第24話 美桜
神田さんの誘拐事件が終わり、退院してから迎える朝だった。
カーテンの隙間から射し込む冬っぽい光が、容赦なく現実だけを部屋に落としていた。布団の中はまだぬるいのに、空気は薄く冷たい。
昨夜の、あの柔らかな熱。唇に残った、微かな痺れ。
夢だったと言い切るには、俺の心臓はまだ、あまりにもうるさかった。
ダイニングに行くと、すでに美桜がいた。
キッチンカウンターのところで、トースターの前に立っている。ぱちぱち、という小さな音。焼けたパンの匂いだけが、妙に生活感を持っていた。
「……おはよう」
「あ……おはよう、朱音」
目は合わなかった。
いつもなら、美桜のほうから「よく眠れた?」って肩を寄せてくる。なのに今日は、トーストをじっと見つめたまま、視線が動かない。
昨夜の激情の欠片はどこにも見えなかった。ただ、ぴんと張り詰めた空気だけが、二人の間に薄い壁みたいに立っていた。
朝食の音だけが、不自然に響く。
食器が当たる乾いた音。コップを置く小さな衝撃。咀嚼の気配。
普段なら気にも留めない生活音が、今日は沈黙を強調するための道具みたいだった。
「……行こっか」
「うん……」
玄関で靴を履く時、美桜の指先が一瞬だけ俺の袖に触れた気がした。
でも、それはすぐに引っ込んで、何もなかったみたいに鞄の紐を握り直す。
施設を出て、いつもの通学路を歩く。
朝の空は薄い水色で、息が白い。自転車のベル、遠くの踏切の音、誰かの笑い声。全部が普通なのに、俺たちだけが少し違う場所にいるみたいだった。
いつもなら、当たり前みたいに手が重なる。
俺が差し出すか、美桜が袖を掴むかして、体温を確かめ合いながら歩くのが二人のルールだった。
ふとした瞬間、俺の右手が美桜の左手にかすめる。
いつもなら、そのまま指を絡める距離。
けれど、美桜の指先がぴくりと跳ねて、逃げるように鞄を握り直した。
昨日のことは、なかったことにはならない。
昨日、二人で神田さんを守り抜いたはずなのに。
今の美桜は、誰よりも遠い。
俺が守りたかった「いつも通り」は、俺たちの唇が触れ合った瞬間に、もう元の形ではいられなくなっていた。
自責とは少し違う、胸の奥をぎゅっと締め付けるような疼きが、喉の奥までせり上がってくる。
学校までの道のりは、永遠に続くかと思うほど長くて、残酷なほどあっけなく終わった。
「……じゃ、またあとで」
「うん」
教室の前。
美桜は短い挨拶だけ残して、逃げるみたいに自分の教室へ向かっていった。一度も振り返らない。
俺は、熱を持ったままの右手を、虚しく握り込む。
繋げなかった手のひらが、冷たい空気の中で、馬鹿みたいに重かった。
久しぶりの登校だった。
神田さんの誘拐事件が片づいて、俺が退院してから初めての、普通の朝。
教室の扉を開けた瞬間、空気が一度止まった気がした。
クラスの視線が、いっせいにこっちに集まる。机の脚が擦れる音まで、妙に大きい。
目の端で、愛ちゃんが走ってくるのが見えた。
「朱音ちゃん!」
走ってくるな、と思った瞬間、もう遅い。
愛ちゃんは勢いのまま抱きついてきた。制服の布が擦れて、柔軟剤の匂いが鼻に届く。
「大丈夫だった? ほんとに……!」
「う、うん。もう大丈夫……」
「も、もう、めっちゃ心配したんだから……!」
愛ちゃんは言い終わらないうちに泣き出してしまって、俺の胸のあたりがじんと痛くなった。
俺は愛ちゃんの背中に手を回して、ぎこちなく抱き返す。
「ごめんね……心配かけた」
声に出した瞬間、自分の喉が震えた。
俺も泣きそうで、目の奥が熱くなる。
「朱音さん、本当にごめんね……」
そう言って頭を下げてきたのは、神田さんといつも一緒にいた子たちだった。
顔色が悪い。目が腫れている子もいる。
