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第22話 証拠


 時間を見ると、9時45分だった。


 フードコートは、朝と昼の間みたいな中途半端な賑わいを見せている。揚げ物の油、甘いクレープ、コーヒー。店ごとの匂いが混ざったその空気が、いつもなら食欲をそそるはずなのに、今日はただ胸を悪くするだけだった。


 俺は、さっき自分で説明した言葉を頭の中でもう一度なぞっていた。


 相手が持っているのは、ビデオ通話を録画した動画データだ。

 相澤くんのスマホには、その映像は一枚も残っていない。写真も動画も、こっちにはない。

 つまり、こちらが通報や拡散防止の手続きをするには、相手が実際に送信してくるファイルを、どこかで一度受け取るしかない。


 その説明をした時、美桜はすぐに顔をしかめた。


「それって、誰かが見なきゃいけないってことじゃん」


 そうだ。

 だから、本当はやりたくなかった。


 でも、愛ちゃんは少し青い顔のまま、それでも頷いた。


「……相澤くんを助けるために必要なんだよね。だったら、私が受ける。あとでちゃんと消してね」


 軽い調子では言っていたけど、無理してるのはすぐに分かった。

 美桜は最後まで反対していた。


「朱音、これ失敗したら最悪だよ。愛まで巻き込むの、私は嫌」


 分かってる。

 分かってるけど、相手しか現物を持っていないなら、こちらで確保できる最初の受信データが必要だった。


 ブブッ。


 相澤くんのスマホが、テーブルの上で短く震えた。


「あ、来た」


 相澤くんの声が、薄い紙みたいにかすれている。インスタにDMが届いたんだ。フォロワーが愛ちゃんだけの、あの『本気出したら強い俺』アカウントに。


 相澤くんは反射的にスマホを胸に抱えそうになる。

 でも、美桜の鋭い視線がそれを止めた。


「みんなに見せて。特に朱音に見せないと分からないでしょ」


 相澤くんは喉を鳴らして、震える手でゆっくりスマホをテーブルの真ん中に置いた。


 四人の顔が、自然に近づく。画面のバックライトがやけに眩しくて、目が痛い。


 DMを開く。


 Christine:時間なりました。アップルカード準備できましたか。


 たった一行。

 なのに、一瞬で場の空気が冷え切った。


「ど、どうするの……?」


 相澤くんの口元がひきつる。昨日の緊張が、そのまま倍になって戻ってきたみたいだった。指先が落ち着かず、ジーンズの膝を何度も擦っている。


 相手には既読がついていない。さっき、開封証明はオフにした。見ても既読はつかない。ほんの小さな抵抗だけど、相手にこちらの反応を返したくない。


「ね、ねぇ……どうすればいいの? 返事は?」


 相澤くんは、居ても立ってもいられない。椅子の上で腰が浮きかけている。


「うるさい。黙ってて」


 美桜が睨むだけで相澤くんを座らせた。それから美桜は、俺を心配と信頼が混ざった目で見る。


 頼られてる。

 だからこそ、間違えられない。


 Christine:無視ですか。


 相澤くんが俺をちらちら見る。視線が刺さって、すぐ逸れる。


 俺の頭の中では、手順が組み上がる。

 焦るな。やれることだけを、今この場で。現場で一番危ないのは、パニックになった味方だ。


 Christine:わかりました。では、あなたの画像ばらまきます。


「ねぇ、ねぇ! なんとかしてくれるんじゃねぇの!?」


 相澤くんの声が大きくなって、近くの席の客が一瞬こっちを見た。美桜の眉がぴくりと動く。愛ちゃんは肩をすくめて、不安そうに唇を噛んだ。


 俺は、喉の渇きを飲み込んで言う。


「……もう少し待って。今は何もしちゃ駄目。信じて」

「そ、そんな……」


 相澤くんの目が揺れて、もう涙が溢れそうだった。


 待つ。

 相手が何を送るか、それを見てから動く。ここでこちらが先に反応したら、相手のペースに巻き込まれる。


 その時だった。


「あ……来た……!」


 声を上げたのは、愛ちゃんだった。


 愛ちゃんのスマホが震えて、通知が光る。愛ちゃんは画面を見た瞬間、息を吸い込んで固まった。口に手を当てたまま、瞬きを忘れたみたいになる。耳まで赤く染まっていく。


「え、え……なにこれ……」


 愛ちゃんは震える指でスマホをテーブルに置いた。


 次の瞬間、相澤くんが信じられない速さで愛ちゃんのスマホを両手で覆った。


「み、見るな!!」


 声が裏返っている。隠す手が必死すぎて、逆に痛々しい。


 俺の胃の奥が冷たくなった。


 それは、生々しい相澤くんの裸の画像だった。

 スマホを持って、姿見で自分を写している。何も身につけず、陰部までくっきり写っていた。


「う、うぅ……もう終わりだ……」


 相澤くんは、とうとう泣き始めた。肩が震えて、呼吸が乱れている。最悪の恥を、女子に見られた。その絶望が彼を押しつぶしている。


 今は感情を抱きしめてやれる状況じゃない。

