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第27話 満員電車の中で

 午前六時に起きた。


 薄いカーテンの向こうは、もう白んでいる。鳥の声が遠くて、空気がひんやりしていた。

 目が冴えている。昨日からずっと、頭のどこかが熱いままだ。


 今から着替えて駅へ行く。そこから大宮まで出て、梨花さんがいつも乗る七時十五分の電車に乗る。

 梨花さんは大宮方面から通ってくる。だから俺たちも一度そこまで戻って、同じ電車に乗る。


 ただの通学って顔をしながら、俺たちは今日、違うことをやる。


 目を動かすと、横で美桜が寝ていた。無防備な横顔。口元が少しだけ緩んでいて、寝息が規則的だ。胸の奥がほんの少しだけ落ち着く。起こすのがもったいなくて、そっと髪を指で掻き分けた。


 その瞬間、美桜のまぶたがふわっと開く。


「あ……朱音。おはよ……」


 声がまだ眠っている。


「おはよう。起こしちゃったね」

「ううん、起きる。……今日、でしょ? すぐ準備する」


 そう言って、美桜は自分の部屋へ戻っていった。寝起きなのに、いつもよりずっと動きが早い。


 俺も体を起こして制服に着替える。シャツのボタンを留める指が、いつもより落ち着かない。鏡に映る自分は眠そうな中学生の顔をしているのに、中身だけが妙に冷静で、そして焦っている。


 昨日のうちに千夏さんには伝えてある。もちろん、『痴漢を捕まえる』なんて言っていない。言えるわけがない。


『友達が怖がって学校に行けなくなりそうで……心配だから、しばらく一緒に通学します』


 嘘をついた。

 でも、本当のことを言ったら、ここまで来られなくなる。


 自転車で最寄りの上頭駅へ向かう。朝の道は静かで、アスファルトが少しだけ湿っていた。コンビニの前で新聞を取る人、ゴミ出しをする人。みんな、いつも通りの日常の顔をしている。


 ――俺たちだけが、その皮の下に潜るみたいで落ち着かなかった。


 駅前で自転車を停め、改札へ急ぐ。蛍光灯の白い光が、まだ眠い目に刺さった。改札を抜けたところで、愛ちゃんと神田さんがもう待っていた。二人とも、いつもより口数が少ない。


「ごめん、待った?」

「ううん、全然」


 愛ちゃんが小声で答える。明るく振る舞おうとしているのが分かった。


「……おはよう」


 神田さんは、笑おうとして笑えない顔のまま、小さく頷いた。


 ホームへ上がる。発車案内板、ベンチ、風にめくれるポスター。全部いつも通りなのに、空気だけが固い。初夏のはずなのに体感は寒い。手のひらに汗がにじみ、呼吸が浅くなりそうになる。


 ――本当にうまくいくのか。

 ――作戦に抜けはないか。

 ――犯人は、どんな顔をしている?


 疑問が浮かんでは沈み、沈んでは浮いてくる。



 やがて、大宮行きの電車がホームに滑り込んできた。


 無機質なブレーキ音に背筋が強張る。

 俺たちは無言のまま乗り込み、車内の端に固まった。


 大宮駅に着くと、空気はもう別物だった。

 人の数が、上頭駅とは段違いだ。階段を上がるたびに肩がぶつかり、アナウンスが何層にも重なって聞こえる。エスカレーターのゴムの匂い、人の匂い、湿気を含んだ熱気。音も匂いも多すぎて、頭が一瞬で疲れる。


 大宮はターミナル駅だ。十数本の路線が混じり、新幹線も停まる。この時間帯、ホームに入ってくる電車はどれもすし詰め状態だった。


 梨花さんが乗るのは、七時十五分、先頭から二両目。神田さんから聞いている。


 ホームの端に寄って、最後の確認をする。


「神田さんは制服のまま。犯人に気づかれないように、普通に乗る」

「うん」


「私たちは制服を隠す。なるべく近くにいて、何かあったら証拠を押さえる。撮れそうなら撮る。無理なら位置と相手の特徴を覚える」

「私は通報と、周りの人に声かける役ね」


 愛ちゃんが真顔で言った。


「目撃してる人がいそうなら、絶対つかまえる」

「私は朱音の位置を見る。離れても、何かあったらすぐ行く」


 美桜がそう言って、俺を見る。


「神田さんは、もし触られたらできるだけ手を掴んで、大声を出す。上頭駅に着いた瞬間でもいい。駅員に引き渡すところまでやる」

「……うん。頑張る」


 神田さんは小さく息を吸って頷いた。唇の色が少し白い。


 俺たちはそれぞれ鞄から上着を取り出して羽織った。神田さんだけが制服のまま。今日は“被害者役”だ。俺は薄手のベスト、美桜はパーカー、愛ちゃんはウィンドブレーカー。


 初夏の湿気を含んだホームで重ね着をするのは不快だった。汗がじわりと滲む。でも脱ぐわけにはいかない。制服のまま四人固まっていたら、それだけで目立つ。犯人が警戒してしまえば、犯行に及ばないかもしれない。だから、俺たちはただの乗客に紛れる必要があった。


