第26話 来れなくなった友人
第26話 来られなくなった友人
言葉が、詰まった。
視界の端で、神田さんの指がスカートの裾をぎゅっと握りしめているのが見えた。
「……梨花ね、毎日、電車で痴漢されてるらしいの」
その一言が落ちた瞬間、背中がぞくりとした。
教室のざわめきが、急に遠い場所の音みたいに遠のいていく。
「警察に言うのは怖いって。恥ずかしいし、親にも言えないって……。でも、もう限界だって泣いてて……。……ねえ、朱音さん。助けてあげられないかな?」
俺は一瞬、意識が揺らいだ。
窓の外は初夏の日差しで明るいのに、ここだけ冷たい水の底に沈んだみたいだった。まさか、同じ学校に被害者がいるなんて。しかも、毎日。
「……あとで、詳しく聞かせて。梨花さんのこと」
桑名梨花。
同じ学年で、神田さんとよく一緒にいる大人しい子だ。廊下ですれ違えば会釈するくらいの、本当に普通の女の子。
「ありがとう、朱音さん」
「ううん。放課後……図書室でいい? 今日もたぶん、美桜と私しかいないから」
「うん、分かった」
ふと気配を感じて前を見ると、前の席の愛ちゃんが椅子に逆向きに座り、背もたれに顎を乗せてこちらを見ていた。いつものおちゃらけた顔じゃない。真剣な目で、こくりと頷く。
「あ、愛ちゃんも来るの?」
「当たり前じゃん。仲間外れにしないでよね」
愛ちゃんはむっとしたように頬を膨らませた。
「ここまで、どれだけ危ない橋を一緒に渡ってきたと思ってるの。こういう話ほど、一人でも多い方がいいでしょ」
「……うん」
「それに……あんた一人だと、また無茶しそうだし」
その言い方に、少しだけ救われた。
気になることは山ほどある。でも、今は梨花さんのことを考えるのが先だった。
放課後。
西日が長く伸びる図書室の隅。閲覧スペースに、俺、美桜、神田さん、愛ちゃんの四人が揃った。古紙の匂いと、埃が舞う光の中、他に人の気配はない。
全員が揃ったのを確かめてから、神田さんが重い口を開いた。
「これ、絶対に誰にも言わないでほしいんだけど……」
そう前置きして、神田さんは絞り出すように話し始めた。
「もう知ってると思うけど、梨花、ここ一週間くらい学校に来てないでしょ。期末も近いし心配で、一昨日電話したんだけど……休んでる理由、体調不良って言ってたの。治れば学校に行くって」
神田さんは俯いて、膝の上で拳を握る。
「だけど、電話切って少ししてから、『もう怖くて学校に行けない』ってDMが来たの。びっくりして、すぐまた電話したら……梨花、泣いてて」
話している神田さんの声も、かすかに震えていた。
「そしたら……毎日、電車で痴漢されてたみたい」
分かっていたことなのに、改めて聞くと心臓が嫌な音を立てた。
「最初は、たまたま混んでただけだと思ったらしいの。でも、次の日も、その次の日も同じで……。時間をずらしたり、乗る車両を変えたり、駅を変えたりもしたんだって。でも、すぐ見つかって……また同じ人に触られるって」
俺は息を止めた。
時間をずらしても駄目。車両を変えても駄目。駅まで変えても駄目。
そこまで聞いて、ようやく胸の中の違和感がはっきりした。
偶然じゃない。
少なくとも、犯人は梨花さんを見つけて、狙って、近づいている。
「……それ、かなり悪質だね」
自分でも驚くくらい、声は低かった。
「うん……」
神田さんは小さく頷いた。
「怖くて、恥ずかしくて、警察にも親にも言えないって。私も説得したんだよ。そんなやつ捕まえようよって。でも、人に言うくらいなら、もう学校行かない、死にたいって……」
唇を噛む神田さんの姿に、胸が締めつけられる。
性犯罪の被害は、言い出せない人が圧倒的に多い。恥ずかしさ。自分にも隙があったんじゃないかという自責。相談したら根掘り葉掘り聞かれて、あの嫌な感覚をもう一度なぞらされる苦痛。特に思春期の未成年には、そのハードルは高すぎる。
「それに……梨花のお母さん、シングルマザーで、朝から晩まで働いてるの。梨花、前からすごく気にしてて……これ以上、迷惑かけたくないって」
図書室の空気が、さらに重くなる。
教室じゃなくここを選んだ理由が、ようやく分かった。こんな話、誰にでも聞かせられるものじゃない。
「昨日ね、私、朝早くに梨花の家まで迎えに行ったの」
神田さんの声が、少しだけ強くなった。
「最初は出てこなかったけど、しばらくして、ちゃんと制服着て外まで出てきてくれたの。だから、このまま一緒に行けるって思った。……でも、駅に向かう前に、急にその場でしゃがみこんじゃって」
俺は顔を上げた。
「気持ち悪いって。怖いって。やっぱり無理って。電車のこと考えたら吐きそうになるって……」
神田さんの目に涙が滲む。
「それで、また家の中に戻っちゃった。玄関、閉まって……そのまま」
胸の奥が、重たく沈んだ。
それはもう、ただの欠席じゃない。
通学そのものが、恐怖で潰されている。
「私、一緒にいれば大丈夫だよって言ったのに……何にもできなかった」
神田さんはうつむいたまま、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「悔しくて。見てるだけしかできなくて。あんなふうに怯えてるのに、私は隣にいるだけで……」
その時、愛ちゃんが小さく息を吐いた。
「……もう、それ普通に限界じゃん」
「うん」
神田さんは頷く。
「だから、もう無理なんだと思った。このままだと、梨花、本当に学校来られなくなる」
沈黙が落ちる。
窓の外では、部活帰りの生徒たちの笑い声が聞こえるのに、ここだけ別の季節みたいだった。
俺の頭の中でも、情報が一つずつ整理されていく。
同じ人間。繰り返し。逃げても追いつかれる。声を上げられない相手を狙っている。
嫌な手合いだ。放っておけば、被害はもっと深くなる。
元警察官としての感覚が、静かに冷えていく。
こういう奴は、止めなければ続ける。やめない。相手が壊れるまで、あるいは捕まるまで。
一時の快楽と支配欲のために、子どもの日常を平気で踏み潰す。
許せるわけがなかった。
「あ、朱音ちゃん……目、怖いよ」
ハッと我に返る。
愛ちゃんが少し引いた顔でこちらを見ていた。隣に座る美桜が、そっと俺の手を握ってくる。その温度で、ようやく現実に引き戻された。
「朱音。一人で考えないで」
美桜が、覗き込むように目を合わせてくる。
怒りごと受け止めてくれるみたいな目だった。
「うん。ごめん。……ちょっと、腹が立って」
そう言って息を吐く。
本当は大人を巻き込んだほうがいい。それは分かっている。だけど、無理に通報して、それで梨花さんがもっと追い詰められるのも目に見えていた。
それでも、このままあの子が学校に来られなくなるなんて、あまりに理不尽だ。
「……もう、頼れるのは朱音ちゃんしかいないと思ったの」
神田さんが、涙をこらえながら言った。
「どうしたらいいか、私じゃ分からなくて。でも、このまま何もしないのだけは嫌で……」
その言葉には、依存というより切実さが滲んでいた。
「私、明日、梨花と同じタイミングで電車に乗る」
沈黙を破ったのは、神田さんだった。
「だから、犯人をみんなで捕まえよう!」
「それは危ないよ!」
俺は食い気味に止めた。
「囮になるってことでしょ。何されるか分からないんだよ!」
「分かってるよ!」
神田さんも、珍しく強い声を出した。
「でも、もう見てられないの。今日の梨花、ほんとにひどかった。外に出ただけで吐きそうになって、立てなくなって……あんなの、もう限界じゃん」
その声は怒鳴っているというより、泣きそうだった。
「このままじゃ、あいつ何もなかったみたいに明日も電車に乗るんでしょ? また誰かに触るんでしょ? そんなの、もう嫌だ」
神田さんは制服のスカートを強く握りしめた。
「私だって怖いよ。でも、前みたいに助けられるだけで終わりたくない。今度は、友達のために動きたいの」
その顔は、前みたいな無鉄砲さとは違っていた。
強がりは混ざっている。でも、それ以上に、逃げたくないという必死さがあった。
「……一人じゃ危ない」
そう言ったのは愛ちゃんだった。
「やるにしても、人数はいた方がいい。神田だけに任せるとか、もっと無理」
愛ちゃんは腕を組み、珍しく真顔で続ける。
「私も行く。近くに人が多い方が、相手もやりにくいし。何かあった時、叫ぶ人間も一人じゃない方がいい」
美桜も頷いた。
「私も行く。朱音を一人にしない」
三人の視線が集まる。
俺は、その重さを受け止めながら考えた。
本来なら、こんなのは大人がやるべきことだ。
警察に相談して、被害者の了承を取って、もっと安全な形で動くのが筋だ。
でも、今はその筋道に梨花さんが耐えられない。
だったらどうする。
何もしないまま、あの子が学校から消えていくのを見ているのか。
俺は頭の中でシミュレーションをする。警察には『同行警乗』という捜査手法がある。私服警官が被害者に寄り添い、犯行現場を確認して現行犯逮捕するものだ。だが、今回は梨花さん本人が拒否している以上、警察は動けない。それに、神田さんは被害者ではない。警察官に「女子中学生を囮にして痴漢されるかもしれないから、一緒に同行してほしい」なんて、口が裂けても言えない。
答えは、もう出ていた。
「……絶対、無茶はしないこと」
俺はゆっくり言った。
「少しでも危ないと思ったら、すぐやめる。捕まえることより、まず自分たちが無事でいること。そこを守れないなら駄目」
三人が、黙って頷く。
「その上で……やるなら、明日の朝だね」
その瞬間、張りつめていた空気が、ほんの少しだけ動いた。
「うん」
神田さんが、はっきり頷く。
「任せて。……私、今度は逃げないから」
夕暮れの図書室。
俺たちは顔を見合わせ、翌朝の決行を決めた。
でも――これが正しいやり方じゃないことくらい、最初から分かっていた。




