硬いものが押し付けられる。
スーツの身体じゃない。鞄だ。俺の腰のあたりに、誰かのビジネスバッグが強く押し当てられている。
……なんだ?
混んでいるから仕方ないのか。
いや、それにしても押し付け方が強い。
嫌な予感がして、背中に悪寒が走る。
昨日は、こんなやり方じゃなかった。
でも意図は同じだ。周りからの視線を鞄で遮って、その陰で犯行するつもりだ。
慣れてる。
その時だった。
鞄の圧迫感に紛れて――お尻が手に包まれた。
ブブッ。
タイミングを合わせたみたいに、手の中のスマホが震えた。




