第21話 本気
目の前の少年は、水の入ったコップを割れそうなほど強く握りしめていた。
俯いたまま、肩だけが小さく上下する。呼吸はしているのに、心の中身だけが真っ暗な水底へ沈んでいくような顔だ。
助けたい。
助けたいのに、俺の手持ちのカードは少ない。
「期限、明日の十時だよね?」
俺が確認すると、相澤くんはこくりと頷いた。
その表情は、中学生が背負うべきものじゃない。
警察に相談、という選択肢は当然ある。
でも、今この場で相澤くんが求めているのは、心の整理や正論じゃない。明日の十時という締め切りを、どう越えるかだ。
相手は海外の捨てアカウント。捕まえるには時間がかかるし、削除要請を出しても、すぐ反応が返るとは限らない。何より、デジタルの拡散は待ってくれない。
頭の中で、状況を組み直す。
今すぐ相手を追い詰めるのは無理だ。だったら先に、相手が脅しに使えるものを減らすしかない。
画像そのものは、こっちでは消せない。
でも、ばら撒く先は減らせるかもしれない。
「……やれることは、まだあるかもしれない」
相澤くんがぱっと顔を上げた。
その目が、溺れる寸前の人みたいに必死で、少し怖い。
「た、助けてくれんの……?」
「ただし、協力してもらうよ。変に自己判断しないで、私の言う通りに動いて」
「ほ、本当か? 俺、なんでもする!」
その“なんでも”が危ない。
今の相澤くんは、パニックで判断力が落ちている。相手の言いなりに金を払おうとしたのと同じ勢いで、今度は俺に依存しかけている。
でも今は、まず暴走を止めないといけない。
「今夜のうちに、まずやることがある」
相澤くんが目を瞬く。
隣で、美桜も俺を見る。
「まず、相手にはもう何も送らない。返信もしない。追加の謝罪も交渉もなし。スクショを全部残す。DM、アカウント、脅迫文、見えるものは全部。それから、勝手にフォローもフォロワーも触らないで。そこは明日、私たちと一緒にやる」
「え、今やっちゃダメなの?」
「ダメ。焦って操作すると、余計なところを消したり、相手に気づかれたりするかもしれないから」
相澤くんは唇を噛んで、それでも頷いた。
「……分かった」
「で、明日、朝九時。もう一回集合しよう」
「え、九時? 期限10時なのに?」
美桜が先に聞いた。
俺は頷く。
「ショッピングモールの開店直後なら、人はまだ少ないし、落ち着いて操作できる」
「それに、相手が動き出す前に、こっちで先に整理したい」
「一時間しかないんじゃなくて、一時間で終わらせるために、九時に集まる」
相澤くんはまだ不安そうだった。
「……お金は?」
「集めなくていい。払わないで。絶対に」
相澤くんの喉がごくりと鳴った。
張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩む。
「……まじ? 本当に、もう払わなくていいのか?」
「うん。少なくとも、今この時点で払うのは一番だめ」
「……そっか」
その一言に、力が抜けた音が混じる。
けれど、まだ終わりじゃない。
俺は続けた。
「ただし、愛ちゃんにも来てもらう」
「は?」
相澤くんが顔を上げた。
美桜も小さく頷く。
「朱音と私は、家のフィルターでSNSがまともに使えないの。インスタの細かい操作とか、確認とか、実際に触れる人が必要なの」
俺も補足する。
「愛ちゃんならインスタに慣れてるし、変なことをするタイプじゃない。操作を手伝ってもらう。でも、相澤くんが嫌なら、別の方法を考えるよ」
相澤くんは少し黙った。
恥ずかしいんだろう。そりゃそうだ。誰にも知られたくない話だ。
でも、もう一人では抱えきれないところまで来ている。
「……鈴木なら、まあ……。軽そうだけど、変なとこで言いふらす感じでは、ないし」
愛ちゃんへの評価が雑だけど、一応了承はしたらしい。
「じゃあ呼ぶね」
美桜が短く言った。
その声には、まだ相澤くんへの警戒が残っていた。
そこでようやく、相澤くんは椅子の背にもたれた。
少しだけ顔色が戻る。
「……助かる。じゃ、じゃあ明日9時な。俺、これ払ってくる!」
伝票を鷲掴みにして、相澤くんは逃げるように店を出ていった。
その背中を見送りながら、美桜が呆れたように息を吐く。
「……何あれ。軽すぎじゃない?」
口を尖らせたまま、俺を見る。
「朱音、優しすぎ。ああいうの、図に乗るタイプだよ」
「うん……ごめん。でも、困ってるのは本当だから。放っておけなくて」
美桜が体を寄せてきて、腕が当たった。飲みかけのココアが、カップの縁で揺れてこぼれそうになる。
「……無理しないでね」
小声。
怒ってるふりをしているけど、心配の色が混じっている。
「うん。大丈夫」
そう答えながらも、相手は姿の見えない犯罪者だ。綱渡りになるのは間違いなかった。
次の日、午前9時。
開店直後のショッピングモールのフードコートは、まだ客がまばらだった。清掃スタッフがモップをかける音が響き、コーヒーの香りとパンの焼ける匂いが漂っている。
集まったのは、俺と美桜、相澤くん――そして愛ちゃんだった。
愛ちゃんは苺パフェを食べながら、軽いテンションで言った。
「いやー、朝から呼び出されるとは思わなかったわ」
「鈴木、本当にごめん。助かる」
相澤くんが先に頭を下げた。
昨日よりは、少しだけまともな顔をしている。
美桜がすぐ釘を刺す。
「相澤は、愛ちゃんにちゃんとお礼言って」
「あ、もう言ったし」
「もっとちゃんと」
「……鈴木愛さん。ありがとうございます」
ぎこちない。耳まで赤い。
恥ずかしさと不安と、女子三人に囲まれた居心地の悪さが全部混ざっている。
「いいよいいよ。てか、朱音ちゃんに頼まれたら来るし」
愛ちゃんはあっけらかんとしている。
その軽さが、今は助かる。
「で、朱音。どうするの?」
美桜が本題に戻した。
俺は、頭の中で組み立てた順番をひとつずつ並べる。
「まず、相澤くん。インスタの“拡散先”を減らしたいと思う」
「拡散先?」
「相手が脅しに使ってるのは、フォロワーにばらまくってことだよね。だから、フォロワーとフォローを全部整理する」
相澤くんがすぐに顔を曇らせた。
「でもさ……もう相手がスクショとか取ってたら意味なくない? 今さら消して刺激したら、何されるか……」
そこは正しい不安だ。
俺は頷いた。
「うん、完全には防げない。もう相手が控えてたら、それだけで終わりの部分もある」
「でも、今から増やさないこと、見える範囲を減らすこと、こっちで把握できる状態にすることには意味がある。やらないよりは、ずっといい」
相澤くんはまだ不安そうだったけど、黙ってスマホを出した。
「まず、アカウントを非公開にする。それから、プロフィールの特定要素を消す」
愛ちゃんが相澤くんの横に回り込んで、慣れた手つきで画面を覗く。
俺と美桜は、相手側から見えるように席を寄せた。
「次。フォロワーとフォローを全部消して」
「全部!?」
「全部」
美桜が即答する。
容赦がない。
相澤くんは震える指で操作を始めた。
一人ずつ、削除。解除。削除。解除。
ぽち、ぽち、と画面を叩くたびに、相澤くんの顔が歪む。
「そんなの……友達減るじゃん……」
その小さい声に、一瞬だけ手が止まる。
俺はできるだけやわらかく言った。
「今は、人生の終わりを回避するのが先だよ。インスタの数字が減るのと、学校に行けなくなるのは、重さが違う」
美桜も続ける。
「インスタだけが友達じゃないでしょ。消えたくらいで終わる関係なら、それは今切れても同じだよ」
相澤くんは息を呑んで、また指を動かし始めた。
さっきより少しだけ速い。
「次に、愛ちゃん」
「はいはい」
「相澤くんをフォローして」
「おっけー」
愛ちゃんはスマホを操作しながら、ちらっと相澤くんの画面を見る。
そして、その瞬間に目を丸くした。
「……えっ。“本気出したら強い俺”ってなに」
「うっ」
「しかもこのアイコン、相澤くん本人じゃん」
「い、いいじゃん……!」
相澤くんが顔を沸騰させて、机に突っ伏しそうになる。
昨日すでに見ていた俺と美桜は、冷めた目で見守るしかない。
「本気出してこれ?」
「やめろ!!」
愛ちゃんがけらけら笑う。
でも、その乾いた笑いで、張りつめていた空気がほんの少しだけ軽くなった。
俺は息を整えて、相澤くんに向き直る。
アカウントはこれで、かなり空っぽになった。
「……うん。ここからが本番」
美桜がその横で、俺をじっと見ている。
無理するなよ、って顔だ。
分かってる。
でも、もう止まれなかった。