 俺は、声を切る。


「相澤くん、そのスマホを貸して」

「え? いや、これは……」

「いいから、早く!」


 俺の声が、自分の耳に痛いほど響く。

 でも、今は時間がない。拡散の速度は、ためらいより早い。


 相澤くんは勢いに押されて手を離した。


 俺はすぐに愛ちゃんのスマホを取る。

 今、必要なのは、羞恥への共感より先に、証拠と対処だ。


「愛ちゃん、ごめん。今だけ使う」

「相澤くん、見るのつらいなら見なくていい。でも記録は取る」


 まず、DM画面をスクリーンショット。

 相手のアイコン、アカウント名、送信時刻、メッセージ文、添付画像が一枚で入るように撮る。

 次に、プロフィール画面へ飛んでスクリーンショット。

 投稿ゼロ、フォローゼロ、フォロワーゼロ、英字と数字の羅列のアカウント名、簡体字混じりの短いプロフィール文。そこまで押さえる。


「ちょ、ちょっと待って……違うところに送るの……?」


 愛ちゃんの声がまだ震えている。顔色が悪い。


「違う。守るための手続きだから。私がやるから」


 言いながら、ブラウザを立ち上げる。

 まず『Take It Down』。

 画面の案内に従って進める。送られてきた画像から、画像そのものではなくハッシュ値を作って、協力しているサービス側で一致画像の検出や削除につながりやすくする仕組みだ。万能じゃない。でも、今この場で張れる網としては最大だ。


 次に『CyberTipline』。

 児童性的搾取の通報窓口だ。相手のアカウント、DM文面、要求額、送信時刻、送られた画像の有無。入力項目は多い。焦りで指が滑りそうになるけど、一つずつ埋めていく。


 その間、インスタの通知がまた光った。


「あ、また来た……!」


 美桜が言う。声が硬い。


 俺はDMに戻る。

 今回もChristineからだった。文章だけじゃない。次の画像も届いている。


 愛ちゃんがまた口を押さえて目を逸らす。

 相澤くんは嗚咽を噛み殺している。


 俺はそれもスクリーンショットで記録する。送信時刻。画像の枚数。DM文面。

 そして通報内容を更新する。


 追い打ちみたいに、相澤くんのスマホにもメッセージが来る。


 Christine:今、あなたの汚い体の画像を鈴木愛に送った。

 Christine:フォロワーを消しても無駄。アップルカード送れ。

 Christine:さもないと、あなたの人生を終わらせる。他の人にも送る。


 金髪の少女のアイコン。軽い見た目が、逆に不気味だった。言葉の一つひとつが、相手の呼吸を止めるために研がれている。


「田中さん! もういいかげんにしろよ! 俺は信じてたのに! もう人生終わりじゃねぇか!」


 相澤くんが叫ぶ。10時を過ぎたフードコートは人が増えて、笑い声や食器の音が大きくなっている。世界は普通に回っていて、こっちの地獄だけが置いていかれる。


「あぁぁぁ……!」


 相澤くんは泣き声を押し殺しきれず、机に額を落としそうになる。


 愛ちゃんが、そっと相澤くんの肩に手を置いた。愛ちゃんの手も震えている。直視してしまった衝撃がまだ残っているはずなのに、それでも必死に声を作っていた。


「大丈夫、大丈夫……こんなんで人生の終わりにはならないから。大丈夫」


 繰り返すたびに、愛ちゃんの声が少しだけ強くなる。その体温が、相澤くんの崩壊をぎりぎりで食い止めていた。


 俺はインスタ側の通報画面も開く。

 Christineのアカウントを「脅迫」「性的な搾取」で報告し、ブロックする。


 スクショ保存。

 通報送信。

 ハッシュ登録。

 アカウント報告。

 ブロック。


 できることを、順番に全部やる。


 最後に送信ボタンを押して、やっと息を吐けた。


「……今、この場でできることは全部やった」


 Christineからのメッセージは来ていた。

 でも、ブロック以降、追加の通知は止まっている。少なくとも、今は。


 俺はスマホを置いて、椅子から立ち上がった。

 そして、机に突っ伏して震えている相澤くんの横に回り込む。


 そこで一度、美桜を見た。

 美桜は泣きそうなくせに怒っていた。

 愛ちゃんは、明らかに無理をして笑っていた。


 俺は、腹の奥が冷えるのを感じながら、深く頭を下げた。


「……ごめんなさい」


 相澤くんの嗚咽が止まる。

 ゆっくりと顔を上げた相澤くんの目は、真っ赤に腫れていた。怒りと、絶望と、混乱が混ざった目だ。


「……なにが、ごめんだよ。結局、送られたじゃんか……愛ちゃんに見られたじゃんかよ!」

「ごめん。……分かった上で、止めなかった」

「は……?」


 美桜も、愛ちゃんも黙る。


 俺は顔を上げて、相澤くんの目をまっすぐ見た。


「相手しか録画データを持ってなかった。相澤くんのスマホには、画像も動画も残ってなかった。だから、こっちで通報や登録に使える“現物”を確保するには、相手が実際に送信したデータを一度受け取るしかなかった」