ああ、俺だけじゃない。みんな、引きずってる。
肝心の神田さんは、まだ登校していないらしい。
俺の胸が、重く沈む。
俺は、人を守りたかった。
だけど、俺も守られる側になっているのを感じた。
その日は授業というより、スクールカウンセラーの面談が大半だった。
事態を重く見たのか、関係者は全員呼ばれて、個別で話すことになったのだ。
廊下の端。保健室の近くの小さな部屋。
「相談室」と書かれた札。壁には「こころの健康」みたいなポスター。消毒液の匂いが薄く漂っていた。
未成年が被害者の時、心のショックが表に出ない人もいる。
だから、カウンセラーは事件そのものを根掘り葉掘り聞かない。
聞かれるのは、だいたいこういうことだ。
「夜、眠れてる?」
「ごはん、食べられてる?」
「体の調子はどう?」
俺は椅子の背もたれに寄りかかって、いつも通りの顔を作った。
「……変わりありません」
言い終わった瞬間、胸の奥が少しだけちくりとした。
変わりがないわけない。
でも、今の俺はそれを言うのが怖い。言ったら崩れそうで。
面談の順番を待つ場所に、美桜もいた。
廊下の椅子に座って、膝の上で手をぎゅっと握っている。
目が合うと、美桜は小さく手を振ってくれた。
でも、口元は固い。笑えていない。
その後の授業は一応受けたはずなのに、ほとんど記憶がない。
黒板の字も、先生の声も、遠くで鳴ってるだけ。
端から見れば、事件のショックで呆けているように見えただろう。
でも違う。
俺の頭の中は、美桜のことだけだった。
帰り道も、施設に着いてからも、俺たちの間に漂う重い沈黙は変わらなかった。
夕食のテーブル。
いつもなら、ゆかりがくだらない話を投げて、清美さんがツッコミを入れて、誰かが笑って、となるはずなのに。
今日は、箸が器に当たる音だけが空っぽに響く。
「ねえ、二人ともさ。なんか変じゃない?」
耐えきれなくなったのか、ゆかりが眉を下げて顔を覗き込んできた。
無邪気な声が、今は針みたいに痛い。
俺が口を開こうとするより早く、美桜が立ち上がった。
「……ううん。なんでもない。ごめん、ちょっと……お腹いっぱい」
「あ、美桜?」
美桜は逃げるように自室へ戻っていった。
残された俺は、半分も減っていない白米を見つめることしかできなかった。
美桜の気持ちには、気づいている。
昨日のキス。熱っぽい視線。俺を見る時の、痛いくらいの執着。
全部、分かっている。
けれど、簡単には応えられない。
風呂場の鏡に映るのは、華奢で可愛らしい少女、田中朱音。
でも、その奥にいるのは、四十一歳まで別の人生を生きてきた俺だ。
美桜はまだ若い。
これから何にでもなれる、真っ白なキャンバスだ。
そんな彼女の初めての恋の相手として、自分を受け入れていいのか。ずっと、その問いから目を逸らしてきた。
俺が受け入れることは、美桜を騙し続けることになるんじゃないか。
美桜の大切な時間に、俺の迷いや嘘を混ぜることになるんじゃないか。
罪悪感が、胸の奥で黒い泥みたいに渦巻いていた。
ベッドに入っても、思考は堂々巡りで眠りは浅い。
ふと、意識が浮上する。
部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。
重たい瞼を開ける。
暗闇に目が慣れてくると、完全に閉めたはずのドアが、ほんの少しだけ開いているのに気づいた。
数センチの隙間。
そこから、廊下の薄明かりが細い線みたいに漏れている。
ぼんやり見つめていると、隙間の下の方に、見覚えのあるパジャマの裾が見えた。
誰かが、そこにいる。
入ってくるでもなく、去るでもなく。ただ、そこに。
俺は音を立てないようにベッドを降り、裸足のままドアに近づいた。
