第30話 再起の朝
スマホのアラームが鳴った。ジリリリ、という無機質な音が、薄い微睡みを切り裂く。
眠い目を擦りながらスマホを取り、慣れた手つきでアラームを止める。そうだ。今日も作戦がある。行かなくちゃいけない。
布団から這い出ようと上半身を起こした瞬間、冷たい空気が肌を直接刺した。違和感に視線を落とす。パジャマがない。一糸もまとわず、ただの素肌があった。
「……あ」
声が出たのと同時に、昨夜の記憶が一気に蘇る。 隣を見る。布団がめくれたことで、隣に寝ている美桜の白い裸体も露わになっていた。
「わ、わわっ」
俺は慌てて毛布を引っ張り、美桜の肩まで掛けて隠した。顔がカッと熱くなる。昨日のこと。熱、吐息、絡み合った指。恐怖を塗りつぶすために、身体が跳ねて、何度も啼いたことを……鮮明に思い出してしまう。
「ん……あ、朱音。おはよう」
布団が動いた冷気で、美桜も目を覚ましたみたいだ。 彼女がゆっくりと身体を起こす。毛布が滑り落ち、再び柔らかな肌が見えそうになる。
「っ!」
俺は反射的に顔を背け、残っている布団で自分の身体を隠した。直視なんてできるわけがない。
美桜は寝ぼけ眼のままベッドから降り、散らばっていたパジャマを拾って着直し始めた。衣擦れの音が止んだ頃、そっと美桜を見る。美桜も、顔が真っ赤だった。
俺も急いで下着をつけ、パジャマを頭からかぶる。 気まずい沈黙。でも、それは嫌な沈黙じゃなかった。
「……美桜」
名前を呼ぶと、美桜が顔を赤いまま、こっちを見てくる。その瞳は潤んでいて、昨日までの心配そうな色は消えていた。
「ありがとう……」
昨日まで身体にこびりついていた恐怖や、吐き気のような気持ち悪さは、美桜に寄り添われた気持ちで隅に追いやられていた。
恐怖が消えたわけじゃない。気持ち悪さが全部なくなったわけでもない。
「うん、良かった」
そう言って、美桜は安堵したようにニコッと笑った。 そして、少しだけ声を潜めて続ける。
「で、でも……その、あれはあんまり頻繁にはダメだからね。……心臓に悪いし」
「う、うんうん! 分かってる!」
俺たちは顔を見合わせて、照れ隠しに頷き合った。 美桜は嬉しそうに、でも少し恥ずかしそうに、着替えのために部屋を出て行った。
俺も制服に袖を通す。
鏡に映る顔は、昨日よりましに見えた。けれど、平気になったわけじゃない。ただ、立てるだけだ。
施設を出て、美桜と並んで自転車を漕ぐ。朝の風は爽やかだった。けれど、駅が近づくにつれて、胃の奥がじわじわ重くなっていく。
駐輪場に自転車を停める。鉄と埃の匂い。遠くから聞こえる、ガタンガタンという走行音。
その瞬間、背筋が硬直した。
改札が見えた途端、足が止まりかける。
昨日の圧力。密着した体温。逃げ場のない空間。脇腹を這い上がってきた指の感触。思い出したくもないのに、身体の方が勝手に思い出してしまう。
吐き気がこみ上げ、脂汗がにじむ。
身体が覚えている。「そこへ行くな」と、警鐘を鳴らしている。
「朱音」
横から、美桜が俺の手をぎゅっと握った。
「……大丈夫。私がいる」
その声で、ようやく呼吸を思い出す。
俺はゆっくり息を吸って、喉の奥の震えごと飲み込んだ。
「……うん。行くよ」
顔を上げる。
怖い。でも、それを見せるつもりはなかった。
改札を抜けると、ホームへの階段の下で神田さんと愛ちゃんが待っていた。二人は俺の姿を見た瞬間、目を見開いた。
「えっ……朱音ちゃん!?」
愛ちゃんが駆け寄ってくる。驚きより、怒りに近い顔だった。
「なんで来たの!? ダメだよ、今日は休んでなきゃ!」
「そうだよ!」
神田さんもすぐに詰め寄ってきた。
「昨日の今日だよ!? あんなに震えてたのに……無理しちゃダメ。今日は私たちだけでやるから、朱音ちゃんは帰って!」
二人とも本気だった。昨日の俺を見ていたからこそ、本気で止めてくれている。その優しさが痛いほど伝わる。
でも、だからこそ引けなかった。
「ううん。昨日の今日だからこそ、私がやらないと気が済まないの」
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
「私が囮になる。……やられたままじゃ、終われない」
二人が言葉を呑んだ。
守られるだけのまま終わりたくない。あんなことをされて、黙って引き下がるのはもっと嫌だった。
「……本気なんだね」
愛ちゃんが、呆れたように息を吐く。でもその目は真剣なままだった。
「止めても無駄だよ」
美桜が横から口を挟む。
「私が一番止めたんだから。……でも、朱音はやるって決めたら聞かない」
「……分かった」
神田さんが覚悟を決めたように頷く。けれど、その声にはまだ震えが残っていた。
「でも、次は絶対に一人にさせないから」
「うん。ありがとう」
俺は三人を手招きして、小さく輪を作った。
ここからは、感傷の時間じゃない。作戦の時間だ。
「聞いて。昨日ので分かったけど、あの中では思ったより簡単にバラける。だから最初から役割をはっきりさせる」
三人が黙って頷く。
「今日は私が狙われると思う。たぶん、昨日ので“声を上げないやつ”って見られてる」
言葉にすると、喉の奥が少しだけひりついた。
でも、そこで止まるわけにはいかない。
「だから、手を出してきたら今度は私が捕まえる。上頭駅に着いた瞬間でもいい。私は絶対に大声を出す」
「うん」
美桜が短く返す。顔つきが引き締まっていた。
「美桜は、できるだけ私の位置を見てて。離れても、何かあったらすぐ来てほしい」
「分かった」
「愛ちゃんは通報と、周りの人の確保。目撃してそうな人がいたら、絶対離さないで」
「任せて。そこはやる」
「神田さんは……無理して前に出なくていい。でも、もし近くで見えたら、相手の特徴をちゃんと見て。昨日みたいに、誰か一人に全部背負わせない」
神田さんがぎゅっと唇を結んでから、頷いた。
「……うん」
俺は拳を握る。
怖さは消えていない。今も、改札の向こうにあるあの空間を思うだけで、身体の奥がざわつく。
それでも、行く。
「私が引きつける。今度こそ、絶対に証拠を掴むから」