 七時十分。一本前の電車が出た直後で、ホームの空気が一瞬だけ緩む。でも、すぐに雪崩みたいに次の列が積み重なっていく。


「……そろそろだね」


 美桜が小さく言った。


「うん」


 愛ちゃんも神田さんも、頷くだけだった。


 犯人の特徴は聞いている。

 顔は見ていない。


『腕に黒い革ベルトのアップルウォッチ。靴は茶色の革靴。スーツ姿』


 俺は視線を走らせた。


 ……だが、三秒で諦めた。


 無理だ。

 視界を埋め尽くすのは、無数のスーツ、無数の背中。似たような格好のサラリーマンが何百人もいる。この濁流みたいな人混みの中で、特定の腕時計や靴を探すなんて不可能だ。


 ホームでの索敵は捨てる。

 勝負は、密室になってからだ。


 そして、電車が来た。


 中から大量の人が吐き出され、列が扉の位置に合わせてうねり、空いた隙間へ一斉に押し込まれていく。中の人が出尽くしたと思った瞬間、今度はこっちが飲み込まれる番だった。


 俺も、その流れに呑まれた。


 車内に入った瞬間、熱気が顔にぶつかった。背中を押され、肩がぶつかり、足が床から少し浮く。

 ――いや、浮いた気がしただけだ。体が軽すぎる。


 肩の高さが、周りの肘や鞄と同じだった。

 視界が急に「壁」になる。


 大人の頃なら、混雑の中でも顔の高さは確保できた。胸や肩で空間を作れたし、圧の方向も読めた。今は違う。目の前にあるのは、スーツの背中、布、リュックの底。息を吸うだけで、他人の服の匂いが直接喉に落ちてくる。柔軟剤と汗。情報が多すぎて、頭が一瞬で飽和した。


 吊り革は遠い。背伸びしても指先が届くかどうかだ。手を伸ばした瞬間、誰かの腕が頭上を横切って、髪が揺れた。反射的に肩をすくめる。


 押し返せない。

 支えを取れない。

 立っているだけで精一杯だった。


 ――近い。怖い。


 俺はスクールバッグを体の前で抱え込む。この形がいちばん“女子の防御”だと分かっていても、まだ慣れない。でも守らないといけない。


 ドアが閉まり、電車が動き出した。加速の瞬間、全員の重心が同じ方向に傾き、俺の身体が一気に流される。踏ん張ろうとしても足が細い。靴の中で指が滑る。


 気づいた時には、神田さんの位置から引き剥がされていた。間に大柄な男性が二人入り込み、美桜の姿も見えない。


『くそっ……!』


 これじゃ意味がない。神田さんの近くにいなければ、証拠も押さえられないし、助けにも入れない。


 次の駅で停車した。扉が開き、人が吐き出され、また雪崩れ込んでくる。車内の圧力がさらに増した。肋骨がきしむような圧迫感。


 俺はその圧力に逆らわず、むしろ利用した。人が動く一瞬の隙間。そこに体をねじ込む。足を踏まれても、鞄が腹に食い込んでも構わない。


 心の中で、ごめん、ごめん、と唱えながら、人の壁を押しのけるんじゃなく、魚みたいに隙間を滑る。執念だけで少し戻った。


 なんとか、神田さんが見える位置までたどり着いた。間に一人挟むけど、視界は確保できる。ここなら、まだいける。



 隙間から、神田さんの横顔が見えた。


 彼女はスマホを凝視していた。ただ立っているように見える。でも、スマホを持つ指先は白く強張り、小刻みに震えている。首筋は蒼白だ。周りの男全員が敵に見えているはずだった。吐きそうなほどの恐怖を、奥歯を噛みしめて耐えている。


『待ってて。絶対、捕まえるから』


 俺はスクールバッグの上にスマホを置くようにして、通知を確認した。グループ用の『+メッセージ』。


 美桜:朱音、離れちゃったけど大丈夫?

 朱音:うん、位置少し戻した。大丈夫

 愛:よかった。何かあったらすぐ動くね

 神田:こっちはまだ何もないよ……


 電車が走る音が、やけに遠く聞こえた。


 今日はこんな思いをしても、空振りかもしれない。同行して張る捜査でも、空振りは珍しくない。被害者役は気まずそうに「ありがとうございました」と言って終わる。そういう日もある。


 今日も、ただそういう日だっただけかもしれない。


 そう思いたかった。


 ――そう思った、次の瞬間だった。



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