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第29話 砕かれた理性と眠れない夜


 施設までは、なんとか自転車で帰った。ペダルが鉛みたいに重い。地面のアスファルトが目の前まで迫ってくるようで、平衡感覚が曖昧だった。


 帰り道、頭の中ではずっと同じ問いが回っていた。


 なんで、動けなかったのか。


 あの黒い革ベルトのアップルウォッチが見えた瞬間に、分かったはずだった。あいつは、俺に痴漢したあの男は、梨花さんを地獄に突き落とした張本人だ。


 あんな屈辱を、梨花さんは毎日受けていたのか。あの底なしの暗闇に、たった一人で耐えていたのか。


 なぜ捕まえられなかった。身体が押さえつけられていたから。身動きが取れなかったから。そんなのは、言い訳にしか思えなかった。やりようはいくらでもあったはずだ。隣の人にスマホの画面を見せて助けを求めるとか、足を踏んで騒ぎにするとか。知識はあった。元警察官の時に、被害相談に来た女性たちに偉そうに言っていたじゃないか。


 勇気を出して声を上げてください、と。


 それなのに、いざ自分が当事者になったら、身体を固めたまま震えていただけだった。


 被害者の気持ちは分かっているつもりだった。理解して、寄り添って、守る側に立っているつもりだった。


 何も分かっていなかった。


 情けない。悔しい。気持ち悪い。頭の中で、その言葉だけが何度も何度も回り続ける。



 施設に着くと、玄関で職員の千夏さんに迎えられた。俺の顔を見た瞬間、千夏さんの目が大きく開く。


「朱音ちゃん……何かあったの?」


 その声に、心臓が跳ねた。見透かされている気がした。


「あ、ちょっと……満員電車に酔っちゃって……」


 咄嗟に嘘をついた。自分でも分かるくらい雑な嘘だった。声も裏返っている。千夏さんは俺の目をじっと覗き込んだ。その瞳には心配と、それから、言わないだけで気づいているような色が混ざっていた。


「……本当に、それだけ?」


「う、うん」


 数秒の沈黙が落ちる。その数秒が、責められるよりずっと苦しかった。


 千夏さんは、ふっと表情を緩めて俺の肩を軽く叩いた。


「そっか。……もし言えないことがあるなら、いつでも聞くからね。無理しないで」


 踏み込まない優しさが、今は痛かった。俺は小さく頭を下げ、そのまま美桜に手を引かれて、逃げるように自室へ入った。



 部屋に戻って着替える。姿見に映った自分は、目が腫れぼったく、ひどく幼く、そして汚れて見えた。初夏なのに重ね着していたベストのせいで、背中は嫌な汗で張りついている。あの男の手の感触が、まだ皮膚に残っている気がした。


 ベッドに倒れ込む。泥みたいな疲労感に襲われて、朝が早かったせいもあって、そのまま意識が沈んでいった。


 暗い箱の中にいた。


 前後左右から壁が迫ってくる。いや、壁じゃない。無数の人の背中だ。息ができない。酸素が薄い。押しつぶされそうな圧迫感の中で、ぬるりとした何かが身体を這い上がってくる。逃げようとしても、手足は縫い付けられたみたいに動かない。声が出ない。助けて。やめて。黒い手が俺の口を塞ぎ、そのまま喉の奥にまで入り込んでくる――。


「はっ……!」


 目が覚めた。肺が空気を求めて喘ぐ。心臓が激しく鳴っている。部屋全体は薄暗くなっていた。夕方だろうか。夢だったのだと分かっても、すぐには呼吸が整わなかった。


「朱音、大丈夫?」


 隣には美桜が寝そべっていた。ずっと起きて、俺を見ていてくれたらしい。


「……なんか、うなされてたよ」

「うん。怖い夢、見てた。……息ができなくて、押しつぶされる夢」


 俺がそう言うと、美桜は痛ましそうに眉を寄せた。それ以上は何も聞かず、俺の頭をそっと抱きしめてくれる。その体温が、悪夢の余韻を少しずつ溶かしていった。


 食欲はなかった。でも、あの感触を洗い流したくて風呂に入った。美桜も当然みたいについてくる。いつもなら恥ずかしいのに、今日はその気配が少しだけありがたかった。


 シャワーで執拗に身体を洗う。右の脇腹。お尻。あの男が触れた場所を、肌が赤くなるまで擦った。それでも、汚れが落ちない気がした。


 泡を流し終えた、その時だった。美桜の手が、俺の背中に触れた。


「ひっ……!」


 喉から悲鳴が漏れた。反射的に身体が跳ねて、美桜の手を振り払うように身をよじる。心臓が破裂しそうだった。


「……あ」


 目の前にいるのは、驚いて手を引っ込めた美桜だった。傷ついたような、でも心配そうな顔をしている。


「……ごめん。ごめん、朱音。驚かせちゃった」

「ちが……ごめん、私こそ……」


 視界がちかちかした。美桜だと分かっているのに、身体が一瞬「接触」そのものを拒絶した。


「朱音……」


 美桜が、今度はゆっくりと、俺の目を見ながら手を伸ばしてくる。許可を取るみたいに、ためらいながら。


 このまま、触れられること全部が怖いままで終わりたくなかった。

 美桜の手まで、怖いものにしたくなかった。


 俺はそっと顎を上げた。


 唇が触れる。美桜の吐息。石鹸の香り。甘い匂い。


 美桜は急がなかった。時間をかけて、確かめるみたいに俺の唇を吸う。上書きするように。消毒するように。何度も、何度も。


 絡み合う舌先が、嫌な記憶を少しずつ塗り替えていく。震えがゆっくり止まり、身体の芯に熱が灯っていく。


 嫌じゃなかった。

 むしろ、そのぬくもりにしがみつきたかった。


「……ん」


 唇が離れる。名残惜しいみたいに、互いの口は少しだけ開いたままだった。俺の目頭から、自然と涙が滲んでいた。


「出よっか」

「うん」


 風呂から出て、新しいパジャマを着て部屋に戻る。



 身体は火照っているのに、精神はまだぼろぼろだった。神経だけが妙に尖っている感覚が続いている。美桜はベッドに座る俺の隣へ来て、何も言わずに肩を寄せた。


「……びっくりした」


 小さな声で、美桜が言う。


「朱音って、いつも平気そうな顔してるけど……全然、平気じゃない時あるんだね」


 それは、俺自身も突きつけられた現実だった。中身がどれだけ経験を積んだ男でも、この華奢な器では暴力みたいな恐怖に勝てなかった。


「うん……身体が、動かなくて。怖かった」


 口にした瞬間、また一筋、涙が溢れた。認めたくなかった弱音を吐くと、美桜は急いで俺の頭を胸に抱き寄せた。


「ごめん。言わせちゃった」

「ううん……今は、安心してるから」


 美桜の心音が聞こえる。その音だけが、今の俺をぎりぎりで繋ぎ止めてくれていた。


「朱音って、無理するじゃん」

「……うん」

「大丈夫なふり、しすぎ。今日くらい、もう頑張らなくていいよ」


 その言い方が、妙に胸に刺さった。


「でも……困ってる人は救いたい」

「分かってる。痛いほど分かってる」


 美桜が少しだけ笑う。でも、その笑顔の奥にはまだ心配が残っていた。


「だからこそ、壊れるまで頑張っちゃ駄目」


 俺は返事の代わりに、美桜の服の裾を指先でつまんだ。


「……今回は、駄目だった」

「ううん。駄目じゃないよ」

「でも、何もできなかった」

「何もできなかった人は、あんな顔しない」


 美桜はそう言って、俺の頬を両手で包んだ。


「怖かったのに、最後まで逃げなかったでしょ」


 その言葉に、少しだけ息が詰まる。

 逃げたかった。叫びたかった。全部投げ出したかった。なのに、それでもあそこに立っていた自分がいたのかもしれない。


「ねぇ、明日は……やめよ?」


 美桜の声が少し弱くなる。


「少し時間、空けた方がいいって。今日のままじゃ、しんどいよ」


 俺はその顔を見つめた。

 行きたくない。怖い。またあの気持ち悪さに足がすくむかもしれない。


 でも、このまま終わるのも嫌だった。

 梨花さんは、明日も来られないかもしれない。

 神田さんも愛ちゃんも、きっと気にしている。

 何より、自分だけ逃げたまま終わったら、たぶん俺はずっと今日のことに縛られる。


「……怖いよ」


 やっと、それを口にできた。


「うん」

「本当は、明日も行きたくない。思い出すだけで気持ち悪いし、また固まるかもしれない」


 言葉にすると、余計に喉が苦しくなった。


「でも……このまま終わりたくない」


 美桜が黙って俺を見る。


「逃げたくない。梨花さんのこともあるし……自分のためにも、終わらせたい。それに犯人を許せない」


 しばらく沈黙が続いたあと、美桜は小さく息を吐いた。


「……ふふ。そういうと思った」


 諦めたみたいで、それでいて優しい声だった。


「じゃあ、せめて一人で背負わないで」

「うん」

「怖くなったら、ちゃんと言って」

「うん」

「絶対、無茶しないで」

「……うん」


 何度も頷きながら、俺は美桜の肩に額を押しつけた。


 部屋の明かりを消す。

  美桜は諦めたように、でも嬉しそうに俺の手を握ってきた。部屋の明かりを消す。月明かりの中で、美桜の瞳が黒く艶っぽく輝き出したように見えた。


 目を瞑ると、吸い付くように唇が重なった。さっきの風呂場とは違う。慰めじゃない。求めるように、まるで別の生き物のように唇が開く。甘い吐息が混じり合い、舌が交わる。


 パジャマの裾が捲れ、ひんやりとした手が競り上がってくる。火照った身体が、その冷たさで逆に熱を増していく。手は腹部を通り、背中を通り、胸を包む。


 ――だめだ、と理性が囁く。

 でも、拒めない。 傷ついた心が、身体が、美桜を求めている。大人としての責任も、倫理も、今はどうでもよかった。ただ、この温もりに溺れて、恐怖を忘れたい。


 気がつくとパジャマはなくなり、直接体温を交換していた。


 美桜の目に、今の俺はどう映っているか分からない。ただの弱い少女か。でも、今は全てを受け入れていた。


 最後の一枚もなくなり、お互いがお互いの色に染めていく。堕ちていく感覚と、浮上する感覚が混ざり合う。


 俺たちは暗闇の中で、静かに一線を越えた。



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