ドアノブに手をかけ、ゆっくり引く。
「……あ」
そこに立っていたのは、美桜だった。
俯いたまま、しくしくと泣いていた。頬にある涙の筋が月明かりで反射している。
俺は美桜の手を握った。
びくりと美桜の肩が震える。指先は氷みたいに冷えていた。
俺は無言で手を引き、部屋の中へ招き入れる。
美桜は抵抗しない。されるがままベッドに腰を下ろして、俯いたまま、声も出さずに涙を落とし続けた。
俺もその横に座る。肩が触れ合う距離。
美桜の震えが伝わって、俺の胸もまたうるさくなる。
「……ごめんね」
沈黙を破ったのは、美桜だった。掠れた、消えそうな声。
「ごめんね。私……どうしても、朱音のこと好きって気持ち、止まんない」
懺悔みたいに聞こえた。
「一緒にいたい。……朱音が誰かと話してるの見ると、胸がざわざわする。苦しくて……やだって思っちゃう。私だけ見ててほしいって……思っちゃう」
美桜が胸元をぎゅっと掴む。抑えつけるみたいに。
「だめだって分かってる。依存したらだめだって。離れなきゃって……頭では分かってるのに……っ」
声が途切れて、涙がまた落ちる。
「心が……言うこと聞いてくれない……」
その姿を見て、俺の中の最後の迷いが砕けた。
俺が「守るため」とか「おっさんだから」とか、理屈で逃げてる間に、美桜はこんなふうに自分の心と戦って、傷ついていたんだ。
俺は美桜の冷たい手を両手で包んだ。
温めるみたいに、逃がさないみたいに。
「……美桜」
名前を呼ぶと、濡れた瞳が揺らぐ。
「……私のほうこそ、ごめんね」
言いながら、胸の奥が痛む。
「私も……怖かった。美桜の気持ちに気づくのが」
「え……?」
「ずっと、守らなきゃって思ってた。大事すぎて……勝手に線を引いてた。そういうふうに見ちゃだめだって」
俺は、嘘をやめたかった。
言葉を選びながら、でも逃げない。
「正直に言うね。私はまだ、美桜が私に向けてくれてる『好き』と同じくらいの気持ちを、返せるか分からない。……今は、分かんない」
美桜の表情が少しだけ揺れる。
俺は手を離さない。むしろ、強く握り返した。
「でも、美桜が大切。誰にも渡したくない。近くにいたい。……それは本当」
「だから、これから知っていきたい。美桜と一緒に」
一瞬、美桜が息を止めるのが分かった。
「守るためじゃなくて……ちゃんと、向き合いたい。私が美桜をどう思うのか。私自身も、ちゃんと知りたい」
美桜の気持ちから逃げたくない。
俺はもう、田中朱音として向き合うしかないのだと思った。
「……こんな私でも、いい?」
問いかけた瞬間、美桜の瞳から、堰を切ったみたいに涙が溢れた。
でもそれは、さっきまでの苦しい涙じゃない。
「……ずるい」
美桜が、涙声で笑いそうになる。
「朱音……ずるいよ。そんなの、断れるわけないじゃん……」
「……うん。ごめん」
「謝んないで。……うれしいの」
美桜が俺の肩に頭を預けてくる。
冷え切っていた体温が、俺の熱と混ざって、じわっと戻っていく。
美桜の手が俺の手を握り返す力は、痛いくらい強かった。
まだ「好き」とは言えない。
嘘で埋めたくない。
でも、この重みを大事にしたい。
俺はそれだけを、確かに思っていた。
「……朱音」
美桜が顔を上げる。
昨日みたいな衝動じゃない。
お互いの気持ちを確かめるみたいに、俺たちはゆっくり距離を縮めた。
重なった唇は、火傷みたいな熱さじゃなくて、ひどく優しくて、甘かった。
触れ合うだけの、約束みたいなキス。
涙の味がした。
でもそれは、今までで一番、心に染みる味だった。
女性同士だとか、中身がおっさんだとか。
簡単に消える問題じゃない。
それでも、今この瞬間に感じた温もりだけは、疑いようがなかった。