「それが必要だって分かってて……止めなかった」


 喉が痛い。

 でも、逃げちゃいけない。


「愛ちゃんにも、傷つく役をやらせた。相澤くんにも、一番見られたくない形で傷を増やした。本当に、ごめんなさい」


 もう一度、深く頭を下げる。


「最低だって思うなら、その通りだと思う。でも……相手しかデータを持ってないまま潜られるのが、一番怖かった」


「ここで受け取って、すぐ証拠化して、通報と拡散防止に回すしか思いつかなかったの」


 フードコートの喧騒が、遠く聞こえる。

 相澤くんは何も言わない。唇を噛んで、拳を握りしめて、震えている。


 美桜が口を開く。


「私、これ嫌だった。朱音が正しいことしてるのは分かる。でも、愛まで巻き込むのは嫌だった」


 声が震えている。

 でも、まっすぐだった。


「……でも、今それを責めるのは後にする。まず、相澤を戻すのはこれしか無いと思うから」


 愛ちゃんも小さく言った。


「……びっくりしたし、正直、最悪だった。でも、私、来る前に説明は聞いてたから」


 それでも、きつかったのは声で分かった。


「だからもう、これで終わりにしよ。これ以上、相澤くんを一人で沈ませるのなし」


 長い沈黙のあと、相澤くんがぽつりと言った。


「……最悪だ」


 自分に言い聞かせるみたいな声だった。


「最悪だけど……でも、クラス全員に見られるよりは……マシ、だよな」


 ちらりと愛ちゃんを見る。


「鈴木さん……ごめん。変なもん見せて」

「あー、もう! いいから! 気にしてないって!」


 愛ちゃんはわざとらしく手で顔を扇いだ。まだ耳は赤いけれど、その笑顔が場の空気を少しだけ救ってくれる。


「で、これ! これどうすんの!?」


 愛ちゃんが自分のスマホを指差した。画面には、まだあの画像が表示されたままだ。


「私が消すね」


 俺が手を出すと、愛ちゃんは「お願い」とスマホを渡してくれた。


 俺が画面を操作しようとすると、相澤くんがびくっとして視線を向けた。自分の恥ずかしい画像がどうなるのか、気になって仕方がないんだ。


 その瞬間、愛ちゃんが後ろから相澤くんの両目を両手でばっと覆った。


「見ちゃだめ!」

「うわっ!? な、なに!?」

「見たら思い出すでしょ! 終わったことは見ないの!」

「ぐぐ……く、苦しい……!」


 愛ちゃんの勢いに、相澤くんがじたばたする。

 その隙に、俺は画像を削除する。


 でも、それで終わりじゃない。

 最近削除した項目からも消す。そこまでやらないと残る。


 俺は冷静にフォルダを開く。確認のポップアップが出る。


『この写真を完全に削除しますか? この操作は取り消せません』


 迷わず、赤い文字の「削除」をタップした。

 他の画像アプリも、クラウド系のアプリもない。共有履歴も残っていない。


 画面から、あの忌まわしい画像が消える。

 空っぽになったフォルダだけが、白く光っていた。


「……消えた。完全に」


 俺がスマホを掲げて見せる。


「ほら、見て相澤くん。もうここにはない」


 愛ちゃんがぱっと手を離した。

 解放された相澤くんは、乱れた髪のまま、おそるおそる画面を見て、それから大きく息を吐き出した。体の芯に入っていた力が、一気に抜けていくようだった。


「……終わった……?」


「うん。少なくとも、今こっちで見えてるデータは消えた」

「通報もしたし、登録もした。すぐ全部が消える保証はないけど、何もしないままよりずっといいところまで持っていけた」


 俺が答えると、相澤くんは両手で顔を覆った。


「……よかったぁ……」


 指の間から、涙がこぼれ落ちた。

 今度の涙は、恐怖の涙だけじゃなかった。


 俺は、震える相澤くんの背中を見ながら、心の中でもう一度謝った。


 被害はゼロじゃない。

 傷も残る。


 それでも――君の人生は、まだここで終わらない。

 そう信じたかった。


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