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第28話 狩られる側


 今日は何もなかった。


 スマホの画面を見つめながら、俺は残念とも安心ともつかない、中途半端な感情を抱いていた。神田さんに被害がなくてよかった。でも、犯人を逃した悔しさもある。このままだと、梨花さんは学校に来られない。


 そんなふうに、息を吐こうとした――。


 その時だった。


 右の脇の下に、手が滑り込んできた。


 最初は、気のせいだと思った。この密着状態だ。誰かの手が偶然当たってしまったんだろう。満員電車ではよくあることだ。そう思おうとした。


 でも、違う。


 手のひらの熱が、脇腹にじっとりと押し当てられている。それも、電車の揺れに合わせて、わざとらしく深く入ってくる。背筋に、ぞぞっと虫が這うような悪寒が走った。


 今は鞄の上でスマホを持っているせいで、腕が固定されている。急に脇を閉めることもできない。俺はスマホを左手に持ち替え、慌てて右の脇を締めた。異物を挟み込む感触。手の甲の骨の硬さが伝わってくる。


 脇に入り込んだ指が、うごめいた。あろうことか、横乳のあたりを探るように触ってくる。


 満員電車で身体がロックされていて、捻って逃げることもできない。なんとか身体をよじろうとするけれど、周りの圧力で数ミリも動かない。脇にある強烈な違和感に、身の毛がよだった。


 指は相変わらず、胸の膨らみの横あたりを、食い込むように押してくる。頭がパニックになり、真っ白になる。


 な、なんで。お、俺は男だぞ。


 ……いや、今は違う。今は、ただの小柄な女子中学生だ。端から見れば、格好の獲物だ。


 脇に力を入れても、手はまったく引いてくれない。恐る恐る視線を下に向けると、俺の脇から指先が覗いていた。ごつくて、節の太い、大人の男の指。それが、胸に向かって折りたたまれるように動いている。


