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第25話 火種


 あのパパ活誘拐事件から、二ヶ月が経った。


 時間というのは残酷で、同時に優しい。

 あの忌まわしい記憶は、少しずつ日常の喧騒に上書きされていく。


 いや、正確には違う。

 思い出さない時間が増えただけだ。


 ふとした瞬間に、潮の匂いも、冷たい鉄の感触も、息が詰まるような恐怖も戻ってくる。

 それでも俺たちは、前に進くしかなかった。


 神田さんも、学校に戻ってきた。


 最初の頃は保健室登校で、教室には顔を出さずに帰っていた。クラスの空気も腫れ物に触るみたいで、みんな気にしているのに何も言えない。

 優しさって、こういう時いちばん不器用な形をする。


 その停滞した空気が少し動いたのは、ある日の放課後だった。



 図書室の窓際。

 俺と美桜は、部活の延長みたいに並んで本を読んでいた。


 西日が棚の背表紙をオレンジ色に焼き、古紙の甘い匂いが漂っている。ページをめくる音と、遠くで誰かが椅子を引く音だけが支配する静寂。


 そこに、神田さんが現れた。


 足音が近づいた時点で、俺は気づいていた。

 顔を上げると、書架の影に神田さんが立ちすくんでいる。制服の袖をぎゅっと握りしめ、小動物みたいに震えていた。


「あ、あの……」


 声が喉で張りついている。

 言葉にしたいのに、音にならないようだった。


「あ、あ……」


 俺は席を立ち、ゆっくり彼女に向き合った。

 ふと神田さんの手を見ると、制服の袖を握る指が微かに震えていた。


 俺はその両手を、そっと包み込む。

 氷みたいに冷たい。


「神田さん」


 できるだけ柔らかい声を作る。


「……またさ、一緒に学校で遊ぼうよ」


 口から出たのは、拍子抜けするくらい普通の言葉だった。

 でも、“普通”こそが、地獄を見た彼女がいちばん欲しかったものだと思ったから。


 神田さんは瞬きを繰り返し、唇を噛んだ。


「う、うん……っ、ありがとう。……ほんとに、ありがとぉ……」


 声が決壊した。


 神田さんは糸が切れたみたいに、その場に崩れ落ちた。床にぽろぽろと涙の染みができる。


 俺も引かれるようにしゃがみ込み、視線を合わせた。


 彼女の心には、一生消えないかもしれない傷がついた。

 最初はただの背伸びだったのかもしれない。ちょっとした冒険心。大人の世界を覗き見たいという好奇心。


 でも、その代償はあまりにも大きかった。

 一人の少女が受け止めるには、あの事件の狂気は重すぎたのだ。


 現実の闇は深い。

 インターネットという窓のせいで世界は繋がった。けれど同じだけ、狂気もすぐ隣で息を潜めている。あの時、たまたまその牙が神田さんに向けられた。それだけのことだ。


「……無事で、よかった」


 声が掠れた。

 俺は神田さんを抱きしめた。腕の中で小さく嗚咽する背中を、ただ撫で続ける。


 ひとしきり泣いたあと、神田さんは充血した目のまま、へにゃりと笑った。


「……図書室、久しぶりに来たかも」


「うん。ここ、落ち着くでしょ」


 いつの間にかそばに来ていた美桜が、俺と神田さんの手を引いて立たせてくれた。


 そのあと、三人で他愛ない話をした。

 期末テストがやばいとか、部活の先輩がうざいとか、今日の給食のメニューがどうとか。


 “事件”を一ミリも含まない会話が、今は何よりの救いだったんだと思う。


 神田さんは帰り際、何度も振り返り、最後にもう一度だけ深く頭を下げて去っていった。


 あの事件で、多くの人が傷を負った。

 それでも最悪の事態は避けられたのだと、そう思いたかった。


 相澤くんも、一時はどうなるかと思ったが、あれ以降は何事もなく過ごしている。相変わらず口は悪いし調子にも乗るけれど、教室の空気を回す役はちゃんと続けていた。


 俺の中学生活も、思ったより軌道に乗っていた。



「朱音さん、『しばこー』の動画見た?」

「……あー、まだ見てない」

「マジ? 今度のやつ神回だから見てみてよ。神だから」


 ゲームもSNSも、施設の制限のせいで俺は話題に乗り切れない。

 それでも、こんなふうに適当に相槌を打ちながら輪の中にいられるだけで、なんだかちゃんと中学生をしている気がした。


 愛ちゃんや神田さんたちとのわだかまりも、少しずつ薄れていった。

 神田さんも、前みたいにまだ明るくは笑えないまでも、休み時間に顔を見せてくれるようになった。


 そして、美桜も。


 新しいクラスに馴染みながら、毎日、昼休みになるとうちの教室を覗きに来る。

 その視線が俺を見つけた瞬間だけ少し柔らかくなるのが、最近はもう当たり前になっていた。


 あの夜から二ヶ月。

 俺たちは、急に何もかもが変わったわけじゃない。


 手を繋ぐ時間が少し長くなって、夜に小さなキスをすることが増えて、言葉にしなくても「好き」がそこにあると分かるようになった。

 でも、それでもまだ、全部を言い切れるほど器用じゃない。


 俺と美桜が付き合っていることは、誰にも話していない。

 中学生の恋愛が悪いわけじゃない。ただ、女子同士というだけで、余計な好奇の目に晒されるのは目に見えている。


 今の俺たちが守りたいのは、この静かで穏やかな日常だった。


 夜。

 いつも通り美桜と同じ部屋で、同じベッドに入る。


 電気を消してからの時間が、俺たちの本当の居場所だった。


「ねえ」


 暗闇の中、美桜が寝返りを打った気配がした。


「今日さ、相澤となんの話してたの?」


 美桜は昼休みしかうちのクラスに来ないくせに、こういう時の嗅覚は探偵並みだ。


「え、えっと……部活の話かな。サッカー部の二軍に入れそうとか、筋トレのメニューがどうとか」

「もう……朱音はそんなの聞かなくていいの」


 暗がりでも分かるくらい、美桜が口を尖らせている。

 分かりやすい嫉妬。……可愛い。


 俺はつい、指先でその尖った唇をつまんでしまった。

 美桜が一瞬、きょとんとする。


 次の瞬間、反撃が来た。脇腹をくすぐられる。


「……っ、ちょ、なにっ!?」

「朱音は私だけ見てればいいのー」

「や、やめっ……あはは、やめてってば……!」


 笑い声が漏れそうになるのを必死で堪えていると、廊下からギシッと床板の軋む音がした。


 俺と美桜は、同時に凍りついた。

 目が合う。呼吸が止まる。


 絶対、職員に見つかった。怒られる。


 数秒の沈黙。

 でも、それ以上は何も起きない。足音も、ドアが開く気配もなく、静寂だけが戻ってくる。


 俺たちは顔を見合わせたまま、こらえきれずに肩を震わせた。


「……ふふっ」

「……やばい、死ぬ……」


 笑いを噛み殺している間に、美桜がふっと距離を詰めてきた。

 抱きつくというより、俺の存在を確かめるみたいに、胸に俺の顔を埋める。


 体温が移る。

 とくとくと鳴る、美桜の心臓の音が聞こえる。


「朱音、大好き」


 その声は、昼間の明るい美桜とは違う。湿度を帯びた、夜の美桜の声だ。


 顔を上げると、窓の外の月明かりがカーテンの隙間から細く射し込み、美桜の輪郭を白く縁取っていた。

 俺は、ほんの少しだけ息を吸って――美桜にキスをした。


 長くはしない。触れるだけ。おやすみの挨拶みたいに。


 俺の背中に回された美桜の指が、パジャマの生地をぎゅっと掴む。

 その小さな力が、今夜はやけに重くて、切なくて、どうしようもなく愛おしかった。




 季節は巡り、夏直前。期末テストの足音が近づく頃。

 教室の空気がどこか焦げついたようにぴりぴりし始める時期だ。


  そんなある日、神田さんが俺の席に来た。


 昼休みの終わり際。

 次の授業の準備で教室がざわつく中、神田さんだけがそこだけ違う空気をまとっていた。


「……朱音さん」


 声をかけられて顔を上げる。

 その目が、怖いくらい真っ直ぐで、真剣だった。


「どうしたの? 改まって」


 神田さんはすぐには答えなかった。

 周りを気にするように一度だけ教室を見回してから、スカートの端をぎゅっと握る。


「……放課後、少し時間ある?」


 その声が、妙に硬かった。


「あるけど」


「図書室で話したいの。できれば、美桜さんと愛ちゃんも一緒に」


 胸の奥が、ひやりと冷えた。


 ただ事じゃない。

 神田さんの顔を見れば分かる。


「分かった。放課後、図書室で」


 そう答えると、神田さんは少しだけ安心したように息を吐いた。

 けれど、その指先の震えは止まらないままだった。


 そして、席に戻りかけた神田さんは、ほんの一瞬だけ立ち止まる。


「……友達のことで、相談があるの」


 消えそうな声だった。


 それだけ言って、神田さんは自分の席へ戻っていく。

 俺はその背中を見つめながら、胸の奥に嫌な予感が沈んでいくのを感じていた。


 窓の外では、初夏の光が校庭を白く照らしている。

 なのに、教室の中だけ少し温度が下がったみたいだった。


 放課後、図書室。

 そこで聞く話が、きっと軽いものであるはずがない。




近況ノート作成しています。

AIイラスト付きです

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