 身体を捩っても抜けない手に、俺は生まれて初めて「捕食される側」の恐怖を覚えた。


 はやく、抜けてくれ。やめろ。これは絶対、わざとだ。


 スマホを鞄の上に置く。もうこの際、落ちてもいい。この指をどうにかして引き剥がしたい。気持ちが悪い。吐き気がする。


 俺が左手で男の指を押し出そうと触れた、その瞬間。


 ガタタンッ――


 電車が大きく揺れた。


 周りの人の波に合わせて、俺の身体もぐらりと揺れる。反射的に、落ちそうになったスマホを押さえた。その拍子に体勢が崩れ、脇ががら空きになる。


 その時、見えた。


 男の手首。袖口から覗く、黒い革ベルト。四角い文字盤の、アップルウォッチ。右手に付けている。


 ――こいつだ。


 手が抜けて、やっと解放された。心臓が早鐘を打っている。ばくばくとうるさい。右脇には、まだ男の体温がへばりついているような、生々しい違和感が残っていた。


 今いる場所が満員電車ではなく、底のない暗闇の中にいるようだった。まるで狭い井戸の底に、一人で放り込まれたみたいな閉塞感。


 落ち着け。落ち着いてくれ、俺。とりあえず頭の中のパニックを抑えないと。犯人はすぐ後ろにいる。顔を見れば、確保できれば――。


 その時。


 今度は、お尻に何かが当たった。


 え。嘘だろ。まさか、そんな。


 それは、脇の時よりも、あまりにもリアルな感触だった。


 下から上へ。スカートの布越しに、お尻の曲線に沿って、指が這い上がってくる。


 曲線と曲線の間に、指が収まる。


 まるで、柔らかいものを確かめるように。あるいは、自分の所有物だと主張するように。包みこまれるように、掌が押し当てられる。


 ゆっくりと、確実に、柔らかさを確かめるように蠢いている。


 布が足を駆け上がっていく。


 や、やめて……。


 異物が太ももを駆け上がってくる。


 声が出なかった。身体が硬直して、指一本動かせない。


 その瞬間、はっきり分かった。


 思った通りだ。

 こいつは、梨花さんだけを狙っていたんじゃない。


 この路線で、声を上げない女を探している。動けない相手を見つけて、何度でも手を出す。梨花さんが来なくなったから、次の獲物に手を伸ばしただけだ。


 俺は、ただそこにいただけで、狙われた。


 プシューッ。


 気の抜けた音が響き、ドアが開いた。人の波が一気に外へ雪崩れ込み、俺は正面から押された。


 抵抗する力もなく押し出され、気がついたら、電車の外に出ていた。ホームの冷たい空気が肌に触れる。


 大きな波はそのまま階段へ吸い込まれていく。俺は、人波に取り残された石みたいに、ただ立ち尽くしていた。


「……来なかったね」

「ねー。もぉー、捕まえたかったのに」


 神田さんと愛ちゃんの会話だった。残念そうな、でもどこかほっとしたような声。

 それが、どこか遠い国の会話みたいに聞こえる。


「……朱音?」


 美桜の声だ。いつもなら安心するはずのその声が、今は鼓膜を揺らすだけで、頭に入ってこなかった。身体がコンクリートで固められたみたいに動かない。


 空気だけが冷たい。

 もう電車は止まっているのに、身体の中だけがまだ揺れていた。


 ホームに人が流れていく。足音。アナウンス。階段へ向かう背中。全部見えているのに、現実味がない。自分だけ、まだあの車内に取り残されているみたいだった。


 今まで、生活安全課として痴漢の犯人は何度も捕まえてきた。あるいは、鉄道警察隊が捕まえた犯人を引き継ぎ、取り調べをしたこともあった。


 通報があるたびに、被害者のために犯人を許さないという義憤はあった。嘘じゃない。

 でも、心のどこかで事務的に処理していたのも事実だ。


 またか。

 調書を取りながら、そんな乾いた感想を抱いていた過去の自分を、今すぐ殴りつけてやりたい。


 こんなにも、尊厳を踏みにじられるのか。

 こんなにも、身体の奥まで泥を流し込まれたみたいな絶望感を味わうのか。


 被害者の気持ちは分かっているつもりだった。

 知識も、対応も、手順も、全部知っているつもりだった。


 ――何も分かっていなかった。


 気持ちの上では、元男性として、元警官として、今すぐにでも捕まえたかった。あいつだ。あの腕時計。

 でも、無理だった。膝が笑って、指先が震えて、一歩も動けなかった。


 その時、美桜に手を握られた。神田さんと愛ちゃんも、俺の異変に気づいて駆け寄ってくる。


 大丈夫。大丈夫。

 俺は大人だ。こっちは被害者役じゃない。今は心配させたくない。いつもの強い朱音に戻らなきゃいけない。


 俺は顔を上げて、美桜を見た。


「……うん、大丈夫」


 そう言った瞬間、自分でも分かった。

 全然、大丈夫じゃない。


 精一杯、笑ったつもりだった。でも視界が歪んだ。笑顔を作ったはずの頬を、熱いものが伝って落ちた。


「え、朱音ちゃん……?」


 愛ちゃんが息を呑む気配がした。次の瞬間、美桜が俺を強く抱きしめた。


「朱音っ……!」


 美桜の匂い。温かさ。心臓の音。

 張り詰めていた糸が、そこで完全に切れた。


 俺は美桜の肩に顔を埋めた。


 心の片隅では、大人の男の理性が「正気に戻れ、状況を整理しろ」と叫んでいる。でも、心の大部分が、少女の身体の痛みと恐怖で悲鳴を上げていた。


 ホームのベンチに座り、しばらく動けなかった。美桜はずっと背中をさすってくれていた。神田さんと愛ちゃんも、何も言わずに近くにいて、壁みたいに周りを塞いでくれていた。その体温がじわじわと染み込んで、ようやく震えが少しずつ収まっていった。


 どれくらい経ったのか分からない。

 目の前の電光掲示板の数字が、ぼやけた視界の中で少しずつ輪郭を取り戻す。


 『08:45』


「あ……学校……」


「朱音、もう少し落ち着いた?」


 三人が覗き込んでくる。その目にあるのは、純粋な心配だけだった。


「朱音ちゃん……何があったの?」


 神田さんがおそるおそる聞いてくる。

 そういえば、何も言っていなかった。ただ泣いて、座り込んだだけだ。


 俺は乾いた唇を開いた。


「た、多分……梨花さんと同じ人。その……」


「え、え?」


「……うん」


 俺がこくりと頷くと、それだけで三人には伝わったみたいだった。空気が凍りつく。美桜が俺の手を握る力を強めた。痛いくらいに。


「今から警察に言おう!」


 神田さんが立ち上がって言った。


「駅員さんでもいい。今すぐ!」


 その声には、はっきりと自分を責める響きが混ざっていた。

 私が言い出したせいで。私が乗ろうって言ったせいで。

 口にしなくても、それが分かる顔だった。


 確かに正論だ。普通の判断だ。もし俺が第三者なら、そう勧めるだろう。


 でも――俺の中の“元警察官”が、冷徹に首を横に振る。


 満員電車での「触られた」という事後報告だけ。犯人の顔は見ていない。特徴は腕と靴だけ。駅の防犯カメラで追うにも、この時間帯の人の波から特定するのは至難の業だ。車内防犯カメラも、今日乗った古い車両には付いていなかった。


 相手を特定できたとしても、否認されたらどうする。やってない、冤罪だと叫ばれたら。こっちの手元には、犯行の瞬間を映した動画もなければ、決定的な証拠もない。現行犯で押さえられなかった今、証拠が乏しすぎる。


 警察に行けば、俺は何度もあの感触を説明させられる。調書を取られる。どこをどう触られたか、どの順番だったか、何度でも言葉にさせられる。

 今の俺には、それに耐えるだけの気力がない。


 それでも結果は「捜査します」で終わり、犯人はまた明日も電車に乗るかもしれない。


 捕まえるなら、現行犯しかない。証拠を持って、逃げられない状態で突き出すしかない。今は――その時じゃない。


 それが、俺の頭の中での計算だった。

 でも、それを説明する気力も、言葉も、今の俺には残っていなかった。


「い、言いたく……ない」


 三人が驚いた顔をした。上手く話せなくて、肩が震えている。


「いまは、まだ……誰にも、言えない」


 俺が震える声で言うと、神田さんがはっとして、またその場にしゃがみ込んだ。そして、俺の手をぎゅっと包み込む。


「分かった……ごめんね。ごめん。無理言って。分かったから、大丈夫だから……」


 神田さんの目にも涙が溜まっていた。

 自分のせいだと思っているのかもしれない。


 違うんだ。これは俺の判断ミスで、俺の弱さなんだ。

 そう思いたいのに、そう言い切れない自分が、また嫌だった。


「……今日は、帰ろう」


 美桜が静かに言った。


「今日は、学校、みんなで休も」


 愛ちゃんも無言で頷く。


 俺たちは改札を出て、逃げるようにそれぞれの帰路についた。俺は美桜に支えられながら、施設への道を歩く。


 一度、撤退だ。


 負け犬みたいに震えながら、俺はアスファルトを見つめた。